今回は、Aさんからリクエストを頂きまして、ブッダの「八正道」についてお話したいと思います。
八正道というのは、ブッダが説いた、悟りに至る道だと言われています。
僕は、八正道のことを、シンプルに「瞑想的な日常生活」と表現することが多いです。
でも、八正道というのは、その名の通り、8つの要素によって成り立っています。
「正見」「正思」「正言」「正業」「正命」「正精進」「正念」「正定」の8つです。
Aさんからご質問いただいたのは、この中でも、「正言(正しい言葉を使う、嘘をつかない)」というのは、多くの人達と関わる中で、保つことが難しいのではということです。
特に、仕事の現場とか、価値観が大きく違う人達と関わるときには、相手に合わせて、思ってもないことを言う(嘘を言う)こともありますよね。
そういった場合には、どのように対処すればいいんでしょうか?
※今回は、ちょっと長め(8000文字ほど)の記事です。
ブッダ自身は、「八正道」という言葉を使っていない可能性がある?
実は、僕は結構前に、八正道についての記事「八正道の実践が、なぜ、悟りや涅槃につながっていくのか?」を書いています。
ただ、この時点では、僕はまだ探求者でした。
今、この記事を読み返してみると、いくつか、僕自身が抱えていた思い込みや、意志のコントロール欲みたいなものに気がつきます。
そこで、今回は改めて、八正道について考察し直してみたいと思います。
まず、切り口として、「そもそも、本当にブッダは八正道という言葉を使ったのか?」というところから始めてみようと思います。
というのも、最古の仏典と呼ばれるスッタニパータには、「八正道」という言葉はでてこないからです。
スッタニパータの次に古いと言われているダンマパダ(法句経)の中で、1語だけ「八正道」という言葉を確認することができます。
こうです。
「さとれる者と真理のことわりと聖者の集いとに帰依する人は、正しい知慧をもって、四つの尊い真理を見る。すなわち、(1)苦しみと、(2)苦しみの成り立ちと、(3)苦しみの超克と、(4)苦しみの終滅におもむく八つの尊い道(八正道)とを見る。」(190,191)
ただ、八正道とは何かという具体的なことについては、ダンマパダには書かれていません。
Wikipediaを見ると、八正道については、パーリ仏典と呼ばれる書物に詳しいことが書かれているようです。
スッタニパータから、八正道の本質を考察してみる。
僕は、仏典の種類についてはあまり詳しくありません。
積極的に調べようという気もあまりないんです。
というのも、ブッダが生きていたのは2500年ほど前であり、ブッダの生の言葉が正確に伝わっているとはあまり思えないからです。
ただ、最古の仏典と呼ばれるスッタニパータ、もっと言うなら、スッタニパータの中でも、第4章である「八つの詩句の章(アッタカヴァッガ)」については、生のブッダの言葉が多く含まれているのではないかと感じています。
関連記事:スッタニパータは、本当にブッダの言葉か?
なので、この「八つの詩句の章」の中から、八正道の本質を考察してみたいと思います。
「八つの詩句の章」は、16の節から成っています。
僕は、この中の、1節から12節までは、かなり、信憑性が高いのではないかと考えています。
ただ、13節から16節までは、少し違和感を感じるものもあります。
13節から16節までには、節の終わりに「師はこのように言われた。」という1文が付け足されています。
この1文は、1節から12節までには無いものです。
また、例えば、14節には、このような文章があります。
「かれは、みずから勝ち、他にうち勝たれることがない。他人から伝え聞いたのではなくて、みずから証する理法を見た。それ故にかの師(ブッダ)の教えに従って、怠ることなく、つねに礼拝して、従い学べ。」(934)
この文章は、ちょっとおかしいのではないかと思います。
ブッダ自身が、自身のことを「かの師」と呼ぶことはないでしょうし、ブッダが自身への「礼拝」を求めることは非常に考えにくいです。
なので、「八つの詩句の章」の中でも、13節から16節までは、ブッダの死後、かなり経ってから付け足されたものなのかもしれません。
というわけで、「八つの詩句の章」の中でも、特に、1節から12節までの間で、八正道の手がかりを探してみようと思います。
「八正道」に相当するであろう言葉は、こんな感じででてきます。
「真のバラモンは、正しい道のほかには、見解・伝承の学問・戒律・道徳・思想のうちのどれによっても清らかになるとは説かない。かれは禍福に汚されることなく、自我を捨て、この世において禍福の因をつくることがない。」(790)
「正しい道」という言葉が使われています。
ただ、何が「正しい道」なのかということについては、「八つの詩句の章」でも明言はされていません。
少なくとも、見解・伝承の学問・戒律・道徳・思想ではないのだなということが分かるだけです。
でも、これは、一般的な八正道の概念とは少し矛盾するかもしれません。
一般的に、八正道というと、戒律や道徳、思想といったものに感じられるんじゃないでしょうか?
