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苦しみ

苦しみに飽きるための感じ方

僕は、このブログの中で、苦しみには飽きることができるということを良く言います。

でも、「本当に、飽きることなんてできるの?」って思う人もいると思います。

極端な話をすれば、車を運転していて、故意ではないにしろ、人を轢いて死なせてしまった場合、その罪悪感、苦しみに、飽きることはあるんでしょうか?

そういった苦しみには、飽きることはできないようにも感じられます。

倫理的にも、そういった苦しみに飽きることは、不謹慎だと思う人もいるかもしれません。

でも、そういった苦しみにも、飽きるという現象は起こります。

苦しまされているのか?苦しんでいるのか?

「苦しむ」と一口に言っても、苦しみ方には、2つのパターンがあると思っています。

「苦しまされているのか?」それとも、「苦しんでいるのか?」という、2つのパターンです。

この違い、意識したことはあるでしょうか?

僕も、それほど意識していたわけではないのですが、以前、Kさんから頂いた質問を見て、「ああ、苦しみ方には、この2つのパターンがあるな」と気づきました。

言ってみれば、受動的か、能動的か、という違いがあるんです。

苦しみに飽きることができるのは、能動的な方です。

苦しみの原因を考えるのではなく、苦しみ、そのものを見る。

人が苦しむ時、そこには、なんらかの原因があります。

例えば、「親と上手くいかない」とか、「仕事場の人間関係が上手くいかない」とか、「お金がない」とか、「死ぬのが怖い」とか、それこそ、「車で、人を轢いて死なせてしまった」とか。

そして、多くの場合、無自覚に、苦しみの原因を探りはじめます。

思考が渦巻きはじめます。

そして、苦しみを強く感じます。

「どうして、お父さんは、いつもあんなんなんだろう!」とか、「ああ、まずい、今週中には仕事を見つけないとヤバいぞ!」とか、大抵の場合、思考は、苦しみを助長するような感じに展開していきます。

多くの人にとって、「苦しむ」ということは、そういうことなんじゃないでしょうか?

「苦しみの原因を取り除かない限り、この苦しみは消えない」と思うんじゃないでしょうか?

そのためには、思考する必要があると思うんじゃないでしょうか?

それは、受動的な苦しみ方です。

自己認識に、苦しまされているんです。

このパターンだと、苦しみに飽きることは、難しいかもしれません。

なにしろ、苦しみには原因があって、それを取り除かない限り、苦しみは消えないと思っているからです。

苦しみに飽きるためには、そうではなく、「苦しみ」そのものを見ます。

思考が渦巻きだすと、当然のことながら、意識は、思考に向きがちです。

でも、「苦しみ」が発生している場所は、思考でしょうか?

頭が「苦しみ」を感じているんでしょうか?

そうではないはずです。

思考は、単なる思考です。

「苦しみ」が発生している場所は、他にありますよね。

感情を感じる部分です。

心臓のあたりです。

であるならば、思考に向いてしまった意識を、意志の力で、「苦しみ」そのものに向けてみてはどうでしょうか?

意識を、頭から、感情を感じる場所まで、下ろします。

試してみたことはあるでしょうか?

