悟りの段階には、大きく3つあると思います。でも、意図的に目指すことができるのは、おそらく、2つだけです。3つめの最終的な悟りは、理屈的に、目指すということはできないはずです。
世の中では、瞑想中の状態を何段階かに分けて〝悟りの段階〟と言ったりします。でも、それは〝悟りの段階〟というよりも、まさしく〝瞑想の段階〟です。悟りと瞑想は関係があるようで、必ずしも関係はありません。僕の認識でいえば、瞑想することが不要になって初めて、悟りとは何かを理解することができるという感じなんじゃないかと思います。
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感覚的な悟りと、認識的な悟り
意図的に目指せる悟りには、感覚的なものと、認識的なものの、2つがあります。感覚的なものとは、ハートの理解です。認識的なものとは、自由意志は存在しないことの理解です。どちらを先に悟るのかは、人に依るかもしれません。でも、どちらかが欠けるということはあり得ません。実のところ、この2つの理解は相互に関係し合っているからです。
例えば、僕は最初にハートを理解しました。根拠も無くいい気分でいられるというのは不思議なことでした。でも、その時点では、自由意志が存在していないということは理解していませんでした。むしろ、「いい気分を維持しながらも、自分の願望を満たしていきたいな」とすら思っていました。その結果、ハートの感覚を失ってしまうかのようなことも経験してきました。ハートの感覚を感じることができるのは、自由意志による束縛から解放されるからです。でも、その関係性を十分に理解していないうちは、自由意志の感覚を強くしてしまうこともあり得ます。
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はたまた、自由意志が存在していないことを最初に理解する人もいるかもしれません。瞑想を習慣にしていると、自分自身の思考を観察するクセがつきます。自分は観察者で、勝手に湧き上がる思考は観察対象です。この構図を理解するのは簡単です。でも、観察者は、自分自身が観照対象であるということをなかなか理解しません。例えば、頭の中がシーンとした状態を観察して、「私はいない」と思ったりします。明らかにそこには、「私はいない」と思う人がいるのですが、観察者は自分自身を例外扱いします。
例えるなら、観察者は、自分自身のことを〝目玉のおやじ〟だと思っているんです。〝目玉のおやじ〟というのは、ゲゲゲの鬼太郎というマンガにでてくる、目玉に小さな身体がくっついたような妖怪です。目玉の機能というのは、シンプルに見ることです。目玉そのものは、何かを喋ったり考えたりはしないですよね。でも、〝目玉のおやじ〟は「オイ、鬼太郎!」とか喋ったり考えたりします。
実際のところは、目玉に小さな身体がくっついているように感じるのは錯覚なんです。観察者と観照者というのは、まったく別の何かじゃありません。自分自身を〝目玉のおやじ〟のように錯覚している観察者から、小さな身体が取り除かれた存在が観照者です。つまりは、純粋に〝見る〟という存在です。それが自分です。自由意志は存在し得るでしょうか? 瞑想を実践するなどして、思考の絶対量が減ってくると、唐突にこのことを悟ることがあります。
もちろん、自由意志は存在しないことを理解したとしても、実際問題として、何かを求めるということは続きます。自由意志の感覚は持続します。もし、ハートを理解していないのなら、嫌な感情は避け、心地よい感情を求めるということが続くはずです。でも、そんなことは世界中のほとんどの人がやっていることであり、そこには終わりがありません。むしろ、嫌な感情を避け、心地よい感情を求めることによって、自由意志の錯覚は強くなっていくかもしれません。
なので、ハートの理解と、自由意志は存在しないという理解は、どちらかが欠けるということはあり得ないんです。どちらも相互に関係し合っています。ハートを理解しただけでは、自由意志が暴走して、ハートの感覚を持続できなくなるかもしれません。自由意志は存在しないことを理解しただけでは、感情が暴走して、自由意志の錯覚が強くなるかもしれません。この2つの悟りを理解しないことには、「私は在る」ということに落ち着くことは難しいんじゃないかと思います。そして、この2つの悟りは、自由意志として意図的に目指していくことができます。もちろん、究極的な観点から言えば、そこに自由意志は無いとも言えます。でも、そのことを真に受ける必要はないと思います。少なくとも、それを目指してはいけないということはありません。
最終的な悟りは目指すことができない
「私は在る」ということが、最終的な悟りに導きます。でも、黙ってそのことを受け入れられる人は少ないかもしれません。「私は在る、だから何?」と思う人は少なくないと思います。僕自身、そうでした。覚者は世界は実在しないと言いますが、僕には依然として世界は実在するように感じられていました。〝世界は実在しない〟ということと〝私は在る〟ということがどう繋がっているのかが分からなかったんです。「本当に、〝私は在る〟という感覚にとどまるだけでいいのか?」と思ったりすることもありました。
