このブログに、なにかひとつの主張があるのだとすれば、これです。
「苦しみと退屈を避けないこと」です。
もちろん、多くの人が、これを避けたがるというのもわかります。
むしろ、「避けて当然でしょ」って思うんじゃないでしょうか?
むしろ、「避けるための方法論を教えるべきなんじゃないの?」って思うかもしれません。
でも、あいにく、僕は、一生、苦しみと退屈を避け続けることができる、方法論を知りません。
そして、矛盾するように感じるかもしれませんが、苦しみと退屈を避けないことによって、苦しみと退屈を避けることができるんです。
苦しみと退屈には、飽きることができる
苦しみと退屈を、避けないことを勧める理由は、苦しみと退屈には、飽きることができるからです。
「飽きる」っていう感覚、おそらく、すべての人が知っているはずです。
動物だって、「飽きる」という感覚を、知っているように思えます。
例えば、犬とか猫。
おもちゃに、飽きますよね?
「新しいおもちゃを与えたときには、あんなに興奮していたのに、今では反応もしない。。」というのは、犬猫の飼い主アルアルなんじゃないでしょうか?
そう考えると、「飽きる」という現象は、生きるものすべてに備わった、ひとつの機能性とも言えるんじゃないでしょうか?
多くの場合、「飽きる」という言葉に対する主語には、「楽しさ」が使われます。
「楽しいことに飽きる」とかですね。
でも、必ずしも、楽しさに限らないということは、多くの人が経験しているんじゃないでしょうか?
例えば、過去の嫌な記憶に対して、飽きてしまったことはないでしょうか?
あんなにも、自分を悩ませていた、過去の記憶に対して、今は、なにも感じないということ、ないでしょうか?
それはつまり、飽きてしまったということです。
「時間が解決してくれた」と思うかもしれませんが、現象としては、「飽きる」という現象と同じです。
時間をかけて、飽きてしまったんです。
であるなら、「苦しみ」や「退屈」といったものにも、飽きることができるんじゃないでしょうか?
実際のところ、飽きることができます。
でも、わざわざ、探す必要はありません
でも、だからといって、わざわざ、「苦しみ」や「退屈」を探す必要はありません。
これは、探求の世界に限らないと思いますが、世の中には、自分自身を知るために、自分が、どんな認識や思い込みを持っているのかを、書き出すというワークがあったりします。
僕も、自己啓発セミナーなんかで、それをやったことがあります。
僕が、真理の探求を始める前、理想の追求をしていた時の話ですが。
もちろん、そうしたいなら、そうすればいいのですが、必ずしも、そうする必要はないんです。
というのも、その行為自体が、苦しみや退屈を避けようとするものだからです。
むしろ、そこには、「苦しみを征服してやろう」というような、野望めいた意図があるんじゃないでしょうか?
「苦しみの原因を洗い出して、一網打尽にしよう」というような、野望めいた意図があるんじゃないでしょうか?
そんなことは、しなくてもいいんです。
というのも、ある意味では、苦しみというのは、あちらの方から、勝手に、ノコノコとこちらにやってくるからです。
呼んでもないのに、勝手にやってきます。
そこを捕まえればいいんです。
そして、飽きるまで、その苦しみを味わってみればいいんです。
苦しみの味わい方は、こちらの記事「苦しみに飽きるための感じ方」が参考になります。
あなたは、ボコボコにされます。
でも、ボコボコにされ続けることで、あなたは勝利します。
その苦しみに、飽きてしまうからです。
苦しみが和らぐとか、そういったレベルではないです。
苦しみに飽きてしまうことは、もっと、根本的なものです。
「飽きる」という感覚を知っているのなら、理解できるんじゃないでしょうか?
それは、「興味がなくなる」に近いものがあります。
苦しみの原因となっていたものに、興味がなくなってしまうんです。
飽きてしまったものに、再び、興味を持つことは、至難の業なんじゃないでしょうか?
であるなら、苦しむことに飽きたなら、再び、苦しむことも、至難の業なんじゃないでしょうか?
