今回は、仏教の四諦(したい)と八正道についてお話したいと思います。
ブッダは、四諦と八正道を説いたと言われています。
Wikipediaの四諦についてのページによると、四諦というのは、この世は苦しみである(苦諦)、苦しみには原因がある(集諦)、苦しみは滅することができる(滅諦)、その方法は八正道を実践することである(道諦)、という4つの教えということになっています。
そして、Wikipediaの八正道についてのページによると、八正道というのは、正しく見て(正見)、正しく考え(正思惟)、正しい言葉を使い(正語)、正しい行いをし(正業)、正しく命を大切にし(正命)、正しく精進し(正精進)、正しく瞑想し(正念)、正しく禅定を保つ(正定)、という8つの教えということになっています。
Wikipediaにそう書かれているので、最初のうちは僕も、道諦とは八正道のことだと思っていました。
でも、今では、それは違うんじゃないかと思っています。
八正道はブッダの死後に作り出されたもの?
おそらくは、八正道というのはブッダの死後に作り出されたものです。
(関連記事:ブッダは、本当に「八正道」を語ったのか?)
Wikipediaによると、パーリ仏典の中に、ブッダが八正道について語っている部分があるようです。
なので、ブッダは四諦と八正道を説いたんだと思えるかもしれません。
でも、おそらくは、パーリ仏典に書かれていることは、後世の人が作り出した創作なんじゃないかと思います。
というのも、最古の仏典と呼ばれるスッタニパータを読んでみると、八正道の教えとは矛盾していたりするからです。
(関連記事:スッタニパータは、本当にブッダの言葉か?)
スッタニパータは、5つの章から成り立っており、その中でも、特に第4章の「八つの詩句の章」が最古のものだと言われています。
その中でも「洞窟についての八つの詩句」、「悪意についての八つの詩句」、「清浄についての八つの詩句」、「最上についての八つの詩句」の4つの節は、特に最古のものかと思われます。
この4つの詩句を読むと、とてもブッダが八正道を語ったとは思えないんです。
例えばこうです。
真のバラモンは正しい道のほかには、見解・伝承の学問・戒律・道徳・思想のうちのどれによっても清らかになるとは説かない。かれは禍福に汚されることなく、自我を捨て、この世において禍福の因をつくることがない(790)
みずから誓戒をたもつ人は、想いに耽って、種々雑多なことをしようとする。しかし智慧ゆたかな人は、ヴェーダによって知り、真理を理解して、種々雑多なことをしようとしない(792)
このように言う人が、八正道のような戒律を説くとは思えないんじゃないでしょうか?
この中で、ブッダは「正しい道」という言葉を使っているのですが、この「正しい道」というのが「八正道」を指しているわけではないというのは明らかです。
八正道とは、学校でいう校則にあたるものかもしれません
八正道とは、学校でいう校則のようなものなのではないかと思います。
ブッダの影響により、当時、仏教はとても大きな組織になったのだと思います。
宗教に限らず、人は組織化すると、それを統率するための決まりが必要になってくることがあります。
組織の中の誰かが悪さをすると、それは組織の責任になってしまうからです。
ブッダが存命中の時でさえ、仏教徒が悪さをして、それが問題になるということはあったのではないかと思います。
それを戒めるために、ブッダが何かしらを語るということはあったかもしれません。
八正道のようなことを語ることはあったかもしれません。
でも、それを真理としては語らなかったはずです。
校則を守るということと、テストで良い点を取るということは別です。
校則をいくら守ったって、テスト勉強をしなければテストで良い点はとれません。
ブッダの存命中は、その違いは明確に語られたはずです。
「真のバラモンは正しい道のほかには、見解・伝承の学問・戒律・道徳・思想のうちのどれによっても清らかになるとは説かない」とブッダ自身が語っています。
でも、ブッダの死後、その違いはあやふやになり、八正道という教えとして独り歩きしてしまった可能性はあるのではないかと思います。
そして、その方が仏教という組織にとっては都合が良かったのかもしれません。
四諦の道諦と、八正道は無関係だと思います
実際のところは、四諦の道諦と、八正道は無関係だと思います。
ブッダは、菩提樹の下で真理を悟ってから、5人の苦行仲間に対して、四諦と八正道を説いたと言われています。
でも、それはおかしいんです。
この時、ブッダは八正道を説いてはいないと思います。
というのも、ブッダは妻と子を捨てて、王子の地位を捨てて、真理の探求を始めています。
世俗との関係性を断って、真理の探求を続けています。
一体、どの口が八正道を説くんでしょうか?
