僕はこのブログの中で、「『苦しみ』と『退屈』を避けないこと」と言っています。
(関連記事:「苦しみ」と「退屈」を避けないこと)
意外にも、「退屈を避けないこと」ということは受け入れられやすいように感じています。
でも、「苦しみを避けないこと」ということは、納得できないという人も少なくないかもしれません。
実際のところ、うちの妻は、「避けられるなら、苦しみを避けたっていいんじゃない?」と言ってきます。
もちろん、避けたっていいと思います。
避けるための方法も色々とあると思います。
むしろ、苦しみを避ける方法を実践していった先に、真理を悟るということがあると考える人もいるかもしれません。
世の中では、そういった考え方のほうが支持されやすいのではないかとも思います。
でも、このブログは本気の探求者を対象にしているということもあり、「苦しみを避けないこと」と言うようにしています。
もちろん、苦しみを避けたっていいんです。
ただ、苦しみを避けようとする限り、探求が終わるということはないかもしれません。
どうやって苦しみを避けるのか?
苦しみを避けるための方法は色々とあります。
例えば、人と会話するというのもひとつの方法かもしれません。
「私はこんなに苦しんでいる!」ということを人に聞いてもらうことによって、なんとなくスッキリしたりします。
お酒を飲んだりする人もいるかもしれません。
スポーツをする人もいるかもしれません。
病院に行って薬を処方してもらう人もいるかもしれません。
タバコを吸う人もいるかもしれません。
瞑想をする人もいるかもしれません。
実のところ、あらゆる行為が、苦しみを避けることに繋がっているとも言えるかもしれません。
そして、どの方法にも共通して言えるのは、それは一種の〝刺激〟であるということです。
人は、無意識に、その苦しみを上回る刺激を求めています。
例えば、散歩をすることだって、苦しみを避けるための刺激になり得ます。
でも、「それではダメだ!」と感じる人もいるでしょう。
刺激が足りないんです。
そういった人は、ランニングをするかもしれないし、お酒を飲むかもしれないし、マントラ瞑想をするかもしれません。
人は〝刺激〟に飽きてしまう生き物です
あらゆる行為が苦しみを避けるための方法になり得ます。
なので、人は、一生、苦しみを避け続けることができると思うかもしれません。
苦しみを感じたなら、それを上回る刺激を得ればいいわけです。
世界は刺激の宝庫でもあります。
それゆえに、人は世界に目を向けるべきだと思う人もいるかもしれません。
ただ、人は〝刺激〟に飽きてしまう生き物です。
例えば、毎日1杯のワインに満足していた人が、毎日3杯のワインじゃないと満足できなくなったりします。
ワインの刺激に飽きてしまうというか、慣れてしまうんですね。
この方向性の行きつく先は想像できるんじゃないでしょうか?
アルコール中毒になってしまうわけです。
お酒にはこういった危険性があるので、苦しみを避けるための方法として、瞑想が推奨されることもあるかもしれません。
でも、瞑想にだって危険性はあります。
瞑想というのは、基本的には、刺激の無い状態を目指していくものです。
でも、苦しみを避けたいという欲求が強い場合、むしろ、刺激を作り出していく方向に向かう可能性があります。
例えば、過度に意識を集中させることにより、そこに内的な刺激が起こることを期待してしまったりするかもしれません。
その結果どうなるのかといえば、神秘体験が起こったりもするわけです。
それは、本来の瞑想の目的とは違うのですが、そういった方向性にのめり込んでいってしまう可能性だってあるんです。
苦しみを避けるために必要な〝刺激〟がエスカレートしていく
「世の中苦しいこともあるけど、仕事終わりに美味しいごはんが食べられれば幸せだ」という人もいると思います。
ある意味でバランスが取れている人です。
そういう人も少なくないと思います。
でも、真理の探求に興味を持つ人は、おそらく、そうではないのではないかと思います。
「なぜ、私だけこんな目に合わなければいけないのか……」
「なぜ、苦しみは存在するんだ?」
「この世は間違っている」
「この体が死んだ後はどうなるんだろうか?」
様々な疑問、苦しみを抱くわけです。
そして、その苦しみを避けるための〝刺激〟を求めるようになります。
毎日の美味しいごはんという刺激だけでは満足できないでしょう。
このブログも、ある意味ではその刺激です。
知的な側面を刺激します。
このブログを読んで、「『苦しみを避けないこと』ってどういうことだ?」と思うかもしれません。
でも、人は刺激に飽きてしまう生き物です。
このブログにも、そのうち飽きてしまうかもしれません。
そして、苦しみを避けるために、もっと刺激的なブログや情報を探し始めるかもしれません。
お酒と同じで、知的な探求も、エスカレートしていきます。
その行きつく先はどこでしょうか?
