ラマナ・マハルシの本を読んでいると、「ラマナ・マハルシは平等主義者なのかな?」って思われるエピソードが書かれていたりします。
例えば、食事。
ごはんの量が、みな、平等であることにこだわっていたようです。
アシュラム内で、自分の分だけ、ごはんの量が多かったりすると、「平等であるべきです」と指摘していたようです。
そう考えると、ラマナ・マハルシは、「ごはんの量は、みな、平等であるべきだ」という明確な意志を持っていたように思えます。
それって、理想や執着のようにも感じますよね。
これは、非常に言葉にしにくいのですが、ラマナ・マハルシは、理想や執着を持っていたわけでもなく、ましてや、意志を握りしめていたわけでもないんです。
でも、周りから見ると、まるで、意志や理想や執着を持っているかのように見えます。
それは、なぜなのか?
お話します。
私は行為していない。
アシュラム内でも、こういった疑問を抱いていた探求者は少なくないと思います。
ラマナ・マハルシは、質疑応答の中で、「行為することを止めなさい」ということを良く語ります。
なのに、ラマナ・マハルシは、ごはんも食べるし、ごはんの量が不平等だと、それに対して指摘もするわけです。
一時期は、ラマナ・マハルシ本人が、厨房に立って料理を作っていたこともあるようです。
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そうなると、「「行為することを止めなさい」と言うけれども、ラマナ・マハルシ本人は、ごはんも食べるし、ごはんが平等に配られることにもこだわるし、厨房に立って料理を作っているぞ?これはどういうことだ?」ということになります。
当然のことながら、そのことをラマナ・マハルシに質問する人もいます。
それに対する答えは、「私は行為していない」です。
一般人からすれば、完全に意味不明でしょう。
「この人は、気が狂っているのではないか?」とも思うでしょう。
でも、これは、まさしく「私とは一体誰なのか?」ということが、問われているんです。
私はハートであり、観照者である。
ラマナ・マハルシにとって、「ラマナ・マハルシ」という名前は、その体に付けられた敬称です。
自分の存在の本質を指すものではありません。
ラマナ・マハルシにとって、その、存在の本質はハートにあります。
そして、ハートの光の反映である、観照者でもあります。
ラマナ・マハルシは、探求者に対して、「私とは誰か?」と問いなさいと言います。
(関連記事:ラマナ・マハルシ「私は誰か?(Who am I?)」【書籍の解説】)
でも、それと同時に、その答えを自ら言ってしまっています。
完全にネタバレです。
「ハート!ハート!ハート!」(実際にはこんな連呼はしてないと思いますが。。僕のイメージです。)
「心をハートに沈めなさい。」
と言います。
ただ、ハートと言われて、そのハートが何を意味するのかを理解できる人は少ないでしょう。
「私とは誰か?」と問われるなら、その答えは「ハート」なんだなと、思考的に理解することはできます。
でも、思考は、ハートの本質を理解することができません。
観察対象として認識できないものを、理解することはできないからです。
なので、場合によっては、ハートは存在しないという結論に至る人もいると思います。
それは、間違っていないと思います。
ここに無いと思っているものを、有ると思い込むことは、まさしく幻想ですから。
だからこそ、ラマナ・マハルシは、ネタバレしながらも、「私とは誰か?」と問いなさいと言うのではないかと思います。
例えば、こんな質疑応答があります。
「私は、「私とは誰か?」と問います。そうすると、沈黙がやってきます。でも、問いの答えは得られません。そして、私はまた、「私とは誰か?」という問いにもどるのです。」
それに対する、ラマナ・マハルシの答えはこうです。
「なぜ、あなたは沈黙から立ち去ったのですか?」
このことから言えるのは、「私とは誰か?」に対する、思考的な答えというのはやってこないということです。
「私とは誰か?」という問いの、もうひとつの答えは、「沈黙」です。
沈黙にとどまることによって、ハートとは何かを、本当に理解できるようになるということです。
ただ、沈黙にとどまることは、多くの人にとっては困難なんじゃないでしょうか?
