ヴェーダーンタ学派は、インドでも大きな勢力を誇っているようです。
ヴェーダの最後を締めくくる書物である、ウパニシャッドを主に研究する学派ですね。
そんな、ヴェーダーンタなのですが、「ヴェーダーンタ」という言葉ではなく、「アドヴァイタ・ヴェーダーンタ」という言葉が使われることもあります。
でも、「ヴェーダーンタ」と、「アドヴァイタ・ヴェーダーンタ」という言葉は、一体、何が違うんでしょうか?
アドヴァイタといえば、「非二元論」とか「ノンデュアリティ」という言葉を連想する人も少なくないと思います。
(関連記事:非二元論を超えて【アドヴァイタ・ノンデュアリティ】)
僕は「なんでヴェーダーンタという言葉に、アドヴァイタがつくんだ?」と思ったことがあります。
というわけで、今回は、「アドヴァイタ・ヴェーダーンタ」とは何なのかということについてお話しようと思います。
ヴェーダーンタ学派の中でも、梵我一如の思想を徹底したもの。
ヴェーダーンタ学派というのは、ウパニシャッドを研究する学派です。
ウパニシャッドには、梵我一如の思想が書かれていると言われることがあります。
梵我一如というのは、簡単に言えば、神(ブラフマン)と個我(アートマン)は、実は同一のものであるという考え方ですね。
(関連記事:アートマンとブラフマンは違うもの?それとも同じもの?)
でも、実際に、ウパニシャッドを読んだことがあるという人は、どれだけいるでしょうか?
ほとんどの人は、ウパニシャッドを読んだことはないと思います。
僕自身、真理の探求をしている間は、読んだことはありませんでした。
ここ最近、古典と呼ばれるものを読んでみていることもあり、ちょっと読んでみているだけです。
そして、ウパニシャッドと一口に言っても、聖書のように1冊の本になっているわけではなく、200ほどもの書物が存在しているようです。
僕は、そのすべてを読んではいません。
そもそも、すべてが日本語訳されてはいないのではないかと思います。
僕が読んだことがあるのは、ウパニシャッドの中でも特に有名と言われる、「チャーンドギア・ウパニシャッド」と「ブリハッド・アーラニヤカ・ウパニシャッド」です。
梵我一如について書かれているという前提で読んだのですが、「いやいや、梵我一如について書かれているのはごく一部分だけじゃない?」という感想です。
特に、チャーンドギア・ウパニシャッドは、神話的な雰囲気が強いなと感じました。
例えば、こんな感じです。
「プラジャーパティ(創造主)の両創造物である神々とアスラ(神に対立するものの総称)どもが戦ったとき、神々はウドギータを持ち出した。「それによってアスラどもを征服しよう」と意図したのである。」
「そこで、かれらは鼻から出る気息をウドギータと崇めた。すると、アスラどもはそれを禍悪で害(そこの)うた。それ故に、人は芳香と悪臭の両者を息によって嗅ぐのである。気息が禍悪によって害われたからである。」
ウドギータというのは、呪文とか詠唱といったものです。
ブリハッド・アーラニヤカ・ウパニシャッドについても、多少、神話的な部分があります。
でも、チャーンドギア・ウパニシャッドに比べると、グッと、梵我一如の思想が強まります。
例えばこうです。
「この肉身の底にある洞窟に入り込んだアートマンを探りだして確認した人は、彼は一切をなす者である。彼は一切の創造者であるから。世界は彼のものであり、彼はまた世界そのものである。」
「われわれはこの世にありながら、それを知る。そうでなければ、無知と大破滅があろう。そのことを知る人々は不死となり、そして他の者たちはまさに苦悩に赴く。」
「「この世には、多様性は全くない」と、意によってのみ観察しえられる。この世において多様性だけを見る人は、死から死に達する。」
「この不滅で永遠に存在するものは、ただ一つの方法によってのみ観察される。アートマンは穢れなく、虚空を超越し、不生で、偉大であり、永遠に存在する。」
「賢明な婆羅門は、それ(アートマン)を識別し、理智を働かすべきである。多くの言葉を考察すべきではない。それは実に言語を疲労させるだけである。」
ウパニシャッドと一口に言っても、それが何を意味するのかは、実は結構違うんです。
一般的には、ウパニシャッドは、梵我一如について語っていると言われていますが、実際のところ、ウパニシャッドはカオスです。
とても、体系的に書かれているとは言えないものです。
なので、ヴェーダーンタ学派といっても、おそらく、様々な解釈をするグループがあるはずです。
同じヴェーダという書物群を研究対象としながらも、ヴェーダーンタ学派、サーンキヤ学派、ヨーガ学派、ミーマンサー学派、ニヤーヤ学派、ヴァイシェーシカ学派、色々な学派があるように、ヴェーダーンタ学派の中でも、様々な解釈があるであろうということですね。
その中の一つが、アドヴァイタ・ヴェーダーンタなのだと思います。
ウパニシャッドを研究するヴェーダーンタ学派の中でも、特に、梵我一如についての思想を強めたグループということです。
シャンカラから始まった不二一元論のことを指します。
アドヴァイタ・ヴェーダーンタは、紀元700年頃に活動したシャンカラが提唱した不二一元論のことを指すと言ってもいいかと思います。
