最近の、非二元論の流れとしては、「すべては意識(気づき)」という考え方がメインストリームなのではないかと思います。
仏教の「空」の思想とも親和性が高いですし、それは真理であるかのようにも思えます。
もちろん、それは真理の1つの側面です。
でも、それがすべてではないと思っています。
(関連記事:非二元論(ノンデュアリティ)を超えて)
このブログを良く読んで頂いている方なら、僕が「ハート、ハート」と言っているのをご存知かと思います。
でも、今回の記事では、僕自身が「すべては意識(気づき)」という考え方を肯定するならどうなるのかというお話をしてみようと思います。
僕が「すべては意識」という考え方を肯定するなら
僕は、たまたま、真理の探究を始める前に、ハートとは何かということへの気づきがありました。
だからこそ、真理の探究が始まったと言ってもいいかと思います。
なので、「すべては意識」と言われても、「じゃあ、このハートは何なんだ?」という疑問が当然湧いたわけです。
「一時的に現れているだけの感覚にしては、継続しているような感覚があるなあ」と思っていたわけです。
でも、そうではなかったなら、恐らく、「すべては意識」という考え方を肯定していたんじゃないかと思います。
確かに、すべての物事は一時的に現れては消えていくもののように感じられるからです。
僕は、小さい頃から、わりと飽きっぽい性格をしていました。
どんなに楽しいことであれ、それが2週間も続けば絶対に飽きるよねという確信を、中学生の頃には持っていました。
「なぜ、人はあらゆるものに飽きてしまうんだろうか?」という疑問を当時から持っていました。
「すべては意識」という言葉は、それを肯定する側面も持っていると思います。
「この意識に現れるあらゆるものは一時的な性質を持っていて、現れては消えていく。唯一、一時的ではない性質を持っているのは、この意識だけ」
それは、確かなことのようにも思えます。
ハートだって現れては消えていく
僕は、ハートについて色々と語っていますが、ハートというのは特別な何かじゃありません。
すべての人が、その存在を知っているはずなんです。
それは、仕事をやり遂げて、それから解放された感覚とほぼ同じです。
ハートとは解放感のことだと言っても、それほど誤解はないと思います。
(関連記事:探求を早く終わらせたいなら、まず、ハートを理解する)
とはいえ、解放感って長くは続きませんよね?
仕事から解放された感覚は、数日もあれば消えてしまうでしょう。
そして、また新たな仕事に取り掛かることになります。
であるなら、ハートだって現れては消えていくものだと言えると思います。
そのことは否定することができません。
この意識の中で、ハートというのは相対的に、現れては消えていくもののようにも感じられます。
そして、それはハートだけに限りません。
身体感覚、感情、思考、イメージ、あらゆるものは一時的に現れては消えていくということの繰り返しです。
それでも、そのことに気がついている状態は常にここにあります。
それが意識であり、気づきです。
僕は、小さい頃から、死の恐怖を感じることがよくありました。
夜、寝る前に、ベッドの中で死の恐怖に襲われることもよくありました。
でも、その状態もずっと続くわけじゃありません。
知らぬ間に眠りに落ちていて、朝、起きたら死の恐怖は消えています。
あらゆるものは、現れては消えていきます。
「唯一、ここに在ると言えるのは、そのことに気がついている意識だけ」というのは説得力があります。
生きていれば、苦しいことだってあります。
でも、その苦しみだってずっと続くわけじゃありません。
もちろん、長く続くこともありますが、一生途切れなく続くということはありません。
であるなら、その苦しみは、一時的に現れているだけなのでしょう。
反対に、楽しいことだってずっとは続きません。
であるなら、楽しさだって、一時的に現れているだけなのでしょう。
自分というのは、そのことに気がついている意識であって、それは常にここに在るものです。
そのことを理解することが真理を悟ることだとも思うことができます。
苦しみを避けることもなく、楽しさに執着することもなく、常にここに在る意識が自分自身なんだと。
