イエス・キリストの言葉です。
ヨハネによる福音書、10章11節に書かれています。
今回は、この言葉について、少しお話しようと思います。
僕は、真理の探求というのは、行って、帰ってくる、旅路だと言ったりします。
折り返し地点がある、という表現もするかもしれません。
イエスの、この言葉も、まさしく、そのことについて語られたものです。
なんで良い羊飼いは、羊のために命を捨てるんでしょうか?
良い羊飼いとは、一体なにか?
まず、最初にポイントになるのは、「良い羊飼い」とは何かということですね。
「私は良い羊飼いである。良い羊飼いは羊のために命を捨てる。」という言葉は、別に、単独で存在しているわけじゃありません。
その前後には文脈があります。
なので、この言葉の後に続く文脈を、ちょっと引用してみます。
「羊飼いでなく、自分の羊を持たない雇い人は、狼が来るのを見ると、羊を置き去りにして逃げる。狼は羊を奪い、また追い散らす。」
「彼は雇い人で、羊のことを心にかけていないからである。」
「わたしは良い羊飼いである。わたしは自分の羊を知っており、羊もわたしを知っている。」
「それは、父がわたしを知っておられ、わたしが父を知っているのと同じである。わたしは羊のために命を捨てる。」
「わたしには、この囲いに入っていないほかの羊もいる。その羊をも導かなければならない。その羊もわたしの声を聞き分ける。こうして、羊は一人の羊飼いに導かれ、一つの群れになる。」
「わたしは命を、再び受けるために、捨てる。それゆえ、父はわたしを愛してくださる。」
「だれもわたしから命を奪い取ることはできない。わたしは自分でそれを捨てる。わたしは命を捨てることもでき、それを再び受けることもできる。これは、わたしが父からうけた掟である。」
どうでしょうか?
わかるでしょうか?
ここでポイントになるのは、「父」という存在だと思います。
どうやら、良い羊飼いというのは、「父」の存在を知っているようです。
であるならば、良い羊飼いというのは、「羊」を、「父」のもとへ導こうとする存在なんじゃないでしょうか?
そして、そのためには、まずは、自分自身が、「父」を知っている必要があります。
そうでなければ、「羊を持たない雇い人」になってしまうでしょう。
「狼」という表現もありますが、狼というのは、感情的な恐怖、苦しみのことだと思います。
そして、「羊」というのは、思考や、思い込み、イメージ、認識のことです。
嫌なことを思い出したとき、「なんで、あの時、あんなふうにできなかったんだろう。。」とか、思考が渦巻いたりしますよね。
それはつまり、狼が羊を奪うという表現になります。
はたまた、嫌なことは、忘れようとしたりもしますよね。
それはつまり、狼が羊を追い散らすという表現になります。
であるなら、「羊飼い」というのは、一体、何なんでしょうか?
瞑想を習慣にしている人にとっては、「観察者」という表現がピンとくるかもしれません。
もしくは、「意志」や「意識」と言ってもいいかもしれません。
ただ、それだけじゃ少し足りません。
「良い羊飼い」となるには、「父」を知っている必要があります。
父というのは「真理」であり、この世界においては「聖霊(ハート)」として現れています。
そのことを、ハッキリと認識していなければ、羊を父のもとに導くことはできないでしょう。
良い羊飼いは、自身が羊であるということを自覚している。
人によっては、「父を知っているということは、それは、すでに真理を悟ってるってことじゃない?」って思うかもしれません。
でも、即、そうなるというわけじゃないんです。
人の心というのは、たくさんの思考、認識、思い込みなどの集合体です。
それぞれ、違う人格のようなものを持っていると言ってもいいかもしれません。
だからこそ、良い羊飼いが必要になるわけです。
羊の中には、「父?そんなの知るか!それよりも、美味しい草をたらふく食べたいぜ!」という個体もいるかもしれないんです。
まあ、それでもいいのですが、それが執着にまで発展すると、真理の探求においては、障害になったりします。
なので、良い羊飼いとして、羊を父のもとまで導いていく必要があるわけです。
「美味しい草もいいけどさ、それって、一時的なものじゃない?一時的な美味しさを追求してなんになるの?そんなんで満足できるの?僕は、尽きることのない美味しい牧草地帯を知ってるんだけどさ、興味ない?」という感じで、羊を父のもとまで導いていきます。
もちろん、こういった寸劇が言葉でやりとりされるわけじゃありません。
言葉として理解されることもあるかもしれませんが、大抵は、沈黙の中で、そういったやりとりがおこなわれます。
そういったことが、しばらくの間、続けられることになります。
羊たちが、自分から好んで父のもとへ帰っていくようになるまでです。
一方、「羊を持たない雇い人」というのは、自分自身が羊のようなものです。
自分自らが、「父?そんなの知るか!」と言い放ちます。
もしくは、なにか違う概念を、「父」だと勘違いしています。
なので、羊のために命を捨てるということはありません。
でも、「羊のために命を捨てる」っていうのは、一体、どういうことなんでしょうか?
実は、良い羊飼いというのも、その実態は、羊なんです。
羊を持たない雇い主の場合には、自身が羊であるということの自覚がありません。
でも、良い羊飼いの場合には、自身が、実は、羊であるということの自覚があります。
そして、羊のために、命を捨てます。
私は羊の門である。
「わたしは良い羊飼いである。良い羊飼いは羊のために命を捨てる。」という言葉には、その前にも、文脈があります。
それを引用します。
「はっきり言っておく。わたしは羊の門である。」
「わたしより前に来た者は皆、盗人であり、強盗である。しかし、羊は彼らの言うことを聞かなかった。」
「わたしは門である。わたしを通って入る者は救われる。その人は、門を出入りして牧草を見つける。」
「盗人が来るのは、盗んだり、屠ったり、滅ぼしたりするためにほかならない。わたしが来たのは、羊が命を受けるため、しかも豊かに受けるためである。」
この後に、「わたしは良い羊飼いである〜」と続きます。
わたしは羊の門であるって言っていますね。
わたしは、良い羊飼いであり、羊の門でもあるということですね。
でも、羊の門って、一体、何なんでしょうか?
羊の門というのは、父へと繋がる門のことです。
良い羊飼いは、羊を、この門に連れてきます。
この門の奥に、牧草があるからです。
尽きることのない、美味しい牧草地帯です。
でも、なぜ、良い羊飼いは、それを知っているんでしょうか?
それは、以前に、この門の中に入り、命を捨てたことがあるからです。
羊の門というのは、羊にとっては、恐ろしく感じる門です。
その奥は、虚無で満ちているように感じられます。
なので、多くの羊は、羊の門に寄りつきません。
でも、良い羊飼いとなる羊は、羊の門の正体を知るべく、その中に、命を捨てた羊です。
その結果、羊は、仮初めの命を失い、本当の命を得ます。
羊の門としての命を得ます。
羊の門とは、聖霊のことであり、ハートのことです。
十字を切る場所です。
そして、羊は、死ぬわけじゃありません。
羊は、良い羊飼いとして、再び、仮初めの命を得ます。
ここが、真理の探求における、折返し地点です。
良い羊飼いは、父、聖霊(ハート)に帰依してしまいます。
他の羊を、羊の門まで連れてこずにはいられないでしょう。
そして羊は、一人の羊飼いに導かれ、一つの群れとなります。
すべての羊が、羊の門をくぐったとき、真理の探求は、終わりをむかえるのかもしれません。
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