「八つの詩句の章」では、ダンマパダや、他の仏典によく見られるような、「ああせよ、こうせよ」という戒律や道徳的な表現が少ないです。
ただ、10節にそういった表現が集中しています。
というわけで、10節の「死ぬよりも前に」という節を、すべて引用してみようと思います。
「どのように見、どのような戒律をたもつ人が「安らかである」と言われるのか?ゴータマ(ブッダ)よ。おたずねしますが、その最上の人のことをわたくしに説いてください。」(848)
「師は答えた。「死ぬよりも前に、妄執を離れ、過去にこだわることなく、現在においてもくよくよと思いめぐらすことがないならば、かれは未来に関しても特に思いわずらうことがない。」」(849)
「かの聖者は、怒らず、おののかず、誇らず、あとで後悔するような悪い行いをなさず、よく思慮して語り、そわそわすることなく、ことばを慎む。」(850)
「未来を願い求めることなく、過去を思い出して憂えることもない。現在、感官で触れる諸々の対象について遠ざかり離れることを観じ、諸々の偏見に誘われることがない。」(851)
「貪欲などから遠ざかり、偽ることなく、むさぼり求めることなく、ものおしみせず、傲慢にならず、嫌われず、両舌(かげぐち)を事としない。」(852)
「快いものに耽溺せず、また高慢にならず、柔和で、弁舌さわやかに、信ずることなく、なにかを嫌うこともない。」(853)
「利益を欲して学ぶのではない。利益がなかったとしても、怒ることがない。妄執のために他人に逆らうことがなく、美味に耽溺することもない。」(854)
「平静であって、常によく気をつけていて、世間において他人を自分と等しいとは思わない。また自分が勝(すぐ)れているとも思わないし、また劣っているとも思わない。かれには煩悩の燃え盛ることがない。」(855)
「依りかかることのない人は、理法を知ってこだわることがないのである。かれには、生存のための妄執も、生存の断滅のための妄執も存在しない。」(856)
「諸々の欲望を顧慮することのない人、かれこそ平安なるものである、とわたくしは説く。かれには縛めの結び目は存在しない。かれはすでに執着を渡り終えた。」(857)
「かれには、子も、家畜も、田畑も、地所も存在しない。すでに得たものも、捨て去ったものも、かれのうちには認められない。」(858)
「世俗の人々、または道の人・バラモンどもがかれを非難して貪りなどの過(とが)があるというであろうが、かれはその非難を特に気にかけることはない。それ故に、かれは論議されても、動揺することがない。」(859)
「聖者は貪りを離れ、ものおしみすることなく、「自分は勝(すぐ)れたものである」とも、「自分は等しいものである」とも、「自分は劣ったものである」とも論ずることがない。かれは分別を受けることのないものであって、妄想分別におもむかない。」(860)
「かれは世間においてわがものという所有がない。また無所有を嘆くこともない。かれは欲望に促されて、諸々の物事に赴くこともない。かれは実に平安なる者と呼ばれる。」(861)
この節で語られていることを、分類していくと、「八正道」になるかもしれません。
ただ、それは、「正しい道」なんでしょうか?
わたくしは糞尿に満ちたこの女に足でさえも触れたくないのだ。
もし、八正道の戒律を守ることが、正しい道なのであれば、ブッダ自身は、正しい道を歩めていないことになるのではないかと思います。
というのも、ブッダには、宗教史にも残るこの名言があるからです。
「糞尿に満ちたこの女がそもそも何ものなのだろう。わたくしはそれに足でさえも触れたくないのだ。」(835)
かなりキレッキレな言葉ですね。
この言葉は、「八つの詩句の章」の9節「マーガンディヤ」の中にでてくる言葉です。
さすがに僕は、そんなことを言う勇気がありません。
そもそも、「糞尿に満ちた」という表現は、なかなか思いつきません。
この言葉は「正語」でしょうか?
そういった表現を、わざわざ、ブッダは使い、こうしてスッタニパータに収録されています。
もちろん、それが本当にブッダの言葉なのかは分かりません。
でも、後世の人達が、わざわざ、ブッダのイメージを落としかねない、こういった文章を創作するとはなかなか考えられません。
この言葉は、「偽ることなく、」という部分は守れているかもしれませんが、「よく思慮して語り、」「ことばを慎む。」「嫌われず、」「柔和で、」「弁舌さわやかに、」「なにかを嫌うこともない。」といったことを、守れていない可能性があります。
でも、本当にブッダが、こういった言葉を使ったのだとしたら、それは、言われるべくして、言われた言葉だったのだろうし、ブッダ自身は、言ったことを気にしていないはずです。
であるなら、「正しい道」というのは、一体何なんでしょうか?