沈黙とは、おそらく、多くの人にとっては、別名「退屈」です。
そして、沈黙にとどまる場合、いままでフタをしてきていた苦しみが、意識に気がつかれるカタチとして、浮上してくることも多いです。
でも、それでも沈黙にとどまる努力を続けるならば、次第に、ハートとは何かということに気がついていくはずです。
ハートに帰依するなら、意志を握りしめることは不可能です。
ただ、ハートというのは、1度で理解できるというようなものでもありません。
1度、ハートを認識したのなら、それがずっと続くというようなものじゃないんです。
ハートそのものは、始まりも終わりもないもので、常にここに在るものです。
でも、最初のうちは、それは現れたり、消えたりするように感じられます。
「あれ?今まで感じていたハートの至福感が消えてしまったぞ?」
というようなことが、よく起こります。
なので、「ハートというのは感情と同じようなもので、一時的なもの」と判断する人もいると思います。
それは、避けられないと思います。
ただ、沈黙にとどまり続けるのならば、ハートの存在感は、より大きくなっていくはずです。
そして、次第に、どういう時に、ハートが消えてしまったかのように感じられるのかということが、明確になっていきます。
それは、どんな時かというと、自我が、理想を握りしめたときです。
理想の中には、それは、自分のみならず、すべての存在に幸福を与えるであろうと思えるものも、あると思います。
その理想を握りしめた瞬間には、高揚感、幸福感、至福感のようなものを感じるかもしれません。
でも、そういったすべての理想の中には、苦しみの種が含まれています。
高揚感、幸福感、至福感、といったものは、一時的なもので、やがて、それは苦しみへと変わっていくはずです。
(関連記事:今すぐ苦しみを手放す方法【理想論】)
そういった経験を、したことはないでしょうか?
そういった経験を、繰り返してはいないでしょうか?
この因果関係を、完全に理解してしまったならば、人は、おいそれと理想を握りしめることはできなくなります。
ハートを犠牲にしてまで、実現しなければならない理想というのは、存在しないからです。
世界は実在するわけではなく、それは、ハートの光の反映です。
そして、最終的には、理想を握りしめようとしても、自分がそれをすることができなくなっているということに気がつきます。
反射神経というか、知性というか、そういったレベルで、理想を握りしめようとすることが拒否されるということに気がつきます。
例えば、僕の妻は、「お義母さんにもっと優しくしてあげなよ」と言うことがあります。
優しくしてないつもりはないのですが、「う〜ん、その場になってみないと分からないな〜」とか答えると、妻は怒ります。
「なんで分かんないの!」ということになります。
「優しくしなきゃ」という意志を握りしめることができないんです。
それは、反対に、神の意志に反することのような感覚があるんです。
こういったことは、なかなか理解されないと思います。
多くの人は、意志を握りしめることは簡単だと思っています。
いとも簡単に、意志を握りしめます。
でも、本当にハートとは何かを理解したのなら、そんなことはできなくなるはずです。
本当にハートとは何かを理解したのなら、ハートに帰依せずにはいられません。
ハートに帰依するなら、意志を握りしめることは不可能です。
握りしめることはないけれども、手のひらには乗っている。
でも、ラマナ・マハルシは、ごはんの量が平等であることにこだわりました。
ごはんの量が不平等だと、それを指摘したりしました。
それって、一体どういうことなんでしょうか?
ラマナ・マハルシは、「ごはんの量は平等であるべきである」という意志を握りしめていたんでしょうか?
誰の言葉だったかは忘れてしまいましたが、こんな言葉があります。
「真理を悟ったとしても、まるで、意志を持っているかのように生きなければならない。」(ラーマ・クリシュナだったような気がしますが確信はありません。。)
生きている限り、思考は起こりつづけて、行為も起こりつづけます。
覚者は、起こる思考を、自分の意志として握ることはないのですが、その思考は、その手のひらには乗ります。
そして、生きている限りは、その思考を、自分の意志かのように扱う必要があるんです。
(関連記事:意志として、思考のように振る舞う。)
手のひらに乗っているだけなので、次の瞬間には、その意志のようなものは、風に吹かれて、どこかに飛んでいってしまうかもしれません。
飛んでいくのであれば、飛んでいったで、放っておきます。
でも、その一方で、風に吹かれずに、ずっと、手のひらに乗りつづける意志のようなものも、あるかもしれないんです。
別に、握りしめているわけじゃないんだけど、なぜだか、ずっとそこに居座る、意志のようなものもあるかもしれないんです。
例えば、それが「ごはんの量は、みな、平等であるべきだ」といったものだったらどうでしょうか?
周りの人からすれば、それは意志のように感じられるでしょう。
なので、「ラマナ・マハルシも、意志を握りしめるし、その意志に従って行為するのでは?」という疑問が生まれるのは当然とも言えます。
でも、今までお話してきた通り、ラマナ・マハルシが、意志を握りしめるということはあり得ません。
ハートに帰依している人が、特定の意志を、自分のものとして握りしめるということは不可能です。
生きている限り、思考は起こりつづけ、行為も起こりつづけます。
でも、「私」はハートの中にとどまりつづけます。
それが、「私は行為していない」ということです。
それが、「あるがまま」ということなんです。