仏教には、「三法印」という言葉があります。
諸行無常(しょぎょうむじょう)・諸法無我(しょほうむが)・涅槃寂静(ねはんじゃくじょう)の3つのことを指します。
この3つの言葉は、真理を言い表したものと言われています。
この三法印は、インド(バラモン教・ヒンドゥー教)の「サット・チット・アーナンダ」の影響を受けているはずです。
というよりも、同じ意味でしょう。
そして、もっと言うならば、キリスト教の「父と子と聖霊(三位一体)」だって、同じ意味です。
世界の中でも、影響力のある、これらの3つの宗教は、言葉は違えど、すべて同じ真理を教えていると言うこともできます。
今回は、特に、仏教の「三法印」についてお話しようと思います。
諸行無常とは?
諸行無常という言葉、知らない人はいないんじゃないでしょうか?
小学校とかでも、教科書の中に書かれているんじゃないかと思います。
平家物語の、冒頭にもでてきます。
「祇園精舎の鐘の音、諸行無常の響きあり・・・」って。
一般的には、諸行無常というのは、「時間の流れとともに、世界が少しずつ変化していく様」「常に同じ状態を保ち続けることができる存在は無い」という意味で使われることが多いと思います。
そして、それは、とても理解しやすいものです。
じゃあ、多くの人は、すでに三法印のうちの一つを、悟っているんでしょうか?
おそらく、そんな風には思えないんじゃないかと思います。
諸行無常という言葉の本当の意味は、実は、ちょっと違うからです。
多くの人は、「諸行無常」と聞くと、時間の流れを意識するんじゃないでしょうか?
頭の中で、時間の流れを意識して、「昔流行っていたお店も、時間の流れとともに、潰れていってしまうよなあ」とかイメージして、そのことを、諸行無常と思うんじゃないでしょうか?
実は、諸行無常には、時間という概念は不要です。
別に、時間という概念をイメージしなくても、目の前の、この世界は諸行無常だからです。
例えば、今、外では雨が降っています。
濡れた道路を、車が通るときの「シャ〜」という音が、聞こえてきます。
でも、「シャ〜」という音は、すぐに消えてしまいます。
僕の目の前には、Macbookがありますが、僕が、頭を90度、右に向けると、Macbookは視界から消えてしまいます。
頭を元に戻すと、再び、Macbookは現れます。
そして、Macbookに向かってタイピングすると、カチカチという音が聞こえては、消えていきます。
この、5感覚を通じて感じられる世界というのは、刻一刻と、移り変わっていきます。
諸行無常というのは、こうやって、5感覚を通じて感じられる世界が、移り変わっていくことを意味します。
そして、これが世界の全てです。
この5感覚の外に、世界はありません。
だからこそ、諸行無常です。
このことは、なかなか理解が難しいと思います。
「いやいや、世界は、この5感覚で感じられる範囲の外にもあるでしょ?」って思うんじゃないでしょうか。
例えば、以前、旅行に行ったことがある場所を思い浮かべるかもしれません。
例えば、ハワイとか。
でも、そのイメージは、この5感覚の中に現れますよね?
そして、そのイメージも、すぐに消えてしまいます。
「飛行機でハワイに行けば、ハワイは存在しているはずでしょ!」って思うかもしれません。
確かにそうなのですが、それは、この5感覚で感じられる世界が、諸行無常に変化していき、結果として、目の前にハワイが現れるというだけです。
例えるならば、テレビの中の映像が、今居る場所から、ハワイに切り替わったとしても、テレビは移動していないことと同じです。
これは、理解が難しいです。
だからこそ、三法印の一つなんです。
しかも、三法印の中で、1番悟ることが難しいものでしょう。
諸法無我とは?
次に、諸法無我です。
諸行無常の場合には「諸行」なのですが、こっちでは「諸法」です。
諸行というのは、この世界の中での関係性のことを指しています。
例えば、水を火にかけるという行為を行えば、沸騰するなどの関係性です。
一方、諸法というのは、この世界を超えたもののことを指しています。
この世界を、存在たらしめている何かということですね。
そのことを法(ダルマ)と呼んだりします。
諸法無我というのは、この世界はもとより、それを超えたなにかの中にさえ、我(個人)と呼べるものは存在しないということです。
ブッダは、「天上天下唯我独尊」と言ったと言われています。
この言葉って、ある意味では、とても傲慢だったり、尊大な雰囲気を感じるかもしれません。
「天の上にも、天の下にも、私以上に尊い存在はいない」と言っているようにも感じられるからです。
でも、本当の意味は、そうじゃありません。
実のところは、「私は、これ以上ないほど、孤独である」と言っているようなものです。
言ってみれば、「私」しかいないんです。
そして、その「私」というのは、個人じゃありません。
それが、諸法無我ということです。
多くの人は、自分自身のことを個人だと思っていて、周りにも、多くの個人(他人)がいると思っているはずです。
でも、本当はそうではなく、「私」というのは、そのことに気がついている存在、言ってみれば、5感覚や、感情、思考などに気がついている「意識」であるということなんです。
仏教では、そのことに気づくための手段として、瞑想が推奨されると思います。
涅槃寂静とは?
最後に、涅槃寂静です。
これは、ある意味、言葉の意味そのままです。
「涅槃」とは「寂静」のことです。
人によっては、涅槃寂静というのは、諸行無常、諸法無我、ときて、一番最後に悟るもの、最終的な悟りの状態だと思うかもしれません。
はたまた、涅槃寂静というのは、死後の、天国のことだと思うかもしれません。
そうじゃないんです。
三法印には、優劣というのはありません。
ただ、真理についての、3つの側面をリストアップしたようなものです。
涅槃寂静というのは、真理についての、ある意味では、感情的な側面を表したものです。
正確に言えば、感情を超えた状態のことを表しています。
多くの人は、感情というのは、目の前の状況と、リンクしていると思っているはずです。
目の前の状況が良ければ、嬉しいし、悪ければ、苦しみます。
感情というのは、そういうものだと理解しているはずです。
そして、何もすることがなく、退屈な状態、静寂な状態は、あまり好ましくない状態だと思っているはずです。
できれば、退屈とか、静寂な状態は、避けたいと思っているはずです。
でも、涅槃というのは、静寂の中にあります。
これは、多くの人の、直感的な理解と、真逆です。
でも、仏教では、瞑想を通して、このことを確認することになります。
静寂の中には、何があるんでしょうか?
退屈でしょうか?
無感情な状態でしょうか?
実際のところ、そこには、解放感があります。
心地よい感情を求めること、嫌な感情を避けようとすることからの、解放です。
それは、平和と呼ぶこともできるし、至福と呼ぶことも、ニルヴァーナと呼ぶこともできます。
このことを確認するなら、今まで、自分がいかに感情に支配されてきたのかを理解することになります。
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