前回の「死の恐怖は、どこからやってくるのか?」の続きです。
前回、「虚無とは、唯一の有のことです。」という言葉で、締めくくりました。
これは、なかなか理解し難いんじゃないでしょうか?
「それって、「空」のこと?」って思うかもしれません。
「虚無だと思っていたものが、別の世界に変わったりするの?」と思うかもしれません。
でも、そうじゃないんです。
虚無は虚無です。
そこには、何のイメージもありません。
でも、それは唯一の有なんです。
虚無とニルヴァーナは同じものです。
実は、虚無とニルヴァーナは、同じものです。
ニルヴァーナというのは、涅槃のことですね。
人によっては、ニルヴァーナというと、天国のことを思い浮かべるかもしれません。
そこには、三途の川があって、天女がいて、神々がいると想像するかもしれません。
そして、そこで、先人達が幸福に暮らしていると想像するかもしれません。
ニルヴァーナという言葉は、そういったイメージを引き起こすことがあります。
でも、違うんです。
ニルヴァーナというのは、特定の世界のことじゃありません。
天国のことじゃありません。
ニルヴァーナとは、虚無のことです。
これは、語源からも、そう言うことができると思います。
ニルヴァーナというのは、サンスクリット語で「消えた」とか「吹き消された」という意味だそうです。
存在するすべてが吹き消された状態、それは虚無です。
そして、それは、ニルヴァーナです。
信じられるでしょうか?
おそらく、多くの人にとっては、信じがたいはずです。
誰が、好き好んで、虚無に近づくでしょうか?
なぜ、人は虚無を恐れるのか?
でも、人は、なぜ、虚無を恐れるんでしょうか?
そもそも、虚無って、一体、なんなんでしょうか?
5感覚の消滅でしょうか?
意識の消滅でしょうか?
記憶の消滅でしょうか?
感情の消滅でしょうか?
思考の消滅でしょうか?
イメージの消滅でしょうか?
言葉の消滅でしょうか?
その、すべての消滅が、虚無でしょう。
絶対無です。
「それを恐れるのは当たり前じゃん!」って思うかもしれません。
もちろん、そのことは理解できます。
でも、誰が、その虚無を恐れているんでしょうか?
人は、何かを恐れる時、感情的な反応を示します。
虚無に対する、感情的な反応には、どんなものがあるでしょうか?
まさしく、虚無感でしょうか?
絶望感でしょうか?
恐怖感でしょうか?
はたまた、退屈感でしょうか?
でも、おかしくはないでしょうか?
それは、虚無じゃありません。
虚無は、感情すら消滅した状態です。
もし、何かしらの感情を感じるのであれば、それは、虚無ではないでしょう。
「虚無」という得体のしれない何かを認識し、それに対して感情的な反応を示している、何者かが、そこにいるんじゃないでしょうか?
言ってみれば、その状態は、まだ、「虚無」を外側から眺めている状態なんじゃないでしょうか?
それじゃあ、虚無の本質は分かりません。
虚無の本質を理解するには、「虚無」の内側に入る必要があります。
虚無感や、退屈には、飽きることができます。
「虚無の内側に入るといっても、一体どうやって!?」って思うかもしれません。
実は、その方法はとてもシンプルです。
虚無感や退屈に、飽きればいいんです。
すべての感情は、一時的なものです。
現れては、消えていきます。
楽しいという感情だって、ずっとは続きませんよね。
大抵の場合、飽きるという現象によって終わってしまいます。
それは、虚無感や退屈も、同じなんです。
虚無感や退屈にも、飽きることができます。
ただ、飽きるまでそれを感じ続ける人は、極稀なだけです。
もちろん、言いたいことは分かります。
「虚無感とか退屈を飽きるまで感じ続けるなんて、苦しくない!?」って思うんじゃないでしょうか?
まあ、その通りなんです。
でも、本当に、死の恐怖を克服したいという人は、そうせざるを得ないはずです。
それを避けて、あなたは、なにをするつもりでしょうか?
もし、人生を楽しみたい、人生を楽しめるのであれば、もちろん、そうすればいいんです。
むしろ、そうするべきだと思います。
死の恐怖を克服したって、人生が良くなるとは限らないんですから。
ただ、人生のバッドエンドが避けられるというだけです。
でも、死の恐怖を克服したいという人にとっては、それが、すべてなんじゃないでしょうか?
本気で、死の恐怖を克服したいという人は、少なからず、人生に意味を見いだせていないんじゃないでしょうか?
良い出来事が起きたって、それは、本当には自分を満たしてくれるわけじゃないと、理解しているんじゃないでしょうか?
どこか、常に、虚無感を感じているんじゃないでしょうか?
であるなら、虚無は、避けるべきじゃありません。
今まで、虚無だと思っていたものが、解放感そのものになります。
虚無感や退屈に、飽きたとき、あなたは、虚無の内側に入ります。
でも、ある意味では、虚無を見失うことになるかもしれません。
というのも、そこには解放感があるからです。
虚無を恐れているうちは、虚無に対して、虚無感や退屈を、感じることになります。
でも、それらの感覚が消えたなら、どうやって虚無を感じることができるんでしょうか?
ましてや、そこに、解放感があるのであれば、虚無とは、一体、なんなんでしょうか?
今まで、虚無だと思っていたものが、解放感そのものになるんです。
これは、不思議な現象です。
そして、僕は、この解放感を、ハートとか、至福と呼ぶことが多いです。
その他にも、平和とか、生命とか、静寂とか、いろんな名前で呼ばれることがあります。
もちろん、ニルヴァーナと呼ぶこともできます。
「でも、その感覚って、感情なんじゃないの?」って思うかもしれません。
「であるなら、それは、まだ、虚無の外にいるってことなんじゃない?」って思うかもしれません。
そう疑うことは、大事なことです。
なので、確認することになります。
その解放感を、飽きるまで感じてみるんです。
僕は、2012年に、この現象に出会いました。
そして、2020年現在、この解放感に飽きていません。
飽きる気配はありません。
おそらく、累計、4万時間以上は、感じ続けてきているはずです。
これほど長く、感じ続けることができている感覚は、他にはありません。
この解放感は、常にここにあります。
もちろん、今、この瞬間もです。
これは「有」です。
そして、これは、虚無と呼ばれるものです。
矛盾しているように思えますが、これは、矛盾しません。
矛盾するように感じられるのは、多くの人が、世界と感情を連動させすぎてしまっているからです。
好ましい状況が目の前にあるから、心地よい感情を感じるというパターンに慣れすぎてしまっているからです。
そのパターンで言えば、虚無に対して解放感を感じるというのは、矛盾するように感じます。
でも、実際の経験では、虚無と解放感は、関連しているというよりも、同一のものなんです。
なので、虚無は「有」です。
そして、虚無が有なのであれば、それは、唯一の存在です。
虚無を好むことが、死の恐怖の消滅に繋がります。
前回の記事で、人は、意識よりも、記憶の消滅を恐れていると言いました。
そして、死の恐怖を克服するためには、記憶の重要性を下げる必要があると言いました。
実は、虚無を「有」だと理解することは、そのことに繋がります。
さっきも言いましたが、人は、世界と感情を連動させすぎています。
世界の中で、行為することによって、心地よい感情が得られると思っています。
そうすると、記憶の重要性は高まるばかりです。
でも、虚無が、解放感そのものだと理解するならどうでしょうか?
行為することなく、ここに、解放感があるんです。
記憶を利用する必要もありません。
むしろ、記憶が無いところに、虚無があります。
もし、あなたが、虚無を好むようになるなら、記憶の重要性はどんどんと下がっていくんじゃないでしょうか?
そして、それは、死の恐怖の消滅に繋がっていきます。