カテゴリー
自由意志・運命

ラメッシ・バルセカールの言う「理解のトンボ返り」とは?

ラメッシ・バルセカールは、「理解のトンボ返り」という言葉を使います。

非二元論の教えを聞いて、真理を理解したと思ったのに、突如として、そうは思えなくなってしまう現象のことですね。

「私は存在しない。はずなのに、ものすごく、私という個人がここに居るように感じる。。」とかですね。

そいういったことは、数多く起こるでしょう。

その現象自体は、別に悪いことじゃありません。

というか、普通でしょう。

でも、それを気にしてしまう人がいるのであれば、それは、問題になってしまうのかもしれません。

というわけで、今回は、「理解のトンボ返り」についてお話します。

理解のトンボ返りは、いつ起こる?

「理解のトンボ返り」は、感情が変化するときに、起こりやすいんじゃないでしょうか?

非二元論の教えを聞いて、なんとなく、根拠のない心地よさみたいなものを感じている状態から、何かのキッカケで、苦しみが起こったりします。

そうすると、「あれ?私は真理を理解したはずなのに。。。勘違いだったのかな?全然、私は存在しないとか思えないよ。。」とか、思ったりするわけですね。

感情のエネルギーは非常に強力です。

それは、思考を支配します。

分離感を発生させます。

でも、そうなるのは当たり前です。

真理についての教えを頭で理解するのと、真理を体得することは、別物だからです。

非二元論の教えでは、修行は必要ないと言われることが多いと思います。

修行しようとすること自体が、個人性やエゴを強めてしまうからと言われます。

ラメッシ・バルセカールも、基本的には、そういったスタンスだと思います。

でも、ラメッシ・バルセカールは、1つだけ、とある修行方法を勧めています。

行為の分析です。

1日の最後に、自分の行動を振り返って、そこに、選択肢はあったかどうかを確かめるという分析を勧めます。

言ってみれば、自分に、コントロール権はあったのかどうかを、確認するということですね。

ラメッシ・バルセカールは、この分析を続けることで、エゴは弱くなっていき、最後には、エゴは死ぬと言います。

でも、それは正確ではありません。

分析をすることは、エゴを強くします。

エゴが強くなるからこそ、自身には、何のコントロール権もないということを、自覚できるんです。

そして、エゴ自身が、源泉(沈黙)にとどまるという選択をします。

死ぬというようなことはありません。

それは、有ったり、無かったりします。

そして、それは、瞑想などの、他の修行にも言えるんです。

ある段階までは、エゴを強くする必要があります。

それこそ、エゴ自身が、源泉(沈黙)にとどまることを好むようになるまでです。

それまでは、「理解のトンボ返り」は起こり続けるでしょう。

エゴを受け入れるって、どういうことか?

ラメッシ・バルセカールは、「理解のトンボ返り」が起こることについて、こう言います。

「エゴと戦わず、それを受け入れてください。」

「なぜなら、あなたがエゴを創造したわけではないからです。」

「源泉がエゴを創造し、そして源泉はまた、エゴを破壊するというプロセスにあります。」

「だから、あなたの頭はすでにトラの口の中にあるのです。」

「逃げることはできません。」

「たとえあなたがエゴと戦っても、逃れられない。」

「これが私の伝えたいポイントです。」

でも、エゴを受け入れるって、どういうことなんでしょうか?

「エゴ」という言葉は、結構、その取り扱いが難しいです。

エゴという言葉が、何を指すのか?

ハッキリと理解できる人はいるでしょうか?

エゴというのは、ある時には、自分自身のことです。

ラメッシ・バルセカールも、「あなたがエゴなんですよ!」と言ったりもしています。

でも、その一方で、エゴは、自分以外の何かとして使われることもあります。

無自覚な思考や行動のことを、エゴと呼んだりすることもあります。

「エゴ(自分)がエゴ(無自覚の思考や行動)をコントロールしようとする」ということも、成り立つわけです。

多くの人がやっていることですね。

でも、ここで、ラメッシ・バルセカールが言っているエゴというのは、どっちのエゴのことでしょうか?