これは、ちょっと抵抗感があるかもしれません。

ちょっとした勇気が必要かもしれません。

というのも、意識を、思考から、「苦しみ」そのものに向け変えるということは、苦しみの原因を、思考的に解決しようとすることを、放棄することでもあるからです。

そして、「苦しみ」そのものに意識を向けるということは、苦しみを、よりダイレクトに感じることでもあります。

「それはイヤだ。。」という人も多いと思います。

例えるならば、虫歯で歯の神経を抜かなければいけなくなった時に、まさしく、1番突かれたくない場所を、針で突かれることと似ているかもしれません。

経験したことがある人は、分かると思います。

歯医者さんは、まさしく、1番突いてほしくない場所を、ピンポイントで針で突いてきます。

「え?まさか。。。そこに触れる気?」という場所を、ピンポイントで突いてきます。

神経を抜くので、当然と言えば、当然です。

それは、「苦しみ」に対処するときでも、ある意味では同じかもしれません。

患部そのものを見る必要があります。

歯医者さんが、レントゲン写真を見て、「あ〜だ、こ〜だ」言ってても、歯の痛みは消えないでしょう。

苦しみをどうにかしようと、思考が記憶を見て、「あ〜だ、こ〜だ」と考えても、苦しみは、なかなか消えません。

苦しみ、そのものを見る必要があります。

それが、能動的に苦しむということなんです。

もちろん、「苦しみ」そのものに意識を向けても、思考が消えるというわけじゃありません。

思考は、渦巻き続けるかもしれません。

でも、重要なのは、それでも、意識を「苦しみ」そのものに向け続けることです。

大丈夫です。

「苦しみ」そのものを見ることは、確かに苦しいことですが、死にはしません。

本当に、「苦しみ」そのものを見続けるのなら、いつかは、その苦しみに飽きてしまいます。

そして、苦しむということと、問題を解決しようと思考することは、別なんだということに気がつくでしょう。

苦しむことに飽きたって、もし、目の前に問題があるのなら、問題はそのまま残ります。

(問題が問題でなくなってしまうことも多いですが)

でも、その時には、単純に、問題を解決するために、思考は働きます。

そこに、苦しみはありません。

苦しみの再生産はしないこと。

もしかしたら、人によっては、「苦しみ、そのものを見ることは、危険を伴うんじゃないのか?」と思うかもしれません。

精神を病んでしまったりとかですね。

精神を病むと、自殺の危険性があったりもすると思います。

でも、それは逆です。

苦しみを避けたいがあまり、思考を渦巻かせてしまうほうが、精神を病む可能性は高いんじゃないでしょうか?

そして、思考を渦巻かせてしまうなら、苦しみが、再生産されることもあります。

例えば、車で、人を轢いて死なせてしまった人の場合、その罪悪感、苦しみは、非常に強いものがあると思います。

その状態で、思考が渦巻くなら、どうなるでしょうか?

数多くの、自己認識が作り出されるはずです。

「自分は、幸福になってはいけない人間だ」

「遺族の方々に、一生をかけて償わなければならない」

「もし、あの時、車を運転していなければ。。」

その他にも、数多くの自己認識で、自分自身を縛ってしまうはずです。

なので、人を死なせてしまった場合、その苦しみには、飽きることなんてないのではないかと思うかもしれません。

でも、本質的には同じです。

「苦しみ」そのものを見るのであれば、いつかは、その苦しみには飽きてしまいます。

それが、倫理的にどうかということは別にしてです。

もちろん、社会が定めた、罰を受ける必要はあります。

ちなみに、僕の運転免許証の色はブルーです。

ブルーだと免許更新時の講習で、さだまさしの「償い」という曲を聞くことになります。

おそらく、全国共通なんじゃないかと思います。

講習で、聞いたことがある人も、いるかもしれません。

この曲は、まさに、車で、人を轢いて死なせてしまった人のことを歌った曲です。

実話を元に、作られた曲だそうです。

この曲は、悲しいながらも、救いがある展開になっています。

でも、実際のところは、苦しみが、再生産され続けることの方が、多いのではないかと思います。

そして、それは、こういったシチュエーションだけに限りません。

多かれ少なかれ、多くの人は、苦しみの再生産をしているんじゃないでしょうか?

思考が渦巻くと、思考は、何かしらの落とし所を見つけます。

苦しみが、怒りに変わることもあります。

「あいつがいけなかったんだ!」とか。

苦しみを、希望で覆い隠すこともあります。

「次こそ、上手くいく!あの人は、他の人とは何かが違う。。」とか。

でも、その苦しみは、潜在的な存在として残り続けます。

それは、なにかのキッカケで、再び表面化することがほとんどです。

そういった、潜在的な苦しみを、数多く抱え込んでいる人もいるでしょう。

でも、苦しみには、飽きることができます。

いつまで、自我に支配され続けるつもりでしょうか?

自我は、人を、感情で支配しています。

楽しさで、もしくは、苦しみで。

もう、自我に支配されるのはイヤだと思うのであれば、1度でもいいので、苦しみに飽きるという経験を、意識的にしてみてください。

それは、自我の支配に対する、反撃の狼煙(のろし)です。

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