体の痛みだって現れては消えていく
とはいえ、人の体は死に向かって進んでいきます。
歳をとれば、健康は段々と失われていきます。
寝れば回復していたのが、寝ても回復しなくなったりもするかもしれません。
現代においては、少くもない人が癌にかかって死んでいきます。
ラマナ・マハルシだって、ニサルガダッタ・マハラジだって、癌で死んでいます。
とはいえ、すべては意識であるなら、癌の痛みだって現れては消えていくでしょう。
ある程度は、そう思うこともできると思います。
でも、癌の病状が進行するならば、なかなかそうも思えなくなるかもしれません。
モルヒネなどを注射して、痛みを紛らわすことはできるかもしれません。
でも、癌の痛みが根本的に消えることはないでしょう。
癌細胞は増殖し続けます。
ニサルガダッタ・マハラジは、癌の痛みの状態を、針のベッドの上に横たわっているようだと表現していたと思います。
ラマナ・マハルシは癌の痛みを感じていないかのように振る舞うことが多かったようです。
でも、医師は、ラマナ・マハルシが癌の痛みを感じていたことを確信していたようです。
身体的な反応が現れていたのだと思います。
僕だって、将来的に、癌で死ぬ可能性があります。
それは、僕だけに限りません。
その時、「すべては意識だ。この癌の痛みだって現れては消えていく」と思うことはできるんでしょうか?
この意識だって、現れては消えていくのではないか?
癌の痛みだって、当然のことながら永続はしません。
その痛みは、やがては消えていきます。
体が死ぬことによって、癌の痛みは消えるでしょう。
でも、その時は、意識だって消えているんじゃないでしょうか?
生きていて、ここに気づきがある時には「すべては意識だ」と思うことができます。
でも、体が死んだ後にも、すべては意識だと思うことはできるでしょうか?
熟睡している時の経験から言うと、そこには気づきはないようにも思えます。
体が死ぬのならば、この気づきは永遠に失われるのかもしれません。
もちろん、気づきが消えたとしても、意識そのものは常にここに在って、やがては気づきがまた現れるのかもしれません。
輪廻転生です。
でも、そのことを確認することはできないんじゃないでしょうか?
そしてまた、そうであるなら、それは意識ですら現れては消えていくということなんじゃないでしょうか?
例えば、目の前に、赤いリンゴをイメージしてみたとします。
そして次に、赤い郵便ポストをイメージしてみたとします。
その、赤いリンゴのイメージと、赤い郵便ポストのイメージには継続性があるんでしょうか?
どちらのイメージも、その瞬間だけの刹那的なものです。
であるなら、この意識だって刹那的なものかもしれません。
前世、来世があるとして、それは今世と継続性があるんでしょうか?
僕には前世の記憶はありません。
おそらく、多くの人はそうだと思います。
そして、前世の記憶があったとしても、それは単なる記憶でしかありません。
記憶が、前世が実在するという証拠になるでしょうか?
そう考えると、来世があるとしても、おそらくそれは、今のこの人格とは別人でしょう。
「すべては意識」と思うことはできます。
でも、そう思うその人は、単なる人格です。
この人格は今世だけのものです。
僕は小さい頃から死の恐怖を感じていましたが、それは、この人格を失うことへの恐怖でした。
(関連記事:死の恐怖は、どこからやってくるのか?)
この人格は意識とはどういう関係性になっているでしょうか?
それはセットでしょうか?
もしかすると、そう思っている人もいるかもしれません。
体が死んでも、この人格と意識は継続すると思うかもしれません。
でも、それは希望的観測なんじゃないでしょうか。
もし、そうであるなら、人は死の恐怖を感じたりなんかしません。
この人格は消滅するんだと直感するからこそ、死の恐怖を感じるんじゃないでしょうか。
であるなら、「すべては意識」という言葉に何の意味があるでしょうか?
この人格からすれば、「すべては意識」という言葉は絶望的です。
この人格には生き残るすべはないということです。
もちろん、「すべては意識であって、この人格は存在しない」と思うことはできます。
でも、そう言語化するのは一体誰なんでしょうか?
