今回は、独断と偏見でラマナ・マハルシの名言についてお話したいと思います。
今回ピックアップするのは「眠りのない眠り」という言葉です。
覚者がこういう言葉を使う時には、なにか深遠な意味があるかのように思いがちです。
「もしかして、ラマナ・マハルシは熟睡中にも意識を保っているのではないか?」とか考えがちなんです。
僕も、「もしかしたらそうなのか?」と思っていた時期がありました。
でも、そうじゃないんです。
少なくとも、ラマナ・マハルシの言葉はわりとシンプルで、直接的な表現が多いです。
「眠りのない眠り」という言葉も、そのまんまの意味です。
「ラマナ・マハルシとの対話」から引用
「眠りのない眠り」という言葉が使われている対話を、「ラマナ・マハルシとの対話」の対話13から引用します。
マハルシ:(中略)真我は常に存在し、真我なしには何も存在しません。真我として在りなさい。そうすれば欲望や疑いは消え去るでしょう。真我は眠り、夢見、目覚めという存在状態の観照者です。それらの状態は自我に属しますが、真我は自我さえ超越しています。眠りの状態の中でも、あなたは存在していなかったでしょうか? 眠っている間、あなたは自分が眠っていることや世界に気づいていないことを知っていましたか? あなたが眠りの体験を自覚のない状態だったと描写するのも、目覚めの状態においてだけです。それゆえ、眠りの状態の意識は目覚めの状態の意識と同じものなのです。もしこの目覚めの状態の意識が何であるかを知っているなら、あなたは三つのすべての状態を観照する意識を知ることになります。そのような意識は、眠りにおける意識を探求することで見いだすことができるのです。
質問者:その場合、私は眠ってしまうでしょう。
マハルシ:それでもかまいません!
質問者:それは空白状態なのです。
マハルシ:誰にとってその空白状態は現れるのですか? 見いだしなさい。いつであれ、あなた自身の存在を否定することはできないはずです。真我は常にそこに在り、すべての状態において存在しているからです。
質問者:あたかも眠りの中にとどまりながら、しかも同時に気づいているべきなのでしょうか?
マハルシ:そのとおりです。気づいていることが目覚めの状態です。それゆえ、それは眠りの状態ではなく、眠りのない眠りなのです。想念の起こるままにまかせていたら、あなたは自分を見失い、果てしなく迷路をさ迷うだけでしょう。
質問者:だとすれば、私は想念の起こる源を探求することに戻るべきなのでしょうか?
マハルシ:まさにそのとおりです。そうすれば想念は消え去り、ただ真我だけが残るでしょう。実際、真我には内側も外側も存在しません。そのような観念も自我による投影でしかないのです。真我は純粋で絶対なるものだからです。
質問者:知的になら理解できますが、知性は実現の助けとなるのでしょうか?
マハルシ:ある段階までなら助けとなります。たとえそうだとしても、真我が知性を超越していることは理解しておきなさい。知性は真我に達する前に消え去らなければならないからです。
自我の眠りと、意識の眠りは違います
「眠りのない眠り」という言葉を理解するには、自我の眠りと、意識の眠りは違うものだと理解する必要があります。
多くの人にとって、自我の眠りと、意識の眠りは、ほぼイコールなんじゃないかと思います。
意識が寝てしまっている場合、当然のことながら、自我も寝てしまっています。
イコールです。
でも、自我が寝てしまったなら、意識も寝てしまうんでしょうか?
このことをしっかりと確認したことがある人は少ないかもしれません。
そもそも、「自我の眠り」ということがイメージできないかもしれません。
意識の眠りというのは、簡単にイメージすることができます。
体が寝ている状態と同じです。
でも、多くの人にとっては、自我というのは、ここに意識があるうちはずっと継続しているものなんじゃないかと思います。
この自我が眠りに入るということはイメージし難いんじゃないかと思います。
この質問者もきっとそうなのでしょう。
「その場合、私は眠ってしまうでしょう」と言っています。
でも、自我の眠りと、意識の眠りは違うものなんです。
自我だけを眠らせることが、眠りのない眠りです
自我だけが眠っている状態が、眠りのない眠りです。
そして、眠りのない眠りというのは特別な状態じゃありません。
おそらく、すべての人が眠りのない眠りを知っています。
ただ、それが眠りのない眠りであるという自覚がないだけです。
例えば、映画を観ることに集中しているとき、自我は眠ってはいないでしょうか?
「いやいや、眠っているどころか活性化しているんじゃないの?」って思うかもしれません。
そう思うならおそらく、自我と意識を混同してしまっています。
(関連記事:「意志」と「意識」の違いとは?)
自我には気づくという機能は備わっていません。
自我というのは、思考であり、意志です。言語やイメージを司るものです。
映画に集中している間は、言語やイメージの機能は働いていないんじゃないでしょうか?
言ってみれば、自我は眠ってはいないでしょうか?
映画に気がついているのは意識の機能です。
多くの自我は、自我と意識を同一のものだと勘違いしています。
眠りのない眠りにとどまることが真我探求への入り口です
ラマナ・マハルシは、真我探求を勧めています。
眠りのない眠りにとどまることが真我探求への入り口です。
「じゃあ、映画を観続けることは良いことなのか?」と思うかもしれません。
もし、観たいなら観るのが良いと思います。
でも、集中して観続けることができる映画なんてそう多くないでしょう。
そのうち飽きてしまいます。
映画以外にも、興味が持てる何かがあるのなら、それをやってみるのがいいと思います。
でも、いつかはそれにも飽きてしまうでしょう。
なので、遅かれ早かれ、探求者は何も無い状態であっても、眠りのない眠りにとどまれるようになる必要があるんです。
瞑想というのは、そのためのトレーニングと言えます。
瞑想に熟達するなら、何かに集中する必要もなく、眠りのない眠りにとどまることが簡単になります。
瞑想には意味が無いと言われることもありますが、少なくとも、眠りのない眠りにとどまれるようになるまでは努力することができます。
(関連記事:ラマナ・マハルシは瞑想を否定しているのか?肯定しているのか?)
真理の探求では、そうするだけの意志の強さは求められるかもしれません。
努力は不要と言われることもありますが、それは、迷子になっている人に「努力は不要」と言うようなものかもしれません。
ラマナ・マハルシはこう言っています。
「想念の起こるままにまかせていたら、あなたは自分を見失い、果てしなく迷路をさ迷うだけでしょう」
少なくとも、家に帰るまでは努力はしたほうがいいんじゃないでしょうか?
家とは、眠りのない眠りであり、沈黙です。
家に安住してしまえば努力は不要であり、むしろ、努力(知性)は真我に達する前に消え去らなければなりません。
ラマナ・マハルシはこう言っています。
「もしこの目覚めの状態の意識が何であるかを知っているなら、あなたは三つのすべての状態を観照する意識を知ることになります。そのような意識は、眠りにおける意識を探求することで見いだすことができるのです」
三つのすべての状態を観照する意識とはハートのことです。
多くの人は、家の外を見ることに慣れすぎていて、家の中を見ていません。
そして、家の中は空っぽだと思っています。
でも、それは誰にとって空っぽなんでしょうか?
家の中にはベッドがあります。
家に帰ってきたなら、ベッドに潜り込んで寝てしまえばいいんです。
「眠りのない眠り」を観察する意志としての仕事を放棄して、そのベッドの中に潜り込んでしまえばいいんです。
そこではむしろ、空白状態は至福感として感じられるはずです。
(関連記事:真我探求を早く終わらせたいなら、まず、ハートを理解する)