「世界は幻想である」と言われると、あなたはどんな風に思うでしょうか?
目の前の机をコンコンッと叩いてみて「この机が幻想だとは思えないな〜」と思うかもしれません。
はたまた、手に握っているスマホの感触を感じて「このスマホが幻想だとは思えないな〜」と思うかもしれません。
僕も、目の前の机やスマホが幻想だとは思えません。
じゃあ、なぜ「世界は幻想である」だなんて言われるんでしょうか?
お話します。
頭の中の、イメージとしての世界は幻想ということ。
「世界は幻想である」と言われるとき、ほとんどの人は、目の前の世界に意識を向けると思います。
机やスマホや、パソコンや自分の体とか、物質的な何かを意識すると思います。
そして、「この世界が幻想だなんてとても思えない」と思うわけです。
でも、ここでひとつ質問です。
なぜ、「世界」と言われて、目の前の世界だけを意識するんでしょうか?
もし、「あなたにとっての世界とは?」という質問であれば、あなたは違う世界をイメージするんじゃないでしょうか?
地球的な何か、宇宙的な何かをイメージするんじゃないでしょうか?
「あなたにとっての世界とは?」と言われて、「今、目の前にある、気がついているこれだけが世界のすべてです」と答える人はほとんどいないでしょう。
同じ「世界」という言葉でも、使われ方によって違う意味を持ちます。
実は、覚者の言う「世界は幻想である」という言葉は、目の前の世界に対してではなくて(最終的には目の前の世界も幻想になりますが)、あなたが頭の中でイメージする世界が幻想であると言っているんです。
目の前の、スマホやパソコンや机は現実です。
なので、目の前の、スマホやパソコンや机は現実です。
それが、幻想だなんて思い込む必要はありません。
人によっては「覚者がそう言うんだから、目の前のこの世界は幻想なんだ」と信じ込もうとする人もいるかもしれません。
はたまた、世界が幻想である証拠を探そうとして、量子力学とか、霊性に興味を持つ人もいるかもしれません。
そんな必要はないんです。
それは、自我の戦略です。
(関連記事:そもそも、自我ってどういうものなのか?【エゴとは?自我とは?】)
そもそも、なぜ「世界は幻想である」と言われた時に、頭の中のイメージとしての世界ではなく、目の前の世界だけに意識を向けるんでしょうか?
あなたが、自分の意志で向けたんでしょうか?
恐らく、自然と勝手に、目の前の世界に意識が向いたはずです。
それは、自我の仕事です。
自我というのは、目の前の世界よりも、頭の中のイメージとしての世界の方を重要視しています。
イメージとしての世界というのは、自我にとっては、すべての基盤です。
それが幻想だということが、バレるわけにはいかないんです。
なので、イメージとしての世界が幻想だということがバレる可能性がある時、目の前の現実の世界にしがみつこうとすることがあります。
そうやって「世界は幻想である」という本当の意味を、巧妙に退けようとします。
ただし、一時的な現実です。
確かに、目の前のこの世界は現実です。
ただ、それは一時的なものです。
例えば、部屋の中で、イスに座って、机の上にのったパソコンで、このブログを読んでいるとします。
その時、その部屋、イス、机、パソコンは現実です。
でも、急にトイレに行きたくなって、部屋を出たとしたらどうでしょうか?
廊下に出た時、今までいた部屋は存在していると言えるでしょうか?現実だと言えるでしょうか?
「は?何言ってるの?現実に決まってるじゃん」と思うんじゃないでしょうか?
でも、それを確認することはできないんです。
頭の中の記憶を頼りに、今までいた部屋をイメージすることしかできません。
机をコンコンッと叩いてみて「この机が幻想だとは思えない」と思ったかもしれません。
でも、廊下にはその机はありません。
その机は、あなたの記憶の中にしかありません。
まさしく、その机は幻想なんじゃないでしょうか?
もちろん、トイレから部屋に戻ってくれば、その机は目の前にあって、コンコンッて叩いてみて、その存在を確認することができるでしょう。
でも、その時、今度は廊下やトイレが幻想になります。
実は、常にあなたの目の前に留めておける現実というのは、存在しないんです。
目の前の世界は、すべてが一時的な性質を持っています。
そういった意味では、目の前の世界も幻想になります。
そういった意味では、目の前の現実ですら、やがては幻想になっていきます。
ただ、多くの人はこのお話を屁理屈みたいに感じるんじゃないでしょうか?
「いやいや、記憶を頼りにしなければイメージできないとしても、世界は実際にあるはずでしょ!」って。
僕も、世界の実在性を疑いだしたとき、同じように思っていました。
自分が、ひどく見当違いなことを考えているようにも感じました。
人は、自分の中のイメージとしての世界を通して、目の前の現実の世界を解釈しようとすることにあまりにも慣れすぎているからです。
例えば、街を歩いていると、今まであったお店が、違うお店に入れ替わっていることってありますよね。
「あれ?なんか違うお店になってる!」とか思います。
イメージとしての世界と、目の前の現実の世界に違いがあるからこそ、そういったことに気がつくわけです。
でも、そのお店が入れ替わったのは、あなたがそのことに気がついた瞬間じゃないですよね?
あなたがそこを通りかかった瞬間に、お店が瞬時にして入れ替わったわけではないですよね?
あなたがそこを通りかかる前に、お店は入れ替わっていたはずです。
その時、あなたの中のイメージとしての世界の中のそのお店も、同時に入れ替わったでしょうか?
そんなことはなく、そのままなはずです。
であるならば、あなたの中のイメージとしての世界というのは、現実の世界とはかなりズレがあるんじゃないでしょうか?
それは、単なる記憶でしかありません。
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