まさしく、この人格です。
「すべては意識である」ということを確信していたとしても、死を直前にするならば、こういった疑いは湧き出てくるのではないかと思います。
僕は、それを恐れていました。
そう考えると、遅かれ早かれ、僕は「すべては意識」ということを疑い始めていたんじゃないかと思います。
本当に、すべては一時的なのか?
「すべては意識」という言葉は、意識以外のものはすべて一時的であるということを含んでいます。
でも、それは本当なんでしょうか?
多くの人は、退屈という感覚が一時的なのかどうかを確認しないのではないかと思います。
退屈という感覚は、比較的簡単に避けることができます。
電車に乗れば、多くの人がスマホでLINEをしていたり、ゲームをしていたり、マンガを読んでいる姿を確認できると思います。
「退屈だな〜」と感じたら、スマホを取り出してゲームを始めます。
すると、退屈という感覚を紛らわせることができます。
もしくは、やりたいことが沢山あるなら退屈をすることはないでしょう。
なので、退屈という感覚も一時的だと思うかもしれません。
でも、退屈を避けることができることと、本当に退屈は一時的なのかを確認することには大きな違いがあります。
すべての苦しみは一時的なように、すべての楽しさが一時的なように、退屈だって一時的なものです。
本当に「すべては意識」なのかを確認しようと思うなら、退屈の中にもとどまってみるべきなんじゃないでしょうか?
(関連記事:「苦しみ」と「退屈」を避けないこと)
退屈というのは避けるのは簡単にも関わらず、とどまるのはかなり難しいです。
なので、意図的に退屈を感じてみるための技法として瞑想などがあります。
でも、人は、瞑想中であってさえ、退屈を避けようとします。
そのことに自覚があるのならまだいいのですが、自分が退屈を避けていることへの自覚がないのであれば、瞑想は容易に迷走にもなります。
瞑想が退屈を避けるための手段として使われはじめます。
実のところ、人は、退屈が一時的なものであるということに気づきたくなんかないのかもしれません。
退屈が一時的なものであるということは、その退屈を感じる人(エネルギー)も一時的な存在だということです。
そのエネルギーこそが、この人格の核なんじゃないでしょうか?
人は、このエネルギーに執着しているんじゃないかと思います。
このエネルギーが消えるなら、退屈を感じることはありません。
でも、それは同時に、世界に向かうエネルギーが消えることも意味します。
世界に向かうのと、退屈を感じるのは、同一のエネルギーです。
世界に向かうなら、退屈も得ることになります。
世界に向かうことが無いなら、退屈も無いでしょう。
それはシンプルなことです。
それは世界と関わってはいけないということじゃないんです。
ただ、起きている間、ずっと世界と関わり続ける必要はないというだけです。
切れ目なく、ずっと世界と関わっていたいと思うからこそ、人は退屈を感じるというだけなんです。
逆説的に、もし、退屈は一時的なものだと理解したならば、世界への執着が無くなったならば、この人格の核たるエネルギーから解放されます。
退屈を避けようとすること、世界と関わり続けようとすることから、解放されるんです。
意外かもしれませんが、そこには解放感があります。
何者にも縛られていない感覚です。
「私は存在しない」とはこのことです。
(関連記事:「私は存在しない」という言葉によくある勘違い)
この人格のエネルギーが消えることは、恐れるべきことなのではなく、解放的なことなんです。
この解放感は一時的なものなんでしょうか?
仕事をやり遂げた後の解放感は、一時的なように感じられるかもしれません。
でも、世界からも、退屈からも解放されているように感じるこの解放感は、一時的なものなんでしょうか?
もちろん、最初のうちはそれは一時的なように感じるかもしれません。
でも、この解放感の中にとどまることを好むようになるなら、それは一時的なようには感じられなくなるかもしれません。
「すべては意識」と結論づけることは、このことを確認してからでも遅くはないかもしれません。
(関連記事:「退屈を避けない」って一体どういうことなのか?)