今回は、サマタ瞑想、ヴィパッサナー瞑想、マインドフルネスの3つの瞑想方法についての違いについてお話したいと思います。
どの瞑想方法が優れているということは無く、ただ単純に、人によって、向き不向きがあるというだけなんじゃないかと思います。
今回はお話しませんが、マントラ瞑想が向いている人もいると思います。
ただ、瞑想というのは、あくまでも、瞑想することを不要にするための補助輪みたいなものです。
ブッダはヴィパッサナー瞑想によって悟ったとか、禅の真髄はマインドフルネスだとか言われるかもしれませんが、あくまでも瞑想は補助輪にすぎないと理解することが大切です。
悟りは、瞑想することによって得られる体験の中にあるわけじゃないからです。
サマタ瞑想は、1点に集中する瞑想
まず、はじめに、サマタ瞑想です。
サマタ瞑想は、呼吸や眉間などの1点に意識を集中させる瞑想のことです。
(関連記事:サマタ瞑想では、呼吸と眉間どちらに意識を向けるのがいいのか?)
一般的に瞑想と言えば、サマタ瞑想のことを指していることが多いと思います。
僕自身は、サマタ瞑想が1番しっくりとくる瞑想方法でした。
サマタ瞑想というのは、一般的には、初心者向けの瞑想と思われるかもしれません。
瞑想を習うとなると、まずは、サマタ瞑想が教えられることも多いと思います。
でも、実際のところは、サマタ瞑想は1番難しい瞑想だと思います。
例えば、野球では「素振りに始まり、素振りに終わる」という言葉があったりします。
サマタ瞑想は、野球でいえば素振りに相当するものかもしれません。
地味であり、誰にでもできるもののように思えますが、イチローや大谷みたいな素振りができるようになるには、相応の努力が必要なはずです。
サマタ瞑想も、それに近いものがあるかもしれません。
ヴィパッサナー瞑想は、その1点を、少しずつ動かしていく瞑想
ヴィパッサナー瞑想は、体全体をスキャンするように、1点への意識の集中を、少しずつ動かしていく瞑想です。
一般的には頭頂から始めると思います。
そして、顔、首、腕、手、胸、腹、腰、足、と意識を集中させるポイントを少しずつ動かしていきます。
そして、また頭頂へと戻っていきます。
じっくりとやれば、頭頂に戻ってくるまでに30分から40分ぐらいは掛かるはずです。
ヴィパッサナー瞑想では、これを繰り返します。
これは、野球で例えるならば、ランニング(走り込み)に相当するかもしれません。
集中力と、持続力と、意志の強さが鍛えられます。
サマタ瞑想に熟達しなければ、ヴィパッサナー瞑想はできないと言われることがありますが、そんなことはないと思います。
むしろ、サマタ瞑想よりもヴィパッサナー瞑想の方が向いている人もいるはずです。
サマタ瞑想はシンプルがゆえに、退屈を感じることが多いです。
そうすると、すぐに思考に巻き込まれてしまうことになります。
そんな場合には、サマタ瞑想を続けるよりも、意志としてやるべきことが多い(退屈をしのげる)、ヴィパッサナー瞑想の方がしっくりくる可能性もあります。
マインドフルネスは、日常生活の中で、気づいたものに意識を向ける瞑想
マインドフルネスは、日常生活の中でおこなう瞑想です。
特に瞑想対象を決めることは無く、日常生活の中で、自然と気づいたものに対して、意識を向けるという瞑想です。
無自覚の行動を、自覚のある行動に変えることを目的にしています。
(関連記事:「マインドフルネス」と「マインドレスネス」)
例えば、僕はiPhoneユーザーなのですが、保護ケースは付けていません。
裸族です。
これは、ある意味ではマインドフルネスのトレーニングになるんです。
人がスマホを落とす時って、大抵の場合には、なにか考え事をしながらスマホを扱おうとしている時です。
なので、僕はiPhoneを扱うときには、意識的に、考え事をシャットアウトします。
その結果、僕はiPhoneを落としたことがほぼありません。
1回だけ、6年ほど前に落としたことがあるのですが、その時は、他の考え事をしていたからでした。
マインドフルネスというのは、野球に例えるならば、練習試合に相当するんじゃないかと思います。
マインドフルネスは、ヴィパッサナー瞑想に熟達しないと実践できないと言われたりしますが、そんなことはないと思います。
野球初心者だって、練習試合をすること自体はできると思います。
もちろん、上手にゲームをすることはできないかもしれませんが、マインドフルネスであろうと意識をすること自体はできると思います。
そして、マインドフルネスは、サマタ瞑想とヴィパッサナー瞑想に比べて、退屈することはとても少ないでしょう。
なので、ある意味ではマインドフルネスは初心者向きとも言えます。
瞑想することを不要にすること(マインドレスネス)が、瞑想の目的
瞑想というのは、ともすれば、サマタ瞑想、ヴィパッサナー瞑想、マインドフルネスと、ステップアップしていくべきものと思われるかもしれません。
でも、そんなことはないんです。
瞑想というのは、人生を上手く送るために、マインドフルネスでいられることを目標とするものでもないからです。
むしろ、その逆に、マインドレスネスでいられるために、瞑想があります。
瞑想とは、語源的には、冥土を想うことなんじゃないかと思います。
人は死にゆく時に、マインドフルネスである必要はあるんでしょうか?
(関連記事:マインドフルネスをやってはいけない人【悟りには向かない】)
そもそも、人生というゲームの基盤そのものが消え去ろうとしているときに、人生を上手く送るためにマインドフルネスである必要があるんでしょうか?
むしろ、それは自己の消滅の恐怖を生み出すんじゃないかと思います。
(関連記事:死の恐怖は、どこからやってくるのか?)
人生をコントロールしようとする意志は失われるんです。
でも、普段からマインドレスネスに生きている人は、意志を失うことを恐れるでしょうか?
瞑想とは、そのことを確認するための手段なんです。
(関連記事:十牛図はマインドフルネスの過程を表しているのか?)