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Q&A 苦しみ 退屈

感覚と共に〝在る〟とはどういうことか? そして〝無〟について【Q&A】

今回はKURAFUさんから頂いた質問メールを公開したいと思います。KURAFUさん、ありがとうございます。

※6000文字ほどの長文です。

KURAFUさんからの質問

山家さん、こんにちは。
KURAFUと申します。

2023年6月21日に「ハートについて教えてください」を送らせて頂き、お返事とそれに該当するURLを送って頂いた者です。その節はありがとうございました!

1年が経ち、山家さんの記事も当初読んだ時より入ってくる部分や気づきが違います。

さて、今回メッセージを送ったのは、山家さんが「感覚」を言語化されるとどのようになりますでしょうか?ということをお聞きしたかったからです。

いわゆる探求が深まり、非二元に触れ、思考がかなり緩んできました。湧き上がってくる思考と一体化しなくなってきました。すると、不思議なことに今まで思考で言い聞かせてきた生い立ちの傷やトラウマが感情として噴き出てきたのです。要するに、スピリチュアルの知識で統制していた傷の痛みが、思考が緩んだことによって表面化してきたのです。

この数ヵ月かなり辛い期間を過ごしました。いろいろ本を読んだり調べると、自分の「感覚」が置き去りになってきたということが直感でわかりました。

しかしそのような直感が来たのに、「はて・・・感覚とは?」となってしまっている自分がいます。五感は普通の人間同様ですが、心の痛みや不安、怒りの感情、心配などの感情を感じることと、その感覚に在るということの区別がつかないのです。ただその感覚で在るとか、その感覚共にいるということがわからないのです。

もし、山家さんに教えて頂けると幸いです。感覚なので言語で理解したとて、意味が無いかもしれませんが、まずは感覚とは何のことを指しているのか知らないと始まらないと思った次第です。どうぞよろしくお願いいたします。

回答

KURAFUさん、こんにちは。

お待たせしました。

五感は普通の人間同様ですが、心の痛みや不安、怒りの感情、心配などの感情を感じることと、その感覚に在るということの区別がつかないのです。ただその感覚で在るとか、その感覚共にいるということがわからないのです。

なるほど。そこに区別をつける必要はないと思います。

心の痛みを感じることと、心の痛みの感覚に在ることと、ただ心の痛みの感覚と共にいるということは、僕にとっても同じことです。

ただ、例えば、本を読むことに夢中になっていると、周りの声が聞こえづらかったりすることがありますよね。聴覚的には周りの声は聞こえているんだろうけど、聴覚ではないことに意識が集中しているため、人に名前を呼ばれても気がつくことができなかったり。

感情を感じるという時にも、例えば、思考にあまりにも集中してしまうと、感情を感じるということの感度が鈍ってしまうということはあるかもしれません。人によっては、苦しみを感じると、意図的に思考に没頭して、苦しみの感情を(無自覚に)少しでも和らげようとする人もいるかもしれません。

僕が「心の痛みを感じること」と言う時は、そういったことのないようにという意味で使っています。極端なことを言えば、心の痛みを、むしろ瞑想対象にしてしまいましょうということでもあります。

もしかすると、「心の痛みの感覚に在ること」という言葉を、心の痛みを瞑想対象にするのではなく、「思考を観察する姿勢で在ること」という意味で使う人もいるかもしれません。瞑想を実践していると、心の痛みを感じながらも、思考に没頭することなく、思考を観察する姿勢を保つこともできるようになると思います。

その状態を「在る」と表現する人もいるかもしれません。その場合には、「心の痛みの感覚」と「在る」ということには区別があることになります。でも、その状態は実のところは巧妙に心の痛みを避けている状態なのであり、心の痛みが根本的に消えるということはないと思います。

世の中的には、苦しみを避けるために瞑想があるという考え方も根強いので、そういった区別が現れたりもするかもしれません。でも、そういった考え方をする必要はなく、苦しみを感じたなら、その苦しみを瞑想対象にするというシンプルな考え方でいいと思います。

思考を観察していると思考が消えてしまうように、苦しみも避けずに観察するなら消えてしまうのではないかと思います。

KURAFUさんからの返信

山家さん、KURAFUです。
ご返信ありがとうございます。

とてもわかりやすいご説明でした。

感情を感じるという時にも、例えば、思考にあまりにも集中してしまうと、感情を感じるということの感度が鈍ってしまうということはあるかもしれません。人によっては、苦しみを感じると、意図的に思考に没頭して、苦しみの感情を(無自覚に)少しでも和らげようとする人もいるかもしれません。

これがまさに私だったということに気付きました。感情はとても感じてるんだけど、同時に思考が激流のようにやってくるので、感度が鈍っている=いつまでも痛みが疼くのだと思いました。山家さんの仰る通り、巧妙に痛みを避けているのだと思います。

