真理の探求では、「サマーディ」という言葉がよく出てくると思います。
仏教では「三昧(さんまい)」でしょうか。
そして、ひとくちにサマーディといっても、いろんな種類があったりします。
僕は、すべてのサマーディを知っているわけじゃありません。
ヨガ系のサマーディについてはほとんど知りませんし、仏教の三昧の種類についても、あまり詳しくありません。
ただ、不二一元論では、サマーディの種類は、大きく2つだけです。
「ニルヴィカルパ・サマーディ」と、「サヴィカルパ・サマーディ」です。
単純に、真理を悟りたいというだけなのであれば、この2つのサマーディだけ知っておけば十分です。
瞑想修行中に感じられるのが、サヴィカルパ・サマーディ
瞑想修行中に感じられることがあるのが、サヴィカルパ・サマーディです。
ちなみに、ちょっと語源的なお話をすると、サヴィカルパの「ヴィカルパ」というのは、「概念」といった意味だそうです。
そして、「サ」というのは、「有る」という意味だそうです。
言ってみれば、サヴィカルパ・サマーディというのは、「概念的な対象が有るサマーディ」ということですね。
瞑想修行中には、呼吸、マントラ、炎、音、偶像などの瞑想対象を用意することが多いですよね。
そういった中で、感じられるのが、サヴィカルパ・サマーディということです。
なんとなく、ハートのあたりに満たされた感覚を感じるんじゃないでしょうか?
それは、サマーディです。
ちなみに、サヴィカルパ・サマーディは、必ずしも瞑想中だけに感じられるというわけじゃありません。
おそらく、すべての人が、サヴィカルパ・サマーディを感じたことがあります。
日常生活の中でも、サヴィカルパ・サマーディというのは感じられるからです。
例えば、やらなければいけない仕事をやり遂げた時、なんとも言えない解放感を感じないでしょうか?
それは、サヴィカルパ・サマーディの一種です。
「仕事をやり遂げた」という対象が、サヴィカルパ・サマーディを引き起こします。
でも、こういった解放感は、持続しません。
1〜2週間も感じられれば御の字なんじゃないでしょうか?
根拠なく満たされるのが、ニルヴィカルパ・サマーディ
サヴィカルパ・サマーディの場合、瞑想であろうが、日常生活であろうが、なんらかの対象を必要とします。
でも、ニルヴィカルパ・サマーディの場合は、対象が不要です。
根拠もなく満たされた状態になるのが、ニルヴィカルパ・サマーディです。
「ニル」というのは、「無い」という意味だそうです。
つまりは、ニルヴィカルパ・サマーディというのは、「概念としての対象が無いサマーディ」ということですね。
つまりは、根拠がありません。
まあ、根拠がないということもないですけどね。
サヴィカルパ・サマーディの場合、多くの人は、「瞑想をするから、サマーディが感じられる」とか、「目標を達成するから、解放感を味わうことができる」と思うんじゃないでしょうか?
でも、実はそれは勘違いなんです。
例えば、炎を瞑想対象にしているとします。
炎を見るから、サマーディが引き起こされると思うかもしれません。
でも、本当にそうでしょうか?
サマーディは、ハートから、直接あらわれてはいないでしょうか?
それとも、炎がハートまでトコトコとやってきて、ハートに火を付けて(サマーディにして)、またトコトコと帰っていくでしょうか?
そんなことはないはずです。
瞑想対象である炎が、サマーディを引き起こしていると考えているのは、マインドだけです。
よく、観察してみてください。
本当のところは、サマーディは、ハートから、直接あらわれます。
というか、ハートそのものがサマーディです。
マインドによる勘違いに惑わされることなく、サマーディそのものをとらえている状態。
それが、ニルヴィカルパ・サマーディです。
ラマナ・マハルシの言葉を借りるなら、それが、「実在をとらえている」状態です。
とはいえ、マインドによる勘違いは強力です。
マインドは、目の前の世界の状態と、感情を、巧妙にリンクさせています。
理想的な状態になれば、楽しいし、思い通りにならなければ、苦しみます。
そして、何もすることがなければ、退屈します。
何の根拠もなく、ここにサマーディがあるということを、マインドはなかなか受け入れません。
なので、マインドがそれを理解するまでは、意識的に、意志の力で、教え込む必要があります。
世界の実在性が失われた状態が、サハジャ・ニルヴィカルパ・サマーディ
マインドによる勘違いの、最たるものは、「世界は実在している」という勘違いです。
この勘違いは強力です。
ニルヴィカルパ・サマーディを理解したとしても、この勘違いは、しばらくは続きます。
「真理を悟るには、神の恩寵が不可欠」と言われることがありますが、それは、まさしく、この勘違いが解体されるかどうかは、自分の意志ではコントロールできないからです。
ニルヴィカルパ・サマーディとは何かを理解するところまでは、意志の力が有用です。
でも、日常生活の中で、ニルヴィカルパ・サマーディの中にとどまることができるようになったなら、その後の展開は、神のみぞ知るです。
もし、「世界は実在している」という勘違いが解体されたなら、ニルヴィカルパ・サマーディは、サハジャ・ニルヴィカルパ・サマーディとなります。
「サハジャ」というのは、「自然な」という意味です。
世界が実在しているという勘違いが解体されるということは、世界に対しての執着が、消えてしまっているということです。
世界を実在たらしめている、記憶への執着が、消えてしまっているということです。
その時、サマーディを妨げる存在がどこにあるでしょうか?
もし、世界に対して、理想を握りしめるのであれば、サマーディは消えたかのように感じられます。
一方、世界は実在しないと理解するのであれば、サマーディは、自然なものとなります。
【関連記事】自我は「記憶」を利用する
【関連記事】瞑想はトータルで何時間ぐらいする必要がある?