「あなたがエゴを創造したわけではない」と言っているので、おそらく、後者でしょう。

無自覚な思考や行動の方ですね。

ちなみに、「あなたの頭はすでにトラの口の中にある」という言葉は、「あなたは、真理を悟る運命にある」ということの比喩です。

ラマナ・マハルシも、結構、この言い回しを使います。

本当に、起こるがままにしておいてもいいのか?

「理解のトンボ返り」が起こると、思考に巻き込まれるということも、当然、起こりやすくなります。

「あれ?なにかおかしい。なんだろう?このイヤな感覚は。。私は、真理を理解したんじゃなかったっけ?ああ、イヤだなあ。。」とか。

思考に巻き込まれている間は、エゴを受け入れるもなにもありません。

そもそも、巻き込まれていることに、気づくことすらできません。

「ハッ」っと気づくのを待つしかありません。

問題は、「ハッ」と気づいてからです。

エゴを受け入れるって、どういうことなんでしょうか?

エゴが、無自覚な思考や行動なのであれば、思考している自分を、観察すればいいんでしょうか?

ラメッシ・バルセカールは、よく「観照」という言葉を使います。

でも、「理解のトンボ返り」が起こっている間は、観照することは不可能です。

観照というのは、意識がどこにも集中していない状態のことです。

思考が渦巻いてしまうのであれば、意識は、自然と思考に向いてしまいます。

思考を観察することになります。

思考を観察しながらも、それに巻き込まれないように意識すること、それが、エゴを受け入れるということなんでしょうか?

でも、それは、巻き込まれることに、抵抗することです。

そうではなく、再び、思考に巻き込まれたとしても、気にしないようにするということなんでしょうか?

起こるがままにしておくと。

もし、そうなのであれば、「理解のトンボ返り」は起こり続けるでしょう。

僕は、ラメッシ・バルセカールの本を読んでいて、不思議に思うことがあります。

苦しみについての話題が極端に少ないんです。

苦しみについての話題であっても、肉体的な苦痛の話だったりします。

精神的な苦しみについては、ほぼ、話題に上がっていないと言ってもいいかもしれません。

死の恐怖については、話題に上がったりしますが、それに対して、ラメッシ・バルセカールが語ることは、僕だって、納得できないものがあります。

「死ぬような私は存在しない」という言葉は、死の恐怖を感じている人には、なんの説明にもならないでしょう。

ただ、それを信じる力が要求されるだけです。

ラメッシ・バルセカールは、「死は熟睡のようなものであり、平和を意味しています。」と言います。

確かに、その通りなのですが、重要なことは、その平和を、起床中にも持ち込むことです。

十分に、マインドに覚え込ませる必要があります。

熟睡と日常を、繋げてしまうことです。

熟睡と日常を、ひとつの平和で貫いてしまうことです。

そうすると、マインドも納得します。

そして、そのためには、「理解のトンボ返り」を繰り返しているわけにはいかないんです。

根本的な、解決策が必要です。

「起こるがままにしておく」というのは、覚者だからこそ言えることです。

覚者にとっては、それで問題がないからです。

でも、探求者がそれをするのであれば、そもそも、真理を探求する必要すらないでしょう。

こういった考え方は、ラメッシ・バルセカールの非二元論の教えと、バッティングするかもしれません。

「それは、エゴを強くするだけだ」と言われるかもしれません。

でも、エゴをなんとかするのは、日常の中に平和を持ち込んでからでも遅くはないんじゃないでしょうか?

ちなみに、僕は、ラメッシ・バルセカールの、苦しみや、死、についての考え方には不満がありますが、それ以外の教えについては、分かりやすくて参考になると思っています。

好きな覚者のひとりです。

【関連記事】苦しみに飽きるための感じ方

【関連記事】「苦しみ」と「退屈」を避けないこと

【関連記事】非二元論を超えて【アドヴァイタ・ノンデュアリティ】