時系列的に考えると、アドヴァイタ・ヴェーダーンタは、結構、後発です。
ヴェーダが紀元前1000年前ぐらい、ウパニシャッドが紀元前600年頃と、ウパニシャッドの成立から1000年ぐらい経った後に、アドヴァイタ・ヴェーダーンタは始まっています。
そして、その間、紀元前500年とか400年頃には、ブッダによる仏教が起こっています。
そして、紀元100年頃には、仏教は、部派仏教と大乗仏教に分裂し、大乗仏教が仏教のメインストリームになります。
シャンカラが活動した、紀元700年頃というのは、大乗仏教の影響力がとても強い時代だったようです。
ナーガールジュナによる「空」の思想や、その後、発展した唯識論の影響を受けて、ヴェーダーンタ学派自体が、大乗仏教化してきていたようです。
実のところ、ヴェーダーンタ学派と仏教というのは、まったく性質の違うものでもないんです。
どちらも、梵我一如の思想を持っています。
では、何が違うのかというと、ヴェーダを権威として認めているか認めていないかの違いがあるだけなんじゃないかと思います。
ヴェーダーンタ学派が仏教化してきていたということは、ヴェーダの権威が落ちてきてしまっていたということなんじゃないかと思います。
「ヴェーダにこう書かれているから」という理由よりも、仏教の論理性の方に、耳を傾ける人が増えていたんでしょう。
まあ、ヴェーダはかなりカオスですから、その気持ちも良く分かります。
でも、シャンカラは、「ヴェーダは天啓聖典(神によって書かれたもの)であって、疑うことができないもの、権威があるべきもの」と思ったのかもしれません。
ただ、シャンカラ自身も、ヴェーダやウパニシャッドのカオスは理解していたでしょう。
そこで、シャンカラが取った手段は、仏教に対抗できるような論理性の高い主張を用意して、その権威付けとして、ウパニシャッドを使うということです。
例えば、シャンカラの著書に「ウパデーシャ・サーハスリー」というものがあります。
(関連記事:シャンカラ「ウパデーシャ・サーハスリー」【書籍の解説】)
この本には、ウパニシャッドにみられるようなカオスは感じられません。
まあ、難解ではありますが。
神話的な部分もありません。
でも、数多くの、ウパニシャッドからの言葉を引用しています。
例えばこうです。
「アートマンが、統覚機能(心、意志、5感覚)にあるとき、統覚機能が動いたり、瞑想したりするとき、あたかも動いているかのようであり、「瞑想しているかのようである」(ブリハッド・アーラニヤカ・ウパニシャッド)ようにみえる。舟に乗っている人にとっては、岸に生えていて動かない木が動くかのようにみえるように、輪廻している人にとっては、輪廻しないアートマンが輪廻しているという誤った考えが起きる。」
「舟に乗っている人にとって、木々が反対の方向に進んで行くかのようにみえると同様に、アートマンが輪廻するかのように思われる。なぜなら「同一のものでありながら、かれは瞑想しているかのようである(動揺しているかのようである)」(ブリハッド・アーラニヤカ・ウパニシャッド)という天啓聖句があるから。」
ブッダの教えに近い?
シャンカラの不二一元論によって、ヴェーダーンタ学派は現在ではインドで大きな勢力を得るに至っています。
そして、ヴェーダーンタ学派の中でも、アドヴァイタ・ヴェーダーンタが主流なのだと思います。
一方、大乗仏教は、インドではヒンドゥー教に吸収されたり、弾圧されたりして、一時期は消滅してしまいました。
でも、僕は思います。
実は、大乗仏教よりも、不二一元論の方が、より、ブッダの教えに近いのではないかと。
大乗仏教というのは、ブッダの教えというよりも、ナーガールジュナの「空」の思想をベースにしています。
「空」の思想では、ブラフマンすら、実体は無いという考え方をします。
あらゆるものは「空」であり、「空」すら実体があるものではなく、「無」という実体もないというのが、「空」の思想です。
そして、輪廻そのものがニルヴァーナだと、ナーガールジュナは主張します。
そんなはずはないんです。
まさしく、輪廻している人にとっては、輪廻しないアートマンが輪廻しているという誤った考えが起きるんです。
ブッダが言ったニルヴァーナと、ヴェーダーンタ学派の言うブラフマン(アートマン)は同一のものです。
本当に真理を悟るのであれば、それは一致します。
ブッダ自身、最古の仏典であるスッタニパータの中で、「ヴェーダの達人は、見解についても、思想についても、慢心に至ることがない。かれの本性はそのようなものではないからである。かれは宗教的行為によっても導かれないし、また伝統的な学問によっても導かれない。かれは執着の巣窟に導き入れられることがない。」と言っています。
(関連記事:スッタニパータは、本当にブッダの言葉か?)
ヴェーダを権威としては認めないが、その教えの真髄は認めているということですね。
シャンカラの不二一元論は、サーンキヤ学派などに対抗するための主張も含まれるのですが、主に、大乗仏教に対して対抗するための主張が大きいです。
でも、皮肉なことに、シャンカラの不二一元論は、ブッダの教えと似ているのではないかと、僕は思います。
もちろん、ウパニシャッドを権威として認めたいのか、認めないのかの違いはありますが。