自分では思考で追いやってるつもりはなくても、思考の量が半端ないので自動的に追いやられてた感じですね。

世の中的には、苦しみを避けるために瞑想があるという考え方も根強いので、そういった区別が現れたりもするかもしれません。でも、そういった考え方をする必要はなく、苦しみを感じたなら、その苦しみを瞑想対象にするというシンプルな考え方でいいと思います。

仰る通りだと思いました。私は日常的には瞑想はしていないのですが、思考がうるさすぎたり、悲しいこと、辛いことがあった時だけしていました。心が落ち着くからです。とても整う感じはしますね。

思考を観察していると思考が消えてしまうように、苦しみも避けずに観察するなら消えてしまうのではないかと思います。

そうですね・・・私の場合、ある特定の出来事にショックを受けると大体抜けるまで1年~1年半かかります。その間ずっとその特定の思考が沸き上がってくるので非常に辛いです。抜けた時に俯瞰して見ると、哀れなくらい可哀想なんです笑

これもすべて幻想とわかっていても、肉体に残ってる傷を通して、おおもとからくるエネルギーがこの「私」を苦しめるので、肉体として現れてる「私」は、その知覚がやはり苦しいですね。

本当に「無」になりたい。自我が傷つく(ように見える)出来事があっても、「へ~」としか思わない自分でいたい。

なぜなら苦しみ、悲しみを感じる時の胸が詰まった感覚、下腹のゾワゾワ感、頭のモヤモヤ感が耐えられないほど辛く、逃げ出したくなるからです。

もう本当にただそれだけ。誰に何を言われても、攻撃されても、逆に自分自身がイラっとしたり、悲しくなったりしても身体の感覚に現れなければ、全然耐えられると思います。

思考も機能的な思考しか起こらず、感情もそこまで激情的なものは起こらない(ハイテンションもブルーな気分も)。必要な時だけ明晰な思考が現れ、人間的な感情の現われは圧倒されない程度に起こる。そんな肉体として命を全うしたいと感じます。

その状態を手に入れたいと四苦八苦してるのだと思います。その状態さえも幻想であるとわかっているのに。

何か今までの状態、状況に違和感を覚えざるを得ない今日この頃です。

山家さん、本当にありがとうございました!!

回答

KURAFUさん、こんにちは。

もう本当にただそれだけ。誰に何を言われても、攻撃されても、逆に自分自身がイラっとしたり、悲しくなったりしても身体の感覚に現れなければ、全然耐えられると思います。

思考も機能的な思考しか起こらず、感情もそこまで激情的なものは起こらない(ハイテンションもブルーな気分も)。必要な時だけ明晰な思考が現れ、人間的な感情の現われは圧倒されない程度に起こる。そんな肉体として命を全うしたいと感じます。

僕自身、そう思っていたことがあります。悟るということはそういうことなのだろうと。世の中でどんなことが起ころうとも、無風であるかのようにいられるだろうと。

でも、実際に起こったことは、そう思う自分の方が消えてしまった(主導権を失った)ということです。

逆に言えば、「そうであって何が悪いのか?」ということなんです。世の中での出来事に影響を受ける自分を、「そうであってはいけない」と否定するのは実際のところは泣きっ面に蜂かもしれません。

もちろん、多くの人が自分自身をコントロールしようと努力していると思います。でも、コントロールしようとするということ自体が、実際のところは、それら(身体や感情)は自分ではないということを意味するんじゃないでしょうか? 「無」でありたいと感じているのに、身体と感情が勝手に反応してしまうということでもあるからです。

なので、このコントロールしようとしている自分とは何なのか? ということが本当のところは明確にされるべき点なんです。

意外に思うかもしれませんが、この自分というのは「無」を恐れているんです。苦しみを感じている時には「無」であることを求めるかもしれませんが、いざ苦しみが去っても当のこの自分は「無」であろうとは思わないんです。

休日に家にこもって1日中「無」であろうとすると分かるかと思いますが、それをしようとすると退屈に感じられるのではないかと思います。もしくは、過去の記憶が思い返されて、苦しみに苛まれるかもしれません。実はこの自分にとっては、退屈するよりも、苦しみを感じたほうが都合が良かったりします。苦しみを感じている限りは、この自分が「無」になることはないからです。

このコントロール欲求を持った自分というのは、退屈の中では存在することができません。何もしないということは、このコントロール欲求を持った自分を必要としないということと同じだからです。

ハートの感覚というのは、退屈の影に隠れているようなところがあります。退屈を感じるこの自分が消えた時に、コントロール欲求を持つこの自分から解放された、ハート(本当の自分)の感覚を感じるのではないかと思います。

