仏教で使われる「空(くう)」という概念。
どんな意味だか分かりますか?
空について解説した書籍やWebサイトはたくさんあると思います。
でも、どれを読んでも、
「だから何?」という感想になってしまうのではないでしょうか?
抽象的だし、それが、実生活とどう結びつくのかが理解しにくいんです。
なので、ここでは空について、
極力、具体的に、
実生活でどのように関わるのかについてお話したいと思います。
※龍樹(ナーガールジュナ)が説く、すべての実在を否定する「空」ではなく、空という実体があるという前提で「空」について解説しています。
(関連記事:龍樹(ナーガールジュナ)の中論をわかりやすく解説【「空」の思想】)
映画の登場人物は実在するでしょうか?
まず最初に質問です。
映画って観たことありますか?
おそらく、ほぼすべての人が、
観たことがあるんじゃないでしょうか?
映画の中の登場人物って、
実在すると思いますか?
例えば、僕は数日前に、実写化されたディズニーのアラジンを観たのですが、
アラジンという登場人物は、実在するでしょうか?
単なる映像?
ちょっと答えが分かれるかもしれません。
アラジンは、メナ・マスードという役者が演じています。
なので、「実在する!」という人もいると思います。
別に、アラジンに限らずに、
すべての映画やドラマには、演じる役者達がいます。
なので、映画の中の登場人物は、
演じる役者がいるので、実在すると言うこともできます。
まあ、CGの場合にはまた別の答えになると思いますが。
でも、メナ・マスードがアラジンを演じているという予備知識なしに、
単純に、映画を眺めて観たらどうでしょうか?
アラジンというのは、単なる映像じゃないでしょうか?
じゃあ、実在しているのは何?
単なる映像というのは、
実在すると言えるんでしょうか?
まあ、実在という言葉もちょっとややこしいですけどね。
言い換えるなら、
「他のものに影響されることなく存在することができるのか?」
という感じでしょうか?
単なる映像の場合、
おそらく、映写機が止まったら消えるはずですよね。
映写機によって映し出されているだけです。
テレビの場合も、
スイッチオフになれば、
テレビに映っている映像は消えます。
ということは、単なる映像というのは、
実在しているとは言えないんじゃないでしょうか。
スクリーンやディスプレイだけが実在しています。
じゃあ、実在していると言えるものは何なんでしょうか?
映写機が止まっても、
テレビがスイッチオフになっても、
影響されることなく、そこに存在しているもの。
それは、スクリーンやディスプレイです。
映画の場合、
実在しているのはスクリーンやディスプレイだけなんですね。
その上に映し出される映像は、
現れては消えていきます。
アラジンだって、
スクリーンに2時間ほど現れては、
消えていきました。
この世界も同じだということ。
「それが空となにか関係あるの?」と思うかもしれません。
実は、大いに関係しているんです。
実は、この世界も、映画と同じようなものだからです。
巨大な3Dディスプレイにこの世界が映っているのだとしたら?
巨大な3Dディスプレイに、
この世界が映っているのだとしたらどう思いますか?
「そんなバカな!」と思うことでしょう。
到底受け入れられないと思います。
だって、この世界は物理的に存在しているし、
手で物に触れると、触った感触も感じます。
重力だってありますし、
風が吹けば、肌に風の感覚を感じることもできます。
霊性のある人なら、他の人には見えないものも、
リアリティーをもって感じられることでしょう。
「まさか、この世界が単なる映像のようなものだとは信じられない!」
と思うでしょう。
でも、「そうだ」というのが空の概念なんです。
あなたは、実在していない?
信じられないかもしれませんが、
そうだと仮定してみてください。
もし、巨大な3Dディスプレイに、
この世界が映っているのだとしたら、
あなたは実在するでしょうか?
残念ながら、実在しないことになりますよね。
実在しているのは3Dディスプレイだけです。
実在していないけれども、存在して無いとは言えない。
ただ、実在はしていないけれども、
存在して無いとは言えません。
アラジンの映画を観ているときに、
「アラジンは存在しない」だなんてセリフは言えませんよね。
トニー・パーソンズあたりは言いそうですが。
少なくとも、映画上映中は、
アラジンは存在しているように見えています。
それに対して「空」という言葉が使われるようになりました。
それに対して、「空」という言葉が使われるようになったんです。
「有るとは言えないけれど、無いとも言えない」
「存在しているように見えるけれども、実体は無い」
空の説明のときには、こういった表現が使われます。
こういった表現だけ聞かされても抽象的すぎますよね。
でも、映画の例を使うとどうでしょうか?
なんとなく、理解することができるんじゃないでしょうか?
頭で納得することは無理です。
ただ、頭で空の概念を理解することはできても、
納得することはできません。
やっぱり、「だから何?」となってしまうんです。
もし、頭で理解するだけで空を悟れるのであれば、
今頃多くの人が空を悟っているはずです。
概念としてはそれほど難しくないですからね。
でも、そうはなりません。
頭で理解することと、
納得することには大きな違いがあります。
言ってみれば、
空を悟るということは、
実技みたいなものなんです。
いくらバスケットボールを勉強しても、
バスケットボールが上手くなるわけではないのと同じです。
確かめるには、黙るしかありません。
空の概念が本当かを確かめるには、
黙るしかありません。
黙るというのはどういうことかというと、
3Dディスプレイの中の登場人物として存在するのではなく、
3Dディスプレイとして在ろうとすることです。
だって、自分は、3Dディスプレイに映っている映像です。
その実体は3Dディスプレイの方にあります。
なので、3Dディスプレイとして在ろうとしてみてください。
体の5感覚と心の活動を抑えます。
そうすると、次第に面白いことが分かります。
自分が存在するという感覚は、
3Dディスプレイの方にあるということが明確になります。
そして、満たされた感覚というのも、
3Dディスプレイ側に備わっているということが分かります。
人間というのは、
満たされるには理由が必要だと思っていますよね。
何かを手に入れれば、自分は満たされることができる。
人と関わることで、満たされることができると思っています。
理想的な世界を実現すれば、
自分は満たされると。
でも、実際のところは違うんです。
世界の中では他者に見えたとしても、
実在するすべては3Dディスプレイです。
極端なことを言えば、世界は実在はしません。
世界というのは、
3Dディスプレイに映っている映像でしかありません。
なので、世界の状況に関係なく、
人は満たされることができるんですね。
3Dディスプレイは、意識そのもの。
そして、いずれ、
3Dディスプレイというのは、
意識そのものだということに気がつきます。
「気がついている」ということそのものが、
3Dディスプレイなんですね。
多くの人は、世界という実体があって、
その中に、体をもった自分という実体がいて、
その自分が、意識に気がついていると思っています。
でも、逆です。
まず最初に、「気がついている」ということがあります。
そして、体と心が世界を認識します。
「気がついている」という3Dディスプレイに世界が映し出されるということですね。
ちなみに、寝ているときには世界を認識できないのは、
気がついていないからです。
テレビのスイッチがオフになっているようなものです。
でも、スイッチオフになってもディスプレイはありますよね。
意識もそうなんです。
寝ているときには気づきのスイッチがオフになりますが、
意識というディスプレイそのものは実在します。
そのことに気がつくと、
死も恐れなくなります。
映像として存在する自分は死にますが、
実在としての自分は在り続けるということが分かるからです。
これが、空を悟るということです。
仏教で重要視される理由が分かるんじゃないでしょうか?
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