「楽しさ」と「喜び」も避けないこと
「「苦しみ」と「退屈」を避けないこと」と言うと、「じゃあ、「楽しさ」とか「喜び」といったものは、避けたほうがいいのかな?」と思う人もいるかもしれません。
そんなことはありません。
むしろ、それは誤解です。
「楽しさ」とか「喜び」といったものも、避けないことです。
でも、そんなことを言わなくても、ほとんどの人は、楽しさとか喜びといったものは避けないですよね。
楽しめるのであれば、楽しめばいいんです。
言ってみれば、やってくる、すべての感情を避けないことです。
このブログは、「苦しみ」とか「退屈」にフォーカスすることが多いです。
なので、楽しむことは避けたほうがいいのかなと思う人がいても、不思議じゃありません。
でも、僕は、楽しむことも、推奨します。
僕だって、映画を観たり、今はコロナであれですが、旅行だってしますし。
ただ、「楽しまなければならない」という考えは、持たないようにしてください。
無理に楽しもうとすることは、反対に、苦しみを生み出します。
例えば、退屈を避けるために、大して興味も持てないことをすることは、苦しみじゃないでしょうか?
そういう人は、少なくないんじゃないかと、僕は思っています。
僕も、身に覚えがあります。
八方塞がりなんです。
特にやりたいこともないけれども、退屈するのも嫌だなあという状態。
であるのなら、退屈すればいいんです。
(関連記事:「退屈を避けない」って一体どういうことなのか?)
その、八方塞がりの状態の、突破口は、「退屈」の中にあります。
解放感は、常に、ここにあります
「退屈」に飽きることを、想像できないという人は、少なくないと思います。
退屈には、原因がありません。
感情には、原因がありますよね。
良い出来事が起こると、楽しいとか嬉しいという感情が起こります。
反対に、悪い出来事が起こると、怒りとか悲しいという感情が起こります。
でも、退屈には、そういった原因がありません。
にも関わらず、感情的なエネルギーはあります。
なんとなく、重っ苦しいなにかを、胸に感じるんじゃないでしょうか?
それは、ニュートラルな感情エネルギーとも言えるかもしれません。
何色にも染まってない、感情エネルギーです。
それが、世界に反応すると、色んな感情として、感じられるわけです。
「苦しみ」に飽きるというのは、その感情エネルギーから、「苦しみ」の色が抜けるという感じかもしれません。
であるなら、「退屈」に飽きるって、どういうことでしょうか?
もしかして、感情エネルギーが、消えるんでしょうか?
実は、そうなんです。
胸に感じている、重っ苦しいなにかが、消えます。
もちろん、生きている限り、永久的にというわけじゃないのですが、胸が軽くなります。
そこには、解放感があります。
そして、すべての人は、この解放感を知っています。
それは、特別な何かじゃありません。
既知のものです。
それは、まさしく、何かから解放されたときに感じるものです。
多くの人は、解放感というのは、世界の状態と関係していて、それは、感情のひとつだと思っているはずです。
当然、僕も、そう思っていました。
でも、それは、勘違いなんです。
解放感は、常に、ここにあります。
解放感というのは、無感情のことです。
多くの人は、無感情というのは、なにか、嫌な感情だと認識するんじゃないでしょうか?
それは、まさしく、感情です。
多くの人にとっての、無感情というのは、ニュートラルな感情エネルギーのことです。
それは、退屈のことです。
でも、本当の意味で、無感情になるなら、ここには、解放感があります。
真理を教える人の中には、真理を理解した上で、世界を楽しめばいいという人がいると思います。
結構、そう言う人は、多いと思います。
でも、それは両立しないんです。
世界に楽しさを求めるなら、この解放感は、感情エネルギーによってフタをされてしまうからです。
解放感は、失われたかのように感じられるでしょう。
本当の意味で、この解放感の正体を知っているのなら、これを失ってまで、楽しさを追い求めたりはできないはずです。
でも、だからといって、「楽しんではいけない」というわけじゃないんです。
真理を理解するならば、人は、解放感を好むようになります。
でも、感情が無くなるわけじゃありません。
生きている限り、世界に対しての、感情的な反応は起こり続けます。
場合によっては、楽しいという感情が起こります。
であるなら、その感情を、楽しめばいいんです。
そして、場合によっては、苦しいという感情が起こります。
その時は、苦しめばいいんです。
ただ、それらの感情は、一時的なものです。
でも、解放感は、常に、ここにあります。
(関連記事:探求を早く終わらせたいなら、まず、ハートを理解する)
(関連記事:「苦しみ」を避けて「退屈」を追わないこと)