瞑想というのは、基礎トレーニングのようなものです。
エベレスト山に登ろうとする人が、事前に、体作りをするようなものです。
瞑想そのものが、あなたを真理に導くわけじゃないんです。
あなたを真理に導くのは「沈黙」です。
でも、沈黙にとどまろうと思っても、思考に圧倒されるようでは、仕事になりませんよね。
なので、瞑想というものがあります。
瞑想の目的は、「思考」との戦いに勝利することです。
そのために、重要なことを2つお話します。
自分が「観察者」であることを忘れないこと。
まず、ひとつめ。
なにはともあれ、自分が「観察者」であることを忘れないことです。
瞑想には、色々な方法があると思います。
ヴィパッサナー瞑想もありますし、サマタ瞑想もあります。
その他にも、いろんな瞑想方法があります。
僕自身は、あまり多くの瞑想方法を知りません。
結局のところ、「思考」に勝利することができるのなら、なんだって良いわけです。
でも、どの瞑想方法であっても、大事なことは、自分が「観察者」であるということを忘れないことです。
まあ、口で言うのは簡単なんですけどね。
実際、瞑想をしてみると、いとも簡単に思考に巻き込まれたりすると思います。
「観察者であることを忘れずに」と言われても、そのことにすら気がつけない状態に陥ります。
そして、しばらくして、「ハッ!」っと、自分が思考に巻き込まれていたことに気がつきます。
でも、それでいいんです。
気がつくという現象は、あなたの意志に関係なく、勝手に起こります。
「ハッ!」という気づきは、あなたの意志では起こせないはずです。
もし、思考に巻き込まれたなら、「ハッ!」という気づきが起こるのを待ってください。
それで、問題はありません。
でも、重要なことは、自分が「観察者」であることを思い出したのなら、忘れないように努力をするということです。
瞑想を、続けることです。
「あ〜、また思考に巻き込まれてしまった!」
とか思わなくてもいいんです。
みずから進んで、思考の中にダイブする、ということがなければ大丈夫です。
そういうこと、ないでしょうか?
気になっていた事を、瞑想中に思い出してしまった場合、観察者自身が考え事を始めてしまうということがあります。
ある意味では、それは快楽とも言えます。
場合によっては、それは苦痛かもしれません。
でも、それをグッと我慢してください。
観察者として、観察することに集中してください。
それが瞑想です。
そうすることで、次第に、思考に巻き込まれてしまっても、「ハッ!」っと気づくまでの時間が短くなっていきます。
筋トレみたいなものです。
筋肉って、あなたが作っているわけじゃないですよね?
筋トレをすると、あなたの意志に関係なく、筋肉は増えていくはずです。
体が、勝手に筋肉を作ります。
それと同じように、瞑想を続けていると、「ハッ!」と気づく力が、勝手に強くなっていくんです。
あなたの意志には関係なくです。
本来の「私」が、勝手に、気づく力を強化していきます。
そして、瞑想修行がある段階まで進むと、「思考」が現れたことに気がつくだけで、「思考」が消えていくようになります。
自分が「思考」でもあることを自覚すること。
次に、ふたつめです。
自分が「思考」でもあることを自覚することです。
観察者として、思考に勝利するようになってくると、観察者はよく勘違いを起こします。
「観察者たるこの「私」が純粋な意識なんだ。」って。
この勘違いは避けられないと思います。
当然、僕も勘違いしましたし、ほとんどの人は勘違いするはずです。
でも、そうじゃないんです。
観察者は、実は「思考」です。
だって、観察者として考え事をすることもできますよね?
思考に勝利するようになってくると、観察者は、ある意味、「自由」のようなものを感じはじめます。
自分自身が、この体と心を動かすことができる、コントロール権者なんだという感覚がとても強くなります。
人によっては、「探求は終わった」と感じるかもしれません。
そして、意識を世界に向けるかもしれません。
世界をコントロールできるように感じるかもしれません。
別に、それはいけないことじゃありません。
そうしたいなら、そうするべきだと思います。
よく、経営者には瞑想を習慣にしている人が多いと言われますが、それは、自分がコントロール権者なんだという感覚を強めるためです。
瞑想というのは、自分の理想を追求するためにも活用することができるんです。
でも、本当に真理を悟りたいのであれば、ここで探求を終わらせないことです。
観察者は、実は「思考」です。
思考というのは、どういう運命をたどったでしょうか?
現れては、消えていったんじゃないでしょうか?
ということは、観察者も、現れては、消えていく運命にあるんじゃないでしょうか?
思考は、頭から現れて、頭の近くでフッと消えていくように感じられます。
じゃあ、観察者はどうでしょうか?
それは、頭から現れているんでしょうか?
それとも、別の場所からでしょうか?
おそらく、多くの人は、「観察者は常にここにいる!」と思うはずです。
「別に、どこかから現れているわけじゃなくて、常にここにいる!」って。
でも、その「ここ」ってどこでしょうか?
実のところ、観察者は、「ここ」から現れては、「ここ」に消えていきます。
ちょくちょくと、「ここ」から外に彷徨い出ます。
そして、「私は常にここにいる!」と思考のように主張し、自覚のないまま、「ここ」に消えていきます。
瞑想中、思考に巻き込まれている間は、巻き込まれていることに自分自身では気がつけないですよね?
「ハッ!」という気づきが起こる必要があります。
それと同じように、自分を観察者だと思っているうちは、自分が「ここ」から彷徨い出ていることに、気がつけないんです。
観察者は「ここ」に背を向けているため、「ここ」に気がつけないんです。
「ここ」は、観察者にとっての死角です。
そして、観察者が「ここ」から彷徨い出続ける限り、何かが欠けているという感覚が、無くなることはないでしょう。
自分に、なにかが欠けているんじゃなくて、自分自身が、欠けているパーツなんです。
であるならば、観察者は、欠けているパーツとして、「ここ」に収まらなければいけないんじゃないでしょうか?
思考との戦いに勝利し、観察者として、このことを理解したのなら、もう、瞑想をする必要はありません。
次は、「ここ」とは何かということを、探求していくことになります。
それは、「沈黙」にとどまることによって、理解されていきます。
それが、真我探求です。
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