自分が死ぬことよりも、人が死ぬことの方が怖いという人もいると思います。
自分が死ぬ場合には、自分の死後を経験することはありません。
でも、人の死の場合には、それを経験することになります。
そういった意味で、自分の死よりも人の死の方が怖いと言われることがあると思います。
でも、本当にそうなんでしょうか?
例えば、年齢的に考えるならば、自分よりも親の方が先に死ぬ可能性はとても高いですよね。
子が親の死を恐れるのは当然ともいえます。
でも、いざ、自分が死ぬ順番になるならどうでしょうか?
「自分の死後を経験することはない」という理由で自身の死を恐れずにいられるでしょうか?
死への恐怖というのは、自分の死であれ、人の死であれ、その原因は同じなんです。
それは、記憶と関係しています。
死の本質は、記憶を失うことにあります
人が死を恐れるのは、実のところは、この体が死ぬからじゃないんです。
例えば、アバターという映画があります。
アバターというのは化身という意味ですね。
精神をリンクさせることで動かすことができる人工的な生命体として登場します。
中身が空っぽの操り人形みたいな感じですね。
この映画の最後、主人公が生身の体を捨てて、記憶を保持したままアバターに転生するというシーンがあります。
もし、体が死ぬことになったとしても、記憶を保持したまま違う体が得られるのであれば、人は死を恐れないのではないかと思います。
記憶を保持したままというのが重要なところです。
もし、記憶の連続性が無いのであれば、他の体に転生できるのだとしても、人はそれを恐れるのではないかと思います。
それは死ぬことと同じだと思うんじゃないでしょうか?
人は、明らかに記憶を失うことを恐れています。
でも、不思議なことに、それを自覚している人は少ないです。
漠然と、体が死ぬこと、そして、意識を失うことを恐れている場合が多いように思えます。
人の死とは、その人との記憶が途切れること
人の死が怖いと感じることも、記憶が関係しています。
人の死とは、その人との記憶がそこで途切れてしまうことです。
その人が死んでしまえば、その人との新たな記憶が作られることは無くなってしまいます。
人の死の本質はそこにあります。
もし、その人との記憶が、自分にとってとても大切なものであるなら、心地よい感情をもたらしてくれるものであるなら、その人の死を恐れるんじゃないかと思います。
多くの人は、人の死を平等に恐れてはいないはずです。
例えば、ニュースで誰かの訃報が流れたとしても、それが知らない人であれば何も感じないんじゃないでしょうか?
場合によっては、「あれ? この人はまだ生きていたんだ?」とか思うことだってあるんじゃないでしょうか?(失礼な話ですが)
人は、明らかに人の死を平等には感じていません。
もし、すべての人の死を親族のように平等に感じるのであれば、人は生きてはいけないでしょう。
地球規模で考えるならば、1秒に1.8人の人が死んでいっているようです。
この記事を5分で読み終わるとしたら、この記事を読んでいる間に約540人の人が死んでいることになります。
でも、そのことを悲しむ人はいないんじゃないでしょうか?
人の死というのは平等じゃありません。
でも、絶対的な差があるわけじゃありません。
ただ、記憶によって、相対的な差が生まれているんです。
そして、そのことは、死の恐怖を克服するための手がかりとなります。
自分の死とは、記憶そのものが途切れること
自分の死とは、記憶そのものが途切れることです。
「人は死んでも、記憶の中で生き続ける」と言われることがあります。
身近な人が死んだとしても、自分が生きている限りは、その人は記憶の中にはいるわけです。
昔の楽しかった記憶を思い出すこともあるかもしれません。
でも、自分が死ぬのであれば、記憶は消滅するのであり、記憶の中のその人も一緒に消えることになります。
もし、人の死を恐れるのであれば、まず間違いなく、自分の死も恐れます。
人の死とは、記憶の中の一部分です。
その一部分の記憶が途切れることに恐れを感じるのであれば、記憶そのものが途切れることに対しては、さらなる恐れを抱くんじゃないでしょうか?
人の死の場合には、苦しむのは、その人の死後かもしれません。
でも、自分の死の場合には、苦しむのは明らかに死ぬ前です。
失ったことへの悲しみを経験するのではなく、これからすべてを失うことへの恐れを経験することになるんです。
どちらの方が恐ろしいでしょうか?
人は、その恐れから逃れるために、忙しく過ごしてみたり、思い出づくりに励んでみたりします。
でも、それは逆効果になったりもします。
記憶を失うことを恐れているのに、さらに記憶を重要視してどうするんでしょうか?
それは糖尿病になってしまった人が、これから甘いものが食べられなくなることを悲観して、甘いものを食べまくることに似ているかもしれません。
死の恐怖を克服したいなら記憶の重要性を落とすこと
死の恐怖を克服することは不可能のように思われるかもしれません。
でも、解決策はあります。
記憶の重要性を落とせばいいんです。
例えば、知らない人の死の場合、悲しむことも恐れることもないんじゃないかと思います。
その人について何も知らないからです。
違う角度から言うならば、記憶と感情がリンクしていないから、その人の死を恐れることがないんです。
それは実のところ、自分や身近な人に対しても同じことが言えるんです。
もし、記憶と感情がリンクしていないなら、身近な人や、自分の死に対しても恐れることがなくなります。
これは信じ難いかもしれませんが、理屈的にはそうなるんじゃないでしょうか?
例えば、子供が4歳とか5歳の頃に親が死んでしまう場合、子供は親の死を理解しない場合があります。
僕は、死という概念を理解したのは7歳の頃でした。
それまでは、死は恐れるべきものという認識すらありませんでした。
であるなら、死を悲しむこともないでしょう。
とはいえ、今から4歳とか5歳の頃みたいになることは不可能ですよね。
すでに記憶は蓄積してしまっています。
様々な概念を身に着けてしまっています。
なので、今からできることは、記憶と感情の関係性を超えることだけです。
多くの人は、心地よい感情と記憶をリンクさせてしまっています。
「あの時は楽しかったな〜」とか、記憶と感情をリンクさせてしまっているんです。
そして、心地よい感情をともなう記憶を増やしたいと思っています。
なので、記憶を失うということは、心地よい感情も失われることだと認識しています。
でも、本当にそうでしょうか?
その理屈でいくと、まだ記憶の蓄積がない赤ちゃんや子供は、恐れるべき状態の中にいることになります。
実際のところ、そう見えるでしょうか?
むしろ、幸福そうにも見えるんじゃないでしょうか?
であるなら、それを確かめてみればいいんです。
なんの記憶も思い出さず、思考もせず、イメージもせず、赤ちゃんのようにボ~っとしている状態は、恐れるべきものでしょうか?
それとも、心地よいものでしょうか?
もし、その状態を退屈だと感じるなら、それは記憶と感情をリンクさせようとしている証拠です。
(関連記事:退屈が怖いと感じるのはなぜなのか?【退屈の恐怖】)
その、感情を求める衝動はどこから現れているでしょうか?
その衝動こそが、死の恐怖を感じる原因なんです。
でも、その衝動には実体があるわけじゃありません。
感情はずっと続くわけじゃないですよね?
静かに観察していれば、その衝動はそのうち消えてしまいます。
(関連記事:死の恐怖は、どこからやってくるのか?)