前回の記事「諸行無常・諸法無我・涅槃寂静【三法印】」で三法印についてお話した繋がりで、今回は、四法印についてお話したいと思います。
仏教の宗派の中には、三法印に「一切皆苦」をつけ足して「四法印」と謳っているところもあるようです。
でも、そもそもの、三法印の意味を考えると、それはちょっとあり得ないのではないかと思います。
それは何故なんでしょうか?
一切皆苦は、真理か?
法印というのは、真理を言葉で言い表したものです。
三法印の場合には、諸行無常、諸法無我、涅槃寂静です。
前回の記事「諸行無常・諸法無我・涅槃寂静【三法印】」を読んでいただければ、この3つの言葉が、真理を言い表しているということを、なんとなく、理解してもらえるんじゃないかと思います。
じゃあ、「一切皆苦」はどうなんでしょうか?
一切皆苦というのは、真理を言葉で言い表したものなんでしょうか?
一切皆苦は、話を聞いてもらうための「つかみ」です。
ブッダは、確かに、一切皆苦を説いたと思います。
でも、それは、おそらく、話を聞いてもらうための、「つかみ」として使われたのではないかと思います。
「いや〜、人生って辛いよね。苦しみに満ちているよね。戦争は起こるし、人は年老いていくし、病気にもかかるし、最終的には死んでしまうしね。「世界で生きるということは、なんでこんなにも苦しいんだろう?」って疑問に思う人もいると思うんだ。私もそうだった。だから、王子の地位を捨てて出家したんだ。でも、苦しみには原因があるんだよ。苦しみは滅することができるんだよ。私はその方法(八正道)を発見したんだ。」
ブッダは、こういう風に、四諦(したい)を説いたのかもしれません。
ブッダは、四諦と八正道を説いたと言われています。
四諦の、1番最初にくるのが、まさしく、一切皆苦です。
こういったことは、別に、真理の話とかに限らないと思います。
ビジネスの世界でも、「まず、話を聞いてもらう」ということが、1番最初のハードルです。
話を聞いてもらいたくても、門前払いを受けることだってありますよね。
他にも、例えば、ダイレクトメール(封筒に入った広告みたいなもの)とかだと、まず、開封してもらうというのが、1番最初のハードルになります。
大抵は、開封されずに捨てられてしまうのがオチです。
なので、封筒を透明にしてみたり、封筒そのものに、キャッチコピーとなる言葉を印刷したりします。
例えば、「苦しみにサヨナラしませんか?」とか。
怪しいですね。。
「まず、話を聞いてもらう」ために、多くの人は、なにかしらの策を打つわけです。
ブッダの場合には、それが、一切皆苦だったのだと思います。
言ってみれば、話の導入部分です。
主張したいことの、前提条件みたいなものです。
そこから、話は、別の方向に展開していきます。
「一切は苦しみのように感じられる。でも、苦しみには原因がある。苦しみは滅することができる。私はその方法を知っている。」という感じにですね。
なので、一切皆苦が真理を言い表しているということはあり得ません。
むしろ、その逆です。
無知ゆえに、一切皆苦のように思えるんです。
なので、一切皆苦というのは、真理に属するというよりも、無知に属するものです。
そう考えると、四法印というのは、考えられないんじゃないでしょうか?
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