でも、最終的な悟りは意図的に目指すことができません。それは、意図することなく自我が芽生えることと似ています。あなたが自我を芽生えさせたわけじゃないですよね? 最終的な悟りも、そのようにして起こります。そこに、自我や自由意志が関わる余地はありません。蓄積された記憶を元に、自我という錯覚が作り上げられたように、今度は、自我という錯覚が、単一の記憶の集合体に分解されていきます。その中には、この世界も含まれます。世界は記憶の集合体です。なので、最終的な悟りが起こるなら、この世界が実在しないということは明確です。
ただ、その過程は段々と理解されていくというわけじゃないんです。僕は、空白JPに様々なことを書いていますが、探求の過程で段々とそのことを理解していったわけじゃないんです。言語化できるようになったのは、最終的な悟りが起こってからです。なので、最終的な悟りを目指す(実際は目指せないんですが)探求者は、ある意味では疑心暗鬼に襲われることも少なくないんじゃないかと思います。まさしく、「本当に、〝私は在る〟という感覚にとどまるだけでいいのか?」とかですね。実際のところ、僕は疑心暗鬼に襲われ、悟りに関わる様々な情報を収集してみるということもしました。「もしかしたら、ラマナ・マハルシの本には書かれていない何かがあるんじゃないか?」と思ったんです。
その時に、非二元、ダイレクトパスといったジャンルの本も読みました。そこには「すべては意識である」「意識は空間みたいなものである」といったことが書かれており、ラマナ・マハルシの教えとはだいぶ違うように感じました。ラマナ・マハルシの教えはハートの教えであり、ハートにとどまることが「私は在る」ことです。なので、僕はその時に、「ハートにとどまるということは通過点なのであり、最終的には、その感覚は空間にまで広がるのかな?」と思ったりもしました。
でも、「すべては意識である」「意識は空間みたいなものである」ということは、感覚的な悟りでも、認識的な悟りでも、最終的な悟りでもありません。それは瞑想の一種です。空間や、〝すべて〟といった概念を瞑想対象にしようとしているだけです。空間とは記憶を元にして作り上げられた概念的な認識であり、〝すべて〟とはまさしく記憶の〝すべて〟でしかありません。今だからそういったことも分かりますが、当時の僕は、そういったことも分かりませんでした。ハートを理解し、自由意志は存在しないということを理解していても、そういった言葉に影響されるということは続くんです。「私は在る」ということは分かっても、知的には何も理解していないからです。
真理についての教えというのは、時間を経るほどに、自我にとって理解されやすい内容に変化していくという傾向があります。空間や〝すべて〟という概念を真理であるかのように扱うのはその最たるものでしょう。空間や〝すべて〟という概念であれば、観察者として対象化することができるからです。言ってみれば、観察者として、真理を理解したように感じることができるんです。もちろん、それは瞑想の一種として機能すると思います。でも、それは通過点でしかありません。空間や〝すべて〟という概念を意識することは意図的なことであり、そこには自由意志が関わっています。なので、そうしようとしている限り、自由意志は存在しないという理解は起こらないでしょう。場合によっては、無自覚に、嫌な感情を避けるために、空間や〝すべて〟という概念に意識を向けようとしていることもあるかもしれません。であるなら、ハートを理解することも無いでしょう。
「私は在る」ということにとどまることは、最も簡単なことでありながらも、最も難しいことでもあるかもしれません。そこには方向性が無いからです。どこも目指すことができません。まるで、小さな身体を取り除かれた〝目玉のおやじ〟です。そしてまた、「私は在る」ということに執着することもできません。
生きている限り、この身体は活動しつづけます。「私は在る」ということにとどまることは、この身体を動かしてはいけないことじゃありません。この身体がどう動くのかということと、「私は在る」ということは、ある意味では無関係です。映画の中の登場人物がどれだけ動こうとも、映画を観ている人は動いていないようなものです。もちろん、身体の動きに合わせて、感情的な反応はあるかもしれません。でも、感情は一時的なものであり、そのベースにはハートの感覚があります。そして、自由意志の感覚そのものが消えるわけじゃありません。あるがままに、自由意志の感覚に従うことになります。ただ、本当の意味での自由意志は存在していないということを理解しているだけです。そういった日常生活の中で、最終的な悟りというのは唐突に起こります。
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