「信じるものは救われる」という言葉があります。
聖書が語源なのかもしれませんが、実際のところは、様々な宗教で使われている言葉なのではないかと思います。
覚者でも、「私の言うことを信じなさい」と言う人もいます。
ニサルガダッタ・マハラジとか、良く、そんなことを言っているイメージがあります。
そんな時、あなたは、その言葉を信じるでしょうか?
それとも、疑うでしょうか?
そもそも、何を信じるのか?
「信じる」という行為には、そもそも、何を信じるのかという問題がつきまといます。
何でも信じていいわけじゃないですよね?
例えば、ニサルガダッタ・マハラジは、師に「あなたは、パラブラフマンだ」と言われ、それを信じて、「私は在る」という感覚に3年間ほどしがみつきました。
そして、真理を悟りました。
「信じるものは救われる」の好例ですね。
それゆえに、ニサルガダッタ・マハラジは、「私の言うことを信じなさい」と良く言うのだと思います。
でも、反対に、師に「苦行を続けることで、真理を悟ることができる」と言われて、それを信じて、真理を悟ることなく死んでいくヨギーも、少なからずいるのではないかと思います。
ブッダだって、当初は、苦行することで悟ることができると信じていたんじゃないでしょうか?
基本的に、人というのは、信じやすい生き物です。
「俺は誰にも騙されないぜ」っていう、どんなに疑り深い性格の人でも、信じていることがあります。
それは、この世界は実在していて、自分というのは、その世界の中の、体を持つ個人であるということです。
信じているというレベルじゃないですよね。
もはや、疑いの余地なく、当たり前のことだと思っています。
なぜ、そうなるのかというと、人は、自分の記憶は信じているからです。
どんなに疑り深い人でも、自分の記憶を元に、信じるべきか、信じるべきじゃないかを、判断しています。
関連記事:自我は「記憶」を利用する
例えば、あなたは、飛行機に乗って、成田空港から、ホノルル空港まで移動したことはあるでしょうか?
大体、6~7時間かかります。
それなのに、目の前の人が、「成田空港からホノルル空港なんて、1時間ぐらいで行けるよ!」と言っていたら、「そんなはずないだろ」という判断が起きるんじゃないでしょうか?
でも、成田空港とホノルル空港の、位置関係を知らなかったり、飛行機のスピードを知らない人であれば、「へ〜、そうなんだ」と、その言葉を信じてしまうかもしれません。
実は、信じる、信じない、ということは、自分でコントロールできるようなものじゃないんです。
自分の記憶を元に、自然発生的に、その判断が下されています。
それは、誰も避けることができません。
僕だってそうです。
僕が良く知らないことについては、僕は、誰かのウソを信じてしまうかもしれません。
フェイクニュースを信じてしまう人も、少なくないですよね。
なので、「信じるものは救われる」という言葉は、少し、違うんです。
確かに、そういった側面はあります。
でも、違う側面もあるんです。
なので、僕は、「信じるものは救われる」という言葉の後に、「疑うものも救われる」という言葉をつけ足したいなと思っています。
真理は、信じるまでもなく、確認できるものです。
真理を悟るには、信じる力が必要とされると思うかもしれません。
確かに、最初のうちは、信じる力も必要かもしれません。
でも、最終的には、信じる力は不要になります。
というのも、真理というのは、信じるべき対象ではなく、今、ここに在るものだからです。
信じるまでもなく確かなことです。
真理を確かめるのに、記憶は不要です。
過去や未来のイメージをする必要はありません。
言語だって不要です。
今、世界がどういう状態かということも、関係がありません。
もし、理想的な未来を実現した先に、真理が在ると思っているのであれば、それは、まさしく幻想です。
ただ、真理は常にここに在ると言われても、最初のうちは、なかなかそうは感じられないんですよね。
多くの人にとっては、真理というのは、「退屈」に感じられるんじゃないかと思います。
虚無感も感じるかもしれません。
「退屈や虚無感が真理であるはずがない!」と思うのも、当然といえば当然なんです。
でも、だからといって、今、ここに無いものを、真理だと信じる必要はないんです。
今、ここに無いがゆえに、人には、「信じる」という行為が必要になります。
「信じる」という行為が、一体、何を意味するのか疑ってみることは、重要なことだと思います。
今、ここで確認できることを、人は、信じることはありません。
信じるまでもないからです。
例えば、今、僕の目の前には、Macbookがありますが、Macbookが目の前にあるということを、信じる必要はありません。
目の前にあることは明白だからです。
それと同じように、今、ここに、真理が在ることは明白です。
でも、例えば、これから僕が、散歩に出かけるとします。
すると、Macbookは記憶の中の存在になります。
そうなると、「今、ここに、Macbookがある」とは言えなくなります。
「家に帰ったら、Macbookはあるはず」という、信じる行為ができるだけです。
でも、真理については、散歩中であっても、今、ここに在るということは、明白なんです。
どんなシチュエーションであっても、信じるという行為は不要です。
そして、常に、ここに在ると言えるようなものは、真理だけです。
真理というのは、「私は在る」という感覚です。
関連記事:「私は在る」をインスタントに悟る方法
それ以外のものは、すべて、一時的な性質を持っています。
例えば、理想的な未来のイメージを、常に保ち続けることができる人はいないでしょう。
イメージは、現れては、消えていきます。
例え、理想を現実にしたとしても、その現実を保ち続けられる人はいないでしょう。
歴史上、それに成功した人はいません。
であるなら、それ自体が真理であるはずがありません。
楽しいという感情だって、現れては、消えていきます。
今、僕の目の前にあるMacbookだって、常に、目の前にあるわけじゃありません。
それゆえに、ヴェーダのブリハッド・アーラニヤカ・ウパニシャッドの中で、ヤージュニャヴァルキヤ仙は、「それは、ただ、「ネイティ、ネイティ(〜ではない、〜ではない)」と説かれるのだ。」と、真理の探求方法について語っています。
真理以外のものを、否定していくということですね。
であるなら、今、ここに在るように思える、退屈や虚無感といったものも、一時的なものなんじゃないでしょうか?
もし、それが常にここに在るものであれば、それは真理ということになります。
本当にそうなのか、疑ってみてもいいかもしれません。
関連記事:「苦しみ」と「退屈」を避けないこと