真理の探求をしていると、「私は存在しない」という言葉にふれることがあると思います。
まるで、その言葉が真理であるかのように扱われることも少なくないんじゃないかと思います。
仏教の「諸法無我」という言葉が引用されることもあります。
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なので、「そうか、私は存在しないのか……」って信じようとする人もいるかもしれません。
でも、「私は存在しない」という言葉は使われる文脈が重要です。
その文脈を理解しないままに、「私は存在しない」という言葉を真に受ける必要はないんです。
その「私」ってどの私なのか?
まず最初に、「私は存在しない」の「私」ってどの私のことを言うんでしょうか?
真理を理解している人であれば、そのことについて明確に答えられると思います。
多くの人は、体を「私」だと思っていたり、心を「私」だと思っていたり、記憶を「私」だと思っていたり、意志を「私」だと思っていたりします。
でも、「私は存在しない」という言葉を真理であるかのように扱う人は、おそらく、「どの「私」どころか、どこまでいっても「私」は存在しない」と答えるんじゃないかと思います。
もし、本当にそう思っているのであれば、それは真理を勘違いしているかもしれません。
「私は在る」を「在る」と表現する言葉遊び
「私は存在しない」という言葉には、都合が悪い言葉も存在します。
「私は在る」という言葉です。
真理を探求するなら、「私は在る」という言葉にもふれることがあると思います。
聖書の中にも出てくる言葉です。
その歴史は古いです。
「私は存在しない」という言葉を真理であるかのように扱う人にとっては、「私は在る」という言葉は都合の悪い言葉です。
なので、「私は在る」を単に「在る」と表現する人もいます。
でも、それは単なる言葉遊びです。
そんなことに意味はあるんでしょうか?
「私は在る」と「在る」という言葉は同じ意味です。
(関連記事:「私は在る」をインスタントに悟る方法)
なぜ、私であってはいけないんでしょうか?
この世界という現象は、すべて「私」という存在感を基盤にしています。
「私」という存在感と、それが個人的であるということは、別の話です。
「私」という存在感は、もともと個人的なものじゃありません。
おそらく、そのことを理解していないからこそ、「私は存在しない」という言葉を真理であるかのように扱ってしまうのではないかと思います。
それはまるで、海の中に居ながら、「海は存在しない」と言うかのようです。
意志としての「私」は有ったり無かったりします
もともとは非個人的である「私」という存在感を、個人的なものに感じさせているのは、その意志です。
意志という存在は非常に巧妙です。
意志というのは、意識に方向性を持たせる存在であり、その対象と「私」という存在感を結びつけます。
例えば、自分の体を意識するとき、意志は、「私」という非個人的な存在感と、体を結びつけます。
そうして、意志は、「私」という存在感が個人的な体に備わっていると勘違いしていきます。
思考に対してだってそうです。
起こった思考と、「私」という存在感を結びつけます。
他人に対してだってそうです。
身近な人をまるで「私」であるかのように感じるのはそれが理由でしょう。
意志そのものだってそうです。
意志の存在に気がついているのなら、「私は意志だ」という感覚は強くなっていくでしょう。
「私は存在しない」という言葉の本当の意味は、「意志としての「私」は実在するわけじゃなくて、それは有ったり無かったりする思考と同じようなものだよ」ということです。
(関連記事:「意志」と「意識」の違いとは?)
意志は、世界を対象にすることでしか存在することができません。
熟睡中には意志は存在していません。
起きている時でも、世界に対して注意が向いていない時には、意志は存在していません。
意志は、世界に対する注意と共に現れます。
多くの人は起きている間はずっと世界に注意が向いているんじゃないでしょうか?
目の前の世界、イメージの中の世界、意志は常になにかしらの対象に向かいます。
そうしなければ、意志は存在できないからです。
でも、意志が存在しないということは、「私」という存在感も存在しないということじゃありません。
多くの人は、意志と「私」という存在感はセットだと思っています。
僕もそう思っていました。
でも、違うんです。
意志として存在せずとも、私は在ります。
「私は存在しない」という言葉は、「そのことを意志として確かめてみれば?」ということなんです。
意志として世界に注意を向けない時、どうなるのかを確かめてみればどうかということなんです。
文脈関係なしに「私は存在しない」と主張するのなら勘違いです
多くの人は体を「私」だと思っています。
思考を「私」だと思っています。
瞑想を習慣にする人は、体や思考は「私」ではないということには気づいているかもしれませんが、観察者たる意志が「私」だと思っているでしょう。
「この「私」が存在しないなんて考えられない」と思っているでしょう。
そういった探求者に対して、文脈関係なしに「私は存在しない」と主張する人がいるのであれば、それは何かの勘違いでしょう。
「私」の存在を正直に認めている人の方が、よっぽど真理に対して真摯的なんじゃないかと思います。
実際のところ、「私」という存在感こそが唯一の実在です。
ただ、意志が、「この「私」という存在感が個人的であることの元凶なんだ」と勘違いしているだけなんです。
そして、意志は、「私」という存在感を取り除こうとします。
例えるなら、海の中に居ながら、海を取り除こうとするようなものです。
それは不可能です。
でも、意志はそれをしようとします。
海の中に居ながら、海の中にいるという感覚を取り除こうとします。
海の中で黙っているなら、海の中にいるという感覚は強まるばかりです。
なので、意志は、目の前の魚の動きに注意を向けようとしたりします。
そうしているうちは、自分が海の中にいるということを多少なり忘れることができるからです。
キレイな熱帯魚を見つけて、心を奪われるかもしれません。
白いサンゴ礁地帯に興味を持つかもしれません。
大きなクジラを見つけて、畏怖の念にかられるかもしれません。
でも、一体いつまでそんなことを続けるんでしょうか?
そんなことをしても、海の中に居ることには変わりがありません。
ただ、「私」という存在感の上に、様々な感覚、感情をのせてまぎらわせているだけです。
そして、「私は存在しない」と主張しているだけです。
「私は在る」という言葉を「在る」と表現してまで、そんなことをする必要はないんです。
「私は在る」と「私は存在しない」という言葉は矛盾しません。
意志としての私が世界に注意を向けない時、意志としての私は存在しません。
にも関わらず、私は在ります。
その「私」が唯一の実在です。
それは、とてもシンプルなことです。
ただ、意志にとってそれは、最初のうちは退屈なように感じるかもしれません。
(関連記事:「苦しみ」と「退屈」を避けないこと)
最後に、バガヴァッド・ギーターからこの文章を引用して終わりにしたいと思います。
「いかなるものでも権威があり、栄光あり、精力あるもの、それを私の威光(光輝)の一部から生じたものと理解せよ。だがアルジュナよ、そのように多く知っても何になろう。私はこの全世界を、ほんの一部分で遍(あまね)く支えて存在しているのだ」
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