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Q&A ハート

心をハートに沈めるとは?【Q&A】

今回は、SKさんから頂いた質問メールを公開しようと思います。

SKさん、ありがとうございます。

テーマは、ラマナ・マハルシの言葉でもある、「心をハートに沈めなさい」というのは、具体的にはどんなものなのかということです。

SKさんからの質問

こんにちは。
しばらく精神に関するサイトは避けていたのですが、急に何もしたくないほど苦しみが強くなり、「自我の死」で検索してこちらにたどり着きました。
苦しみを避けないことには同感ですが、何日も消えない時は受け取り方が悪いのかと思ってしまいます。
それはさておき、心をハートに沈めるということを出来るだけ正確に理解したいのですが、どのようなイメージが近いでしょうか。
自分の中では、ハートといえば、ハートのあたりに非常に心地いいエネルギーの塊のようなものがあり、以前から疲れた時にはその塊を意識して体を満たすくらい、あるいは体より大きく広げて癒されておりました。
そして、ある時、自分がやっていたことが、慈経と言われるものがもたらす効果と全く同じなのではないかと気づきました。
このようなイメージが、心をハートに沈めるということに近いのか、似て非なるものなのか知りたいです。
よかったら教えて頂けないでしょうか。

回答

SKさん
こんにちは。

ご質問ありがとうございます。

> このようなイメージが、心をハートに沈めるということに近いのか、似て非なるものなのか知りたいです。
> よかったら教えて頂けないでしょうか。

これについては、残念ながら似て非なるものなんです。

心をハートに沈めるというのは、実は、心を苦しみに沈めるとか、心を退屈に沈めるという感覚と同じです。
苦しみとか、退屈というのは、イメージするものじゃないですよね?
イメージするまでもなく、ここにあるということが明確なものなんじゃないかと思います。

実は、ハートというのも同じなんです。

なので、もし、ハートがここにあるとは感じられないのであれば、それは、ここにはハートが無いということなんです。
無いというか、現れてないという感じでしょうか。

「心をハートに沈めなさい」というのは、ラマナ・マハルシの言葉なのですが、この言葉は、基本的にはハートを理解している人にしか通じないと思います。
マハルシが、相手がハートを理解しているかどうか判断した上で、この言葉を使っていたのかは分かりません。

これと似た言葉で、ニサルガダッタ・マハラジは、「「私は在る」という感覚にしがみつきなさい」と言います。
でも、「そもそも、「私は在る」ってどんな感覚なんだ?」という人にとっては、どうしていいか分からないですよね。

そんなこともあって、このブログでは「「苦しみ」と「退屈」を避けないこと」と言うようにしています。
苦しみと退屈は、勘違いしようがないですからね。

ハートというのは、ある意味では消去法的なところがあります。
喜怒哀楽の感情、そして、退屈の感覚も無いときに、ハートは表面に現れます。

ちなみに、ハートの感覚を、知らないという人はいないんです。
誰しもが、ハートの感覚を味わったことがあります。

例えば、試験勉強から解放された時、やらなければならない仕事をやり遂げた時の解放感、人疲れして帰ってきて部屋で1人になった時の解放感、そういった解放感が、ハートの感覚です。

SKさんも味わったこと、あるんじゃないかと思います。

ただ、多くの人にとっては、その解放感は持続しません。
解放感を感じていたのもつかの間、段々と退屈感を感じてきて、楽しさを求めるようになります。

でも、ハートを理解している人にとっては、その解放感というのは持続するものなんです。

良く言われるような「あの感覚をもう一度。。」といった執着も生まれません。
ハートの理解というのは、神秘体験ではなく、常にここに在るものの理解だからです。

僕は、苦しみというのは、理想と現実のギャップだと言います。
https://ku-haku.jp/kurushimi-tebanasu/

ただ、理想といっても色々とありますよね。
例えば、「昨日、ひどいことを言われた(私はこんなひどいことを言われるべき人ではない)」という程度のものであれば、数日程度で苦しみは消えるんじゃないかと思います。

でも、例えば、「死の恐怖を克服したい。。」とか、「今の世界は間違っている!」とか、「こんな自分の性格が嫌いだ!」とか、そもそも、原因が分からないというものだと、苦しむことは長引きます。
長引くというか、真理を悟らない限り、一生続くでしょう。

もちろん、苦しみにも、強弱とか、常に表面化しているわけじゃないとか、断続的とか、かなり長い間表面化しているとか、思い出したかのようにぶり返すとか、色々とあります。

僕は、20代の頃は、かなり長い間、苦しみが続きました。
数ヶ月とか、数年単位ですね。
苦しみと、なんとも言えない、虚無感に苛まれることが続きました。

まあ、だからといって、それだけ長時間苦しむべきというわけじゃなくて、もし、苦しみや虚無感といったものが現れているのなら、それを避けないほうがいいというだけなんです。

それは、ある意味ではチャンスとも言えるんです。
だって、常に、苦しみはここにあるというわけじゃないですよね。
ここに、苦しみが無いのに、苦しみが有るようには感じることができません。

それは、ハートと同じです。

ハートも、苦しみも、退屈も、楽しさだって、すべて同じところで感じられるものです。
真理の探求というのは、ある意味ではとてもシンプルで、意識として、そこに気がついていればいいだけなんです。

楽しさがあるなら、楽しさに気づき、苦しみがあるなら、苦しみに気づき、退屈があるなら、退屈に気づきます。
それを、自分の好みの感情にコントロールしようとしてしまうと、ハートが隠れてしまいます。

もし、コントロールせずにいるのなら、楽しさも、苦しみも、退屈も去っていき、後にハートが残ります。
自分を縛ろうとする意志から解放される感じです。
そして、いつしか、「なぜだかハートは去っていかないなあ」ということに、気がつくことになります。

ハートをエネルギーとしてイメージするというのも、SKさんの経験のように、なんらかの効果はあると思います。
でも、それはハートの解放感じゃないと思います。

例えるならば、旅行に行って「は〜」となる感覚と、人疲れして家に帰ってきて、1人になったときの「は〜」という感覚は違いますよね?
もっと言うなら、温泉につかって「は〜」となる感覚と、仕事から解放されて「は〜」となる感覚は違うと思います。

前者には原因があって、後者には原因がありません。
ハートを感じるのに、5感覚による原因というのは不要なんです。
ただ、ハートを縛っているものから解放されるということが必要なだけです。

こんな感じでしょうか。
また、なにかあればご連絡ください。

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作成者: 山家直生

空白JPアーカイブ2020+」電子書籍(Kindle)を出版しました。

2021年からTwitterも始めました。

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このブログに書かれていることは、基本的には、なぜ、苦しみと退屈を避けないほうがいいのかということの説明のためにあります。

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