八正道というのは、世間との関係性が前提になっているところがあります。
1人でいるときに、正しい言葉を使う必要があるんでしょうか?
ブッダが妻と子を捨てて出家したのは、正しい行いだったのでしょうか?
5人の苦行仲間がそれを聞いて「そうか!」と納得するでしょうか?
おそらく、ブッダの教えは四諦で完結しています。
少なくとも、5人の苦行仲間がそれを聞いて、それを確かめてみようと思えるような内容だったはずです。
道諦とは、苦しみを観察すること
ブッダの言う「正しい道」とは何なのか?
スッタニパータから一文を引用します。
かれは一切の物事について、見たり学んだり思索したことを制し、支配している。このように観じ、覆われることなしにふるまう人を、この世でどうして妄想分別させることができようか(793)
ブッダという言葉は、そもそもは、ゴータマ・シッダールタ(釈迦)を指すわけではなく、「目覚めた人」という意味で使われます。
(関連記事:ブッダは、なぜ〝目覚めた人〟と呼ばれるのか?)
目覚めた人というのは、妄想分別することがないということです。
妄想分別することがないということは、見たり学んだり思索したことを、盲信することがないということです。
ブッダが5人の仲間と苦行を行っていたのは、苦行をすることで真理を悟ることができると思っていたからです。
そのことを盲信していたからです。
でも、ブッダはそうではないということに気づいたんです。
すべての人は、記憶に覆われています。
すべての判断基準を、記憶に頼っています。
(関連記事:自我は「記憶」を利用する)
「苦行をすることで真理を悟ることができる」という考え方も、ひとつの記憶です。
そのことにリアリティを感じてしまうことが、妄想分別するということなんです。
「苦行をすることで真理を悟ることができる」という考え方を、単なる記憶であると観じるなら、妄想分別は起こりません。
そして、それはすべての記憶に対して言うことができます。
単なる記憶であると観じられるなら、その記憶は、人に影響を与えることができなくなります。
人は、記憶から解放されるんです。
反対に、その記憶は、観じる人に支配されることになります。
ブッダが四諦で説いたことは、このことなんじゃないかと思います。
この世は苦しみである(苦諦)、苦しみには原因がある(集諦)、苦しみは滅することができる(滅諦)、その方法は、苦しみを観察し、その原因を観察し、苦しみが滅するところを観察することである(道諦)、というのが四諦なんじゃないかと思います。
苦しみを観察することで、その苦しみには原因があるということに気づきます。
大抵の場合、それはなんらかの記憶です。
それが単なる記憶であると観察されるなら、その苦しみはリアリティを保てなくなり、やがては消滅します。
この関係性は、ある意味では縁起です。
記憶に縁って苦しみが起こっています。
(関連記事:なぜ、ブッダは縁起を説いたのか?【信じることへのアンチテーゼ】)
であるなら、「苦行をすることで真理を悟ることができる」という考え方(記憶)を盲信することも、苦しみを生み出すでしょう。
ブッダの5人の苦行仲間は、この四諦の教えを盲信することなく確認してみたのかもしれません。
その結果、ブッダと5人の苦行仲間は、仏教を起こすことになったのかもしれません。
最後に、スッタニパータからもう一文を引用して終わりにしたいと思います。
かれらは、妄想分別をなすことなく、いずれか一つの偏見を特に重んずるということもない。かれらは、諸々の教義のいずれかをも受け入れることもない。バラモンは戒律や道徳によって導かれることもない。このような人は、彼岸に達して、もはや還ってこない(803)