考えすぎて、思考が迷宮入りしてしまう人も少なくないのではないかと思います。
そして、このエスカレート問題は、お酒や瞑想や知的な探求だけに限りません。
例えば、テロリストの中には、人を殺害することそのものに快楽を感じる人がいるようです。
日本に住んでいるとにわかには信じがたいと思います。
でも、これもエスカレート問題に関わっているとも言えるかもしれません。
例えば、紛争地域で生まれ育つなら、暴力行為は日常茶飯事かもしれません。
人は、そういった環境の中で、「暴力はいけないことだ」と思うでしょうか?
むしろ、苦しみを避けるための手段として、暴力行為が推奨される可能性も高いかもしれません。
人を殴ることを刺激的に感じるようになるかもしれません。
その行為がエスカレートした先には何があるでしょうか?
テロリストを批判することは簡単です。
でも、なぜ、テロリストは生まれるのかということを考えるならば、そこには、苦しみを避けるために〝刺激〟を求めるという、普遍的な構図があることに気がつくかもしれません。
苦しみも一種の〝刺激〟であり、飽きることによって消えてしまいます
どこまで刺激を追い求めるのかは人それぞれです。
毎日の美味しいごはんに満足できる人もいるかもしれません。
その一方で、「世界を平和にしなければならない」という衝動に突き動かされる人もいるかもしれません。
その反対に、「世界を破壊しなければならない」という衝動に突き動かされる人もいるかもしれません。
刺激を求めることは、一体どこまで続くんでしょうか?
仮に、世界が平和になったなら、人は満足するんでしょうか?
刺激を追い求めることはなくなるんでしょうか?
おそらくは、そうはなりません。
革命者が独裁者に変貌してしまうことはよくあることなんじゃないでしょうか?
〝善〟と〝悪〟は兄弟みたいなものです。
刺激を追い求めるという同じ〝種〟から生まれています。
結局のところ、苦しみを避けようとする限り、刺激を追い求めるという〝種〟が消えることはありません。
でも、苦しみとは一体何なんでしょうか?
世の中では、苦しみを避けようとすることは当然の行為だと思われています。
そこに理由は要りません。
ほとんど感情論です。
その理由を、しっかりと調べようとする人はほとんどいません。
確かに、苦しみというのは好ましくない刺激かもしれません。
でも、それは〝刺激〟なんです。
人は、あらゆる刺激に飽きてしまう生き物です。
であるなら、人は、その苦しみという刺激にも飽きてしまうんじゃないでしょうか?
人は、苦しみを避けるために、世界を破壊しようとすることもあります。
そしてまた、世界を救おうとすることもあります。
そしてまた、料理のレパートリーを増やそうとすることもあります。
そして、その構図を愛してもいるんです。
〝善〟と〝悪〟が兄弟みたいなものであるように、〝苦しみ〟と〝願望〟もまた、兄弟みたいなものなんです。
どちらかが消えれば、もう片方も消えてしまいます。
もちろん、その構図を楽しめているうちは、それを続けることができます。
でも、いい加減その構図を終わらせたいと思う人いるのなら、〝苦しみ〟という刺激そのものを調べてみてもいいかもしれません。
(関連記事:今すぐ苦しみを手放す方法【理想論】)