「観察者」と「観照者」って一体どう違うんでしょうか?
観察者という感覚は分かるんだけれど、
観照者という感覚がいまいち分からないという人は少なくないと思います。
お話します。
何のために瞑想をしているのか?
観察者と観照者の違いを知りたいという人は、
まず、間違いなく瞑想を習慣にしている人だと思います。
そんな人に、質問です。
「何のために瞑想をしているんでしょうか?」
いろんな理由があると思います。
ただたんに、
自分の思考に気づくためという人もいると思います。
無心の状態を保つためという人もいると思います。
観察者としての自覚を強めるためという人もいると思います。
集中力を高めるためという人もいると思います。
深い瞑想状態に入るととてもスッキリするからという人もいると思います。
もちろん、
覚醒したいからとか、
悟りたいからという人もいると思います。
(関連記事:瞑想にゴール(目標・目的)はあるんでしょうか?)
頭の中からエゴを締めだすため?
いろんな理由があると思いますが、
瞑想を実践する上で、みんなに共通すること。
それは、頭の中に思考がでてこないように、
意識することだと思います。
いってみれば、頭の中からエゴを締めだそうとしますよね。
瞑想が上手くいくかどうかは、
それにかかっているとも言えるぐらいです。
瞑想中に、頭の中にたくさんのエゴがでてきたなら
「今日の瞑想はあまり上手くいかなかったな〜」っ
て思ったりしませんか?
反対に、瞑想中にエゴがあまりでてこなかったら、
「今日はすごくいい瞑想ができたぞ〜」とか。
エゴをネガティブな存在として扱ってしまいがちですよね。
一度、エゴの「気持ち」になってみる。
もし、エゴをネガティブな存在として扱っているならば、
一度、エゴの気持ちになってみるといいと思います。
例えば、「今日、仕事でミスをして上司にこっぴどく叱られた、
明日会社に行くのいやだな」というエゴがでてきたとします。
瞑想中に、そういうエゴがでてくると、
それを頭の中から締めだそうとしますよね。
「あ、まずいまずい、もっと呼吸に集中しなきゃ!」とか。
そうすることで、瞑想中はエゴを脇に置いておくことができます。
長い間、瞑想を習慣にしていて、
集中力が高い人ほど、
そういうことが可能だと思います。
でも、エゴの気持ちはどうなるでしょうか?
エゴの感情に気づきながらも、あえて一体化する。
「今日、仕事でミスをして上司にこっぴどく叱られた、明日会社に行くのいやだな」というエゴは、
きっと、憂鬱な感情をともなうと思います。
そうしたら、この憂鬱な感情を、
じっくりと観察してみてください。
そして、あえて一体化してみてください。
もちろん、憂鬱な気分になると思います。
でも、それでいいんです。
僕たちは、瞑想というと形式を守らないといけないんじゃないかと思いがちですが、
瞑想というのは、なにか集中できる対象があればなんだっていいんです。
エゴの気持ちを瞑想対象にすることだって、
それは瞑想になります。
瞑想をすると、自分の感情に気づきやすくなるとは言われています。
感情に気づけば、その感情に巻き込まれなくなるので、
感情をコントロールできるようになるとも言われています。
でも、僕は思います。
感情に気づきながらも、
その感情と一体化するのがいいんじゃないかと。
感情はアメ玉みたいなもの。じっくり味わうと溶けて消えていきます。
僕が思うに、
感情というのはアメ玉みたいなものです。
どういうことかというと、じっくりと味わうと、
最後には溶けて消えていってしまうんです。
不思議なんですけどね。
ネガティブな感情にも、最後には飽きてしまうんです。
この、「飽きる」ということがとても大切だと思います。
飽きるというのは、
楽しいことに対して使う言葉だと思うかもしれませんが、
そんなことはありません。
苦しいことにも、飽きるという現象が起きるんです。
あえて苦しもうという人が、
少ないだけの話なんです。
(関連記事:「苦しみ」と「退屈」を避けないこと)
観察者が暇になって、瞑想を止めたときに、観照者があらわれます。
エゴが感情に飽きていくとどうなるか?
どうなると思いますか?
観察者が暇になってくるんです。
エゴがエゴであることに飽きてくるんですね。
そうして、頭の中にでてくるエゴも少なくなってきます。
そうすると、観察者の仕事がどんどんと減ってくるんですね。
そうすると、あまり、集中力を高めなくても、
十分に無心を保てるようになってきます。
わざわざ、座って瞑想をするまでもないような状態。
観照者があらわれるのはこういうときなんです。
エゴもなく、ゆえに、観察者もどこにも集中していない状態。
そのときに、観照者があらわれます。
まとめ
というわけで、
観察者と観照者の違いについてお話しました。
観照者は、観察者が暇になったときにあらわれます。
観察者が集中力鋭く、エゴを観察しているうちは、
観照者とはなにかを知ることはできないと思います。
エゴが消えているだけでは、だめなんですね。
エゴと観察者、どちらもが消えてないといけないんです。
なので、エゴをネガティブな存在だと認識しているうちは、
観照者を知ることはできません。
大事なのは、エゴでいることに、エゴに飽きてもらうことなんです。
そのためには、苦しいですが、
あえて、エゴの感情と一体化するというのもとても有効だと思います。