まず、はじめに謝っておきます。
もし、インスタントに悟れなかったらごめんなさい。
我ながら、煽り気味なタイトルをつけてしまいました。
「私は在る」という感覚は、瞑想を通して理解していくのが王道です。
でも、「私は在る」という感覚は、あまりにも明白なため、ちょっとしたキッカケで、理解できてしまったりすることがあります。
もしかしたら、この記事をキッカケに、「私は在る」を理解する人もいるかもしれません。
はたまた、いないかもしれません。
「私は在る」を理解できないのは、どの「私」でしょう?
普通に考えると、「私は在る」というのは、当たり前です。
だって、私、ここにいますよね?
もちろん、言いたいことは分かります。
「確かに、私は今ここにいるけどさ、「私は在る」っていうのは、もっと別の何かなんでしょ?」って思うんじゃないでしょうか?
「私は在る」というのは、この私が考えているような、「私は在る」じゃないんでしょということですね。
まあ、確かにそうかもしれません。
でも、そんなことを考えている、私って、どの私なんでしょうか?
私と一口に言っても、それは、体のことを指していたり、心のことを指していたりします。
「私は在る」を理解できない、その私というのは、具体的には、どの私を指すんでしょうか?
おそらく、体じゃないことは確かだと思います。
体は、そんなこと思わないはずです。
体は、無言です。
むしろ、体が言葉をあやつるなら、「私は在る」とか言いそうです。
であるなら、心でしょうか?
心っていうのも、ちょっと漠然としているかもしれません。
それは、思考でしょうか?
思考が、「私は在る」を理解できないんでしょうか?
思考というのは、あなたの意志に関係なく、勝手に、頭からでてきたりしますよね?
思考は、勝手にでてくるものです。
瞑想中だって、思考は勝手にでてきます。
あなたは、その思考に、苦労することもあるんじゃないでしょうか?
なので、むしろ、「私は、思考じゃない」と思うかもしれません。
であるなら、「私は在る」を理解できないのは、どの私なんでしょうか?
それは、意志としての私です。
あなたは今、意志を持って、この文章を読んでるんじゃないでしょうか?
意志を持って、「私は在る」を理解したいと思っているんじゃないでしょうか?
意志を持って、「私は、思考じゃない」と思っているんじゃないでしょうか?
意志を持って、「本当に、インスタントに悟れるんだろうな?」と思っているんじゃないでしょうか?
であるなら、あなたは、意志なんじゃないでしょうか?
意志としての私は、どこからでてくる?
ここからが、本題です。
意志としての私は、どこからでてくるでしょうか?
思考は、頭からでてきます。
脳と思考が、関係していることは、確かなように感じられます。
じゃあ、意志はどうなんでしょうか?
意志って、頭からでてくるでしょうか?
授業中にウトウトしているときに、突然、名前を呼ばれて、「ドキッ!」っとするのは、頭でしょうか?
そうじゃないはずです。
「ドキッ!」とするのは、心臓のあたりのはずです。
感情を感じる場所のはずです。
であるなら、あなたは、そこにいるんじゃないでしょうか?
意志としての私は、そこから、でてきてるんじゃないでしょうか?
そして、「「私は在る」ってどんな感覚なんだ?」と、まるで思考のように振る舞っているんじゃないでしょうか?
実は、その、思考のように振る舞うあなたが、「私は在る」を理解することはできません。
だって、それは、まさしく、思考のようなものだからです。
思考というのは、頭からでてきます。
あなたは、それを、「私じゃない」と思うでしょう。
それは、単なる思考だと。
じゃあ、心臓のあたりからでてくる、意志としての私はどうなんでしょうか?
それは、思考のように振る舞います。
「「私は在る」ってどんな感覚なんだ?」って。
それは、私でしょうか?
それとも、私じゃないんでしょうか?
多くの人は、どうしようもなく、それを「私」だと思っているはずです。
この、意志こそ、「私」という存在の中心だと思っているはずです。
でも、実は、それは勘違いなんです。
それは、まさしく、思考のようなものです。
意志がでてくる源に、気がついている状態、それが「私は在る」です。
実は、意志としての私は、「私」という感覚を、「私は在る」から借景しています。
借景というのは、景色を借りているということです。
例えば、家の裏が、自然豊かな大きな公園の場合、家にいながら、豊かな自然を楽しめたりします。
決して、その公園は、自分の家の敷地ではないのですが、まるで、自分の家の敷地かのように、自然を楽しむことができます。
それが、借景です。
意志としての私が、「私」という感覚を感じているのも、それと同じです。
意志としての私は、「私」という感覚を、「私は在る」から借景しています。
そして、その「私は在る」という感覚は、まさしく、あなたの裏にあります。
授業中、ウトウトしている時に、突然、先生に名前を呼ばれ、「ドキッ!」と感じる場所はどこでしょうか?
それは、感情を感じる場所です。
それは、今もここにあるでしょうか?
ハッキリとはわからなくてもいいんです。
なんとなくでいいんです。
自分が存在しているという感覚を、そのあたりに探してみてください。
気づこうとしてみてください。
そして、その場所に、とどまろうとしてみてください。
気づいている状態、そのものであろうとしてみてください。
実は、その状態が、「私は在る」です。
意志が、不在の状態です。
意志が、「私は在る」の中に、とどまっている状態です。
そして、意志が、「私は在る」から抜け出して、思考のようなものとして振る舞う時、それは、意志としての「私」になります。
「私」という感覚は、「私は在る」から借りているだけです。
それゆえに、個人の感覚が生まれます。
分離しているという感覚が生まれます。
本当のところ、あなたは、一体誰でしょうか?
意志としての「私」として、「私は在る」の中に、とどまることはできるでしょうか?