「わたくしはこのことを説く」ということがわたくしにはない。
さきほどの、ブッダの言葉は、マーガンディヤというバラモンが、自分の娘を、ブッダと婚姻させようと連れて行ったときにでてきた言葉です。
これには続きがあるので、それを引用してみます。
「マーガンディヤがいった、「もしもあなたが、多くの王者が求めた女、このような宝が欲しくないならば、あなたはどのような見解を、どのような戒律・道徳・生活法を、またどのような生存状態にうまれかわることを説くのですか?」」(836)
「師は答えた、「マーガンディヤよ。「わたくしはこのことを説く」ということがわたくしにはない。諸々の物事に対する執着を執着であると確かに知って、諸々の偏見における過誤を見て、固執することなく、省察しつつ内心の安らぎをわたくしは見た。」」(837)
「マーガンディヤがいった、「聖者さま。あなたは考えて構成された偏見の定説を固執することなしに、内心の安らぎということをお説きになりますが、そのことわりを諸々の賢人はどのように説いておられるのでしょうか?」」(838)
「師は答えた、「マーガンディヤよ。「教義によって、学問によって、知識によって、戒律や道徳によって清らかになることができる」とは、わたくしは説かない。「教義がなくても、学問がなくても、知識がなくても、戒律や道徳を守らないでも、清らかになることができる」とも説かない。それらを捨て去って、固執することなく、こだわることなく、平安であって、迷いの生存を願ってはならぬ。(これが内心の平安である。)」」(839)
「マーガンディヤがいった、「もしも、「教義によっても、学問によっても、知識によっても、戒律や道徳によっても清らかになることができない」と説き、また、「教義がなくても、学問がなくても、知識がなくても、戒律や道徳を守らないでも、清らかになることができない」と説くのであれば、それはばかばかしい教えである、とわたくしは考えます。教義によって清らかになることができる、と或る人々は考えます。」」(840)
「師は答えた、「マーガンディヤよ。あなたは自分の教義にもとづいて尋ね求めるものだから、執着したことがらについて迷妄に陥ったのです。あなたはこの内心の平安について微かな想いさえもいだいていない。だから、あなたはわたくしの説を「ばかばかしい」と見なすのです。」」(841)
「「等しい」とか「すぐれている」とか、あるいは「劣っている」とか考える人、かれはその思いによって論争するであろう。しかしそれらの三種に関して動揺しない人、かれには「等しい」とか「すぐれている」とか、あるいは「劣っている」とかいう思いは存在しない。」(842)
「そのバラモンはどうして「わが説は真実である」と論ずるであろうか。またかれは「汝の説は虚偽である」といって誰と論争するであろうか?「等しい」とか「等しくない」とかいうことのなくなった人は、誰に論争を挑むであろうか。」(843)
ブッダは「「わたくしはこのことを説く」ということがわたくしにはない。」と言います。
これは、混乱が起こるポイントなのではないかと思います。
「いやいや、「八つの詩句の章」の10節で戒律について説いているじゃないか!」って思うかもしれません。
実際、説いているわけです。
でも、ブッダは「その戒律を守ることによって清らかになれるとは限らないよ」と言っているんじゃないでしょうか。
そしてまた「その戒律を守る必要もないよ」ということでもないのかもしれません。
「どっちだよ!」って思いますよね。
マーガンディヤに、「ばかばかしい」と思われても仕方ないとも言えます。
その真意は、一体、どこにあるんでしょうか?
ブッダは、「八つの詩句の章」の中で、「等しい」とか「勝(すぐ)れている」とか「劣っている」という言葉を多用しています。
この節でも、「「等しい」とか「等しくない」とかいうことのなくなった人は、誰に論争を挑むであろうか。」と言っています。
10節「死ぬよりも前に」でも、こんな文章がありました。
「聖者は貪りを離れ、ものおしみすることなく、「自分は勝(すぐ)れたものである」とも、「自分は等しいものである」とも、「自分は劣ったものである」とも論ずることがない。かれは分別を受けることのないものであって、妄想分別におもむかない。」(860)
「自分は勝(すぐ)れたものである」とも、「自分は等しいものである」とも、「自分は劣ったものである」とも論ずることがない、ということが何を意味するのかというと、実は、至極単純なことです。
「黙りなさい」ということですね。
「等しい」とか「劣っている」とか「勝(すぐ)れている」とか思うということは、思考や意志が活動しているということです。
思考や意志がここにあるなら、思考や意志は、何か対象を掴みたがります。
関連記事:「意志」と「意識」の違いとは?
それは、なにかしらの見解だったり、思想だったり、戒律や道徳かもしれません。
そういったものに、こだわったり、執着したりするべからずということですね。
「「等しい」とか「等しくない」とかいうことのなくなった人は、誰に論争を挑むであろうか。」という文章の意味も、実は、至極単純です。
「黙っているときには、誰かに論争を挑むことなんてできないでしょ?」ということです。
ただ、多くの人は、
「なぜ、黙っていなければならないのか?」
「黙っていることに何の意味があるのか?」
「退屈なだけじゃないのか?」
「黙りたくても、何かしたい、知りたいという衝動が湧き上がってくる」
とか思うんじゃないでしょうか。
この節の中で、ブッダは、「内心の安らぎ」「内心の平安」という言葉を良く使っています。
マーガンディヤに、こうも言っています。
「あなたはこの内心の平安について微かな想いさえもいだいていない。」
それは、マーガンディヤが「教義によって清らかになることができる」と説く人々の考えを信じていて、ブッダに対しても、何か、特別な、清らかになることができる教義を説いてくれるのではないかと考えているからです。
ブッダは、こうも言っています。
「諸々の物事に対する執着を執着であると確かに知って、諸々の偏見における過誤を見て、固執することなく、省察(せいさつ)しつつ内心の安らぎをわたくしは見た。」
僕は、これが、まさしく「正しい道」なのではないかと思っています。
教義によって清らかになれると信じている限り、それが執着であると気づくことは難しいです。
人は、様々な価値観を持っていて、基本的に、それを正しいと信じています。
でも、そういった価値観というのは、あくまでも、個人の視点から見たものであって、偏見です。
それが正しいだなんてことは、誰しもが証明することは不可能です。
それは、ブッダであってもそうです。
それを証明しようとなると、論争に発展します。
でも、その論争は、内心の平安には辿り着きません。
なので、そういった価値観や思い込みに固執することなく、省察することが大事なんですね。
省察というのは、自身のことを省(かえり)みて、観察することですね。
その結果、ブッダは、内心の安らぎを見たと言います。
内心の安らぎというのは、特定の教義を信じることによって得られるものでもありません。
特定の行為によって得られるものでもなく、それは、最初から自分の中にあります。
ブッダの教えは、現代にも通用するか?
ブッダの教えというのは、出家することが前提になっていると言われることもあるかもしれません。
本当かどうかは判断できませんが、ブッダの時代には、数多くの人が出家したと言われています。
なので、「ブッダの教えは、現代にも通用するのか?」と思う人もいるかもしれません。
確かに、今の日本で、出家することはあまり現実的ではないと思います。
僕自身、出家していませんし。
多くの人は、なにかしらの仕事をしながら、真理の探求をするのではないかと思います。
でも、それでも、ブッダの教えは、現代にも通用すると思います。
例えば、「八正道を実践するには、出家して、瞑想三昧な生活を送らなければならないのでは?」という考えだって、思い込みだからです。
その考えに固執せずに、自身を省みて、観察すればいいんです。
確かに、仕事をしていると、思考を働かせなければならないし、多くの人と対話する必要もあるかもしれません。
でも、それでも、自身を省みて、観察すればいいんです。
「黙らなければならないのでは?」とか「これだと、八正道を守れていないのでは?」とか、そういった考えだって、省察する対象です。
もっと極端に言えば、「自分を省察しなければならない」という考えだって、省察対象です。
なので、ブッダは「「わたくしはこのことを説く」ということがわたくしにはない。」と言うんですね。
ブッダは、色々なことを語ったかもしれませんが、「そのすべてを、教義や戒律や道徳として掴まないでね。」ということなんです。
とはいえ、人は、なにかしらの考え方や価値観、物などを掴みたがる生き物です。
それはなぜかと言えば、「私はこうなりたい」といった、欲望や理想があるからなんじゃないでしょうか。
というわけで、最後に、「八つの詩句の章」の第1節である「欲望」を引用して終わりにしたいと思います。
「欲望をかなえたいと望んでいる人が、もしもうまくゆくならば、かれは実に人間の欲するものを得て、心に喜ぶ。」(766)
「欲望をかなえたいと望み貪欲の生じた人が、もしも欲望をはたすことができなくなるならば、かれは、矢に射られたかのように、悩み苦しむ。」(767)
「足で蛇の頭を踏まないようにするのと同様に、よく気をつけて諸々の欲望を回避する人は、この世でこの執着をのり超える。」(768)
「ひとが、田畑・宅地・黄金・牛馬・奴婢(ぬひ)・傭人(やといにん)・婦女・親族、その他いろいろの欲望を貪り求めると、」(769)
「無力のように見えるもの(諸々の煩悩)がかれにうち勝ち、危い災難がかれをふみにじる。それ故に苦しみがかれにつき従う。あたかも壊(やぶ)れた舟に水が侵入するように。」(770)
「それ故に、人は常によく気をつけていて、諸々の欲望を回避せよ。船のたまり水を汲み出すように、それらの欲望を捨て去って、激しい流れを渡り、彼岸に到達せよ。」(771)