もちろん、ハートの実在を言葉で証明することはできないですし、世の中にはハートなど実在しないと言う人も結構いると思います。でも、そんな人であっても退屈が存在するということを否定することはできないでしょうし、KURAFUさん自身、それを否定することはできないのではないかと思います。

普段は退屈しないという人でも、どうすれば退屈するのかをなぜだか知っているんです。それは、その感覚が不変的にここに隠れているとなんとなく感じているからなのではないかと思います。

なので、退屈を避けながらも「不変的な実在など存在しない」ということには明らかな見落としがあるんです。このことを確認するならば、「一時的な苦しみが去ったとしても、ここにあるのは退屈の感覚だ(だから、それを避けるためにコントロールし続けなければならない)」という認識から、「一時的な苦しみが去ったのなら、ここに残るのはハートの感覚だ(なので、意図的にコントロールする必要はない)」という認識に変わるのではないかと思います。

ここらへんについては下記記事が参考になるかもしれません。

ひとりでいる時の苦しみ、他者と関わる苦しみ

OSHOの名言【退屈から逃れる道はない】

KURAFUさんからの返信

山家さん、こんにちは。
お返事にお時間頂きました。

なぜなら参考に教えて頂いた記事を読んでいたら、次々に読みたい記事が出てきて、ほぼ1日中読んでる日もありました笑

しかも、絶対に過去に読んでいるはずなんです、どの記事も。でも当事者になって初めて読むと全然印象が違いました。

山家さんからのお返事を頂いて、記事を読んで、あぁ、そうだった、きちんと読み直してからメールをすれば良かった・・・と思いました。先走ってしまい申し訳ありませんでした。

でも、実際に起こったことは、そう思う自分の方が消えてしまった(主導権を失った)ということです。

逆に言えば、「そうであって何が悪いのか?」ということなんです。世の中での出来事に影響を受ける自分を、「そうであってはいけない」と否定するのは実際のところは泣きっ面に蜂かもしれません。

ハッとしました。あまりの苦しさに(おそらく他の人からしたら、そんなことで?ということ)、もうこれ以上感じたくないから、それならいっそ感じ切ろうという感じでした。

なので、このコントロールしようとしている自分とは何なのか? ということが本当のところは明確にされるべき点なんです。

意外に思うかもしれませんが、この自分というのは「無」を恐れているんです。苦しみを感じている時には「無」であることを求めるかもしれませんが、いざ苦しみが去っても当のこの自分は「無」であろうとは思わないんです。

はい、山家さんの「苦しみと退屈を避けないこと」の記事を筆頭に、苦しみと退屈の記事を全部読み、痛いくらいに(悲しいくらいに?!)納得しました。

今の私に甘い言葉や、人参は本当に不要なので。どんどん破壊され、どんどんスクラップしてくれる内容が必要だったのです。

もちろん、ハートの実在を言葉で証明することはできないですし、世の中にはハートなど実在しないと言う人も結構いると思います。でも、そんな人であっても退屈が存在するということを否定することはできないでしょうし、KURAFUさん自身、それを否定することはできないのではないかと思います。

はい。否定できません。ここ数ヶ月、会社の人間関係の出来事で苦しみ抜きました。今は小康状態というか、凪のような感覚になってますが、自分ではコントロールできない、起こるべくして起こったということへの気づきがあったらすぐさま、また脳が自動的に別の問題探しというか、何かに対する不満という形で触角が動き始めてます。

私という肉体精神機構の特徴は一難去ると、すぐまた調子に乗って小さなことへ不満を募らせます。これを傲慢さだと思っていましたが、それも去ることながら、なにも無いという退屈さを無自覚に避けてるのだなと思いました。

問題を作って解決して、成長!みたいな。もちろん、こういった問題を創り出すことによって霊的な探求を深めている、探求心が止まらないといったことにもつながっていて自分としては結果オーライではあるのですが・・・。

なので、退屈を避けながらも「不変的な実在など存在しない」ということには明らかな見落としがあるんです。このことを確認するならば、「一時的な苦しみが去ったとしても、ここにあるのは退屈の感覚だ(だから、それを避けるためにコントロールし続けなければならない)」という認識から、「一時的な苦しみが去ったのなら、ここに残るのはハートの感覚だ(なので、意図的にコントロールする必要はない)」という認識に変わるのではないかと思います。

ありがとうございます。ぶっ壊して頂き感謝しています。自分にはもう美しい餌はいらないのです。すごく清々しいです。でもそれさえも掴もうとしないという感覚が起こってます。

これからも記事を楽しみにしております!

(関連記事:ハートに意識を向けることと「私は在る」ことは違うのか?