先日、うちの妻に「聖者と覚者って何が違うの?」という、とても素朴な質問をされました。
確かに、その違いって分かりづらいかもしれません。
「どっちも同じような意味?」って思うかもしれません。
でも、微妙に、結構違います。
まあ、これについては、単なる言葉遊びで、正解というものはないと思います。
人によって、意味解釈が違うと思います。
ただ、僕はこう思っているということをお話しようと思います。
聖者は、人格者だけれども、悟っているとは限らない。
僕の中では、「聖者」というのは、人格者のことを指します。
性格の良い人ですね。
愛に溢れている人とも言えると思います。
慈悲深い人だとも言えると思います。
奉仕の人だとも言えると思います。
ただ、「聖者」は、悟っているとは限りません。
例えば、「来て、私の光となりなさい!」という本があります。
マザー・テレサの本です。
マザー・テレサと、カトリック教会の神父達(上司みたいな人達)との間でやりとりされた、40通以上の手紙が紹介されています。
どんな内容だと思いますか?
おそらく、多くの人が思っているような内容ではないはずです。
例えば、こんなものがあります。
「私のために祈ってください。私がイエスにずっと微笑んでいられるように祈ってください。私は“神がいない”という地獄の苦悩を少し理解しています。しかし、それを表現する言葉が見つかりません。」(マザー・テレサ47歳の時)
「私の心には信仰がありません。愛も信頼もありません。あまりにもひどい苦痛があるだけです。あなた(イエス)と私との間には、恐ろしいほどに高い垣根(分離)があります。私はもうこれ以上、祈ることはできません。あなたと私を結びつける祈りは、もはや存在しません。私はもう祈りません。私の魂はあなたと一つではありません。」(マザー・テレサ49歳の時)
「私がシスターや人々に神や神の仕事について口を開くとき、その人たちに光と喜びと勇気をもたらすことをよく理解しています。しかしその私は、光も喜びも勇気も何も得ていないのです。内面はすべて闇で、神から完全に切り離されているという感覚です。」(マザー・テレサ75歳の時)
マザー・テレサが、聖者であることは疑いようがありません。
でも、当のマザー・テレサは、神やイエスとの分離感に苦しみ続けました。
もし、聖者であることに執着するような「聖者」がいるのであれば、その人は悟ることはないでしょう。
その執着が、その人を真理から遠ざけてしまうからです。
でも、マザー・テレサには、聖者であろうという意図はなかったはずです。
ただ、36歳のときに経験した「神の啓示」に執着しました。
イエスがあらわれて、「すべてを捨て、もっとも貧しい人の間で働くように」と言われたという啓示です。
「Come Be My Light(来て、私の光となりなさい!)」と言われたと言います。
それが、本のタイトルにもなっています。
ただ、もし、マザー・テレサが、禅の人であったなら、師にこう言われたかもしれません。
「イエスを殺せ」と。
覚者は、悟っているけれども、性格が良いとは限らない。
僕の中で、「覚者」というのは、悟っている人です。
覚醒している人とも言えると思います。
目覚めている人とも言えると思います。
真我実現している人とも言えると思います。
真理を理解している人とも言えると思います。
ただ、性格が良いとは限りません。
人格者とは限りません。
極端なことを言えば、犯罪者だけれども、覚者という人もいるはずです。
例えば、バガヴァッド・ギーターの中で、クリシュナ(覚者)は、戦争をためらうアルジュナに対して、こう言います。
「ためらいを捨て、クシャトリヤとしての義務を遂行し、殺せ」
クリシュナは、「戦争は良くないことだから、やめなさい」とは言いません。
むしろ、「あの者達は、戦争によって死ぬことになっている。だから、あなたは、ためらうことなく戦士(クシャトリヤ)としての義務を遂行して、あの者達を殺しなさい」と言います。
(関連記事:バガヴァッド・ギーターを、わかりやすく解説)
覚者にとって、善悪の判断はありません。
そうするべきだから、そうするんです。
場合によっては、「犯罪者」というレッテルを貼られる可能性もあります。
でも、覚者は、そんな自分の性格を気にしません。
それは、あるがままの性格であって、矯正するようなものではないからです。
多くの場合、悟りが起こったとしても、生まれ持った性格がそのまま継続します。
ただ、中には、覚者でもあり、聖者でもあるという人もいます。
例えば、ラマナ・マハルシなんかはそうだと思います。
聖者として生きることを、運命づけられた覚者です。
悟った人であり、人格者です。
ただ、そういう人はごく稀だと思います。
ラマナ・マハルシを見て、ラマナ・マハルシのように聖者として生きようと努力するのであれば、真理から遠ざかってしまうでしょう。