僕はこのブログの中で、いくつかの切り口で、世界は実在しているわけではないということをお話しています。
今回は、また違った切り口で、お話しようと思います。
密教には、曼荼羅(マンダラ)という絵があると思います。
Wikipediaを見てみると、「諸仏諸尊が集会する楼閣を模式的に表した図像」と書かれています。
ほとんどの人は、教科書などで、1回は見たことがあるのではないかと思います。
僕は、密教について詳しいわけではありません。
密教は、仏教の一部だと思われているかもしれませんが、その実態は、祭式を重んじるヴェーダに近いのではないかと思っています。
そんな、曼荼羅なのですが、実は、この世界の実像を表している絵なのではないかと思います。
曼荼羅には、世界が描かれていない。
Wikipediaから、曼荼羅の絵を引用します。
不思議な絵ですよね。
この絵は、曼荼羅のひとつの例ですが、ほとんどの曼荼羅は、こんな感じに描かれていると思います。
でも、この絵が、この世界の実像を表しているだなんて、ほとんどの人は思えないんじゃないでしょうか?
「この絵は、あくまでも仏の世界を表したものであって、この現実世界とは別のものでしょ?」って思うんじゃないでしょうか。
そもそも、この絵には、「世界」と呼べるものが描かれていません。
人と人の間に、金剛杵(ヴァジュラ)と呼ばれるものが挟み込まれているのが確認できるぐらいです。
ちなみに、金剛杵というのは、ヴェーダの中にも登場する、インドラという神が使う武器です。
このことからも、密教というのは、ヴェーダの影響が大きいように思えます。
絵の四隅にも、なにか壺のようなものが描かれていますが、それが何かは、僕にはちょっと分かりません。
ともあれ、この曼荼羅が、この世界の実像を表しているとは、とても思えないんじゃないかと思います。
世界が存在するための、空間の存在を感じられないんじゃないでしょうか?
アートマンの中に、それぞれの世界がある。
実は、曼荼羅というのは、アートマンとブラフマンの関係性、言ってみれば、梵我一如を、絵として表したものなのではないかと思います。
中心の、大きな人が、ブラフマンで、それを取り囲むように、アートマンが配置されています。
この曼荼羅では、8人ですね。
それぞれ、独立しているように見えて、実は、繋がっています。
でも、そのことと、世界というのは、どう関係しているんでしょうか?
アートマンとブラフマンの外に、実は、世界が広がっているんでしょうか?
もしそうなのだとすれば、この曼荼羅の絵は、少し、情報が足りなすぎじゃないでしょうか?
世界という情報が、完全に無視されているような描かれ方をしています。
本当は、もっとキャンバスを広げて、広大な世界を描いてもいいようなものです。
そして、その広大な世界を、それぞれのアートマンが共有しているように描いても、いいようなものです。
おそらく、多くの人には、こういった考え方のほうが、シックリくるんじゃないかと思います。
実際のところ、そのように描かれた曼荼羅もあります。
これも、Wikipediaからの引用です。
むしろ、曼荼羅と言えば、「この絵!」と思う人も多いかもしれません。
でも、この絵を見ると、ブラフマンと繋がっている8人以外は、ブラフマンと分離しているように見えます。
そんなことは、あり得ません。
世界というのは、アートマンとブラフマンの外にあるわけではないからです。
世界は、それぞれのアートマンの中にあります。
世界とは、潜在的な存在。
「世界は、一度たりとも創造されたことがない」と言われることがあります。
それは、つまりは、世界というのは、アートマンの中にあるからです。
世界という実体があるわけじゃありません。
あるのは、アートマンという実体だけであり、それは、ブラフマンそのものでもあります。
多くの人は、この世界には、空間があると思っていると思います。
でも、実際のところは、空間というものもありません。
記憶があるがゆえに、空間があるように感じられているだけです。
例えるならば、写真の中に、空間というのはありませんよね?
もし、記憶がないのであれば、視覚というのは、一瞬一瞬だけのものです。
その、一瞬の視覚から、空間を認識することはできないでしょう。
写真と同じようなものだからです。
時間だって、記憶があるがゆえに、あるように感じられます。
このことは、こちらの記事「記憶があるから、時間が存在する」でも書いています。
とはいえ、世界中の人が、同じひとつの世界を共有しているように感じられます。
それは、すべてのアートマンが、同じ1つのブラフマンでもあるからです。
言ってみれば、世界というのは、潜在性として存在しています。
世界というのは、ブラフマンの中に、データみたいな状態で、格納されていると言ってもいいのかもしれません。
そして、それぞれのアートマンごとに、必要なデータが引き出されます。
今、この瞬間もです。
世界というのは、あなたの中にあるんでしょうか?
それとも、世界というのは、あなたの外にあるんでしょうか?
もっと、例え話をしてみます。
ダイニングに、大きなテーブルと、8つのイスがあるとします。
その8つのイスに、8人の人が座ります。
この時、多くの人は、その状況を、3D空間としてイメージすると思います。
「ダイニングに大きなテーブルがあって、8つのイスがあって、そのイスに、8人の人が座るのね」って。
でも、その3D空間というのは、実際には実在はしていません。
あるのは、8つのアートマンであり、それぞれ視点の違う、5感覚をともなう映像のようなものです。
その状況は、最初の曼荼羅の絵のようなものです。
どこに、実在する世界があるでしょうか?
もちろん、覚者といