退屈な時間って、長く感じられたりしますよね。
例えば、電車に乗って1時間ぐらい移動する場合、何もせずにジッとしていられる人は少ないでしょう。
スマホを取り出してニュースをチェックし始めたり、イヤホンを取り出して音楽を聴き始める人もいるかもしれません。
そうすることで退屈な時間を避けることができるからです。
その方が、体感的に時間の流れが早く感じられることを知っているからです。
でも、なぜ、退屈な時間って長く感じられるんでしょうか?
1時間という時間の長さに変わりはないはずです。
でも、退屈な1時間と、何かをしている1時間には、体感的な時間の差があります。
なぜ、退屈な時間の方が長く感じられるんでしょうか?
そこに自我があるからです
退屈な時間が長く感じられるのは、そこに自我がいるからです。
自我とは何かと言えば、この体をコントロールすることができると感じている存在です。
意識に方向性を持たせようとする存在とも言えます。
退屈を感じているのは、この体ではないはずです。
体そのものは、退屈という感覚を感じることはありません。
イヤホンで音楽を聴いている状態と、何もせず退屈を感じている状態は、身体的にはほとんど変わりはないんじゃないかと思います。
にも関わらず、何もせずにいると、自我は退屈を感じるわけです。
感情を感じる場所で、なんとも言えない退屈の感覚を感じることになります。
自我にとって、それは時間が止まってしまうかのような感覚です。
自我にとっての体感的な時間とは、変化の量のことです。
5感覚や思考、イメージの変化の量が、体感的な時間として感じられるんです。
イヤホンで音楽を聴いていると、聴覚的な変化の量が体感的な時間として感じられ、時間が流れていくように感じられます。
そこになんの変化もないのであれば、体感的な時間は止まったように感じられます。
でも、時計的な時間の進行スピードは変わらないわけです。
音楽を聴こうが、退屈しようが、目的地まで1時間かかるということには変わりがありません。
その相対的な差が、退屈な時間を長く感じさせているんです。
寝ている時には自我がないので、時間もありません
体感的な時間というのは無い時もあります。
寝ている時、体感的な時間というのは消えていますよね?
そこには自我が存在していないからです。
退屈な時間は存在していません。
「寝ている時って退屈で退屈でしょうがないよね〜」って言う人はいないと思います。
客観的に見るならば、寝ている時って何もすることができないので、退屈そうでもあります。
ただ、横たわって呼吸をしているだけです。
にも関わらず、多くの人は、寝ることは退屈ではなく、心地よいと感じているんじゃないかと思います。
これって、実はとても不思議なことなんです。
自我自身は、退屈な時間というのを恐れています。
できれば避けたいと思っています。
「退屈な時間が好きだ」と言える人はどれぐらいいるでしょうか?
なので、自我そのものは、実は寝ることを恐れているとも言えるはずなんです。
それは退屈そうに感じられるし、実際の経験としては、自我はそこでは消えています。
存在していません。
それは、ある意味では自我にとっては死のようなものです。
自我は毎晩死んでいます。
であるにも関わらず、多くの人は、「寝ている時って心地よいよね」と思っているのではないかと思います。
人によっては、睡眠薬を飲んでまで、寝ることを望んでいる人もいるかもしれません。
でも、人はなぜ、寝ている時は心地よいということを知っているんでしょうか?
そこでは自我が存在していないし、時間も存在していないにも関わらずです。
自我が前面にでてくるほどに、時間は長く感じられます
多くの人は漠然と「起きている時には常に自我がここにいる」と感じているのではないかと思います。
でも、それは、自我とは何かということを勘違いしているんです。
多くの人は、自我と意識を同じものだと勘違いしています。
(関連記事:「意志」と「意識」の違いとは?)
「起きている時には常に意識があるのであって、だから、自我も常にここにいる」と考えるのではないかと思います。
でも、そうではないんです。
実のところ、自我には実体がないのであり、それは有ったり無かったりするし、そこには強弱があったりもします。
例えば、映画を観ている時、自我はそこにあるでしょうか?
面白い映画を観ている時には、時間が短くも感じられたりします。
それは、映画を観ている間、自我が消えているからです。
もしくは、自我が弱くなっているからです。
「自我がなければ、そもそも映画を観ているということにも気がつけなくない?」と思う人もいるかもしれません。
それがまさしく勘違いなんです。
面白い映画を観ている時には、時間はあっという間に過ぎるかもしれません。
でも、つまらない映画の場合にはどうなるでしょうか?
自我が前面にでてくるんじゃないでしょうか?
「なんだ、このつまんない映画は……」と思うかもしれません。
結果として、その映画はとても長く感じるかもしれません。
自我とは何かといえば、コントロール欲をもつ存在です。
目の前の世界を理想的な状態にコントロールしたがります。
観ている映画がつまらないものであれば、自我は前面にでてきて文句を言います。
そんな自我が、もっとも文句を言うのが退屈な時間です。
退屈な時間を避けるためなら、つまらない映画でもしぶしぶ観たりします。
退屈な時、自我は最前面にでてきています。
そして、時間が止まってしまったかのように感じているんです。
自我がいなければ、退屈は退屈ではなくなり、時間の感じ方も変化します
退屈な時間と一口に言っても、その定義は結構難しかったりします。
必ずしも、「退屈な時間=何もしていない時間」というわけではないですよね?
場合によっては、何もしていない時間を解放的に感じている時もあります。
例えば、1ヶ月ぐらい忙しい日が続いた後に、何もしなくてもいい時間が訪れるのであれば、人はその時間を解放的に感じるんじゃないかと思います。
忙しさから解放されるんです。
人は、何もしていない時間を、解放的に感じたり、退屈に感じたりします。
それは相対的です。
自我というのは相対的な存在なんです。
それは有ったり無かったりするし、そしてまた強弱があったりします。
そしてまた、自我は刺激中毒者です。
例えば、猫に〝ちゅ〜る〟のような美味しいエサばかりを与えていると、猫は普通のカリカリとしたエサを食べなくなったりします。
カリカリがまずいというわけではなくて、猫が〝ちゅ〜る〟に慣れてしまうんですね。
そして、相対的にカリカリとしたエサに満足できなくなってしまいます。
実は、退屈という感覚も似たものがあります。
多くの人にとって、何もしていない時間というのは退屈に感じられるかもしれません。
でも、それは、猫がカリカリに満足できなくなってしまうのと、同じようなものだと言ったらどうでしょうか?
そこには逆説があります。
刺激を求める自我がそこにいる限り、何もしない時間は退屈に感じられるはずです。
でも、自我が退屈の中に消えるなら、そこには解放感があります。
自我から解放されるんです。
それは、寝ている時の心地よさを、起きながらに感じるようなものです。
多くの人は、退屈を感じるのも、解放感を感じるのも「この私だ」と感じるのではないかと思います。
でも、実際のところは少し違うんです。
退屈を感じる自我としての「私」は一時的な機能性みたいなものです。
退屈という感覚は常にここにあるものでしょうか?
感情と同じく、退屈という感覚も一時的なものです。
そんな一時的な退屈という感覚を、永続させようとしているのはこの自我なんです。
何もしていない時、自我は存在できないからです。
自我は刺激中毒者であり、常に何かをしたいと思っています。
でも、退屈を避けようとしている自我に気がつき続けるなら、退屈の感覚と共に、自我は消えてしまうはずです。
退屈を感じる「私」が消え、解放感を感じる「私」が残ります。
どちらが本当の「私」でしょうか?
寝ている時の「私」はどちらでしょうか?
自我が存在しなければ、退屈は退屈ではなくなってしまいます。
結果として、時間の感じ方も変わっていくかもしれません。
(関連記事:OSHOの名言【退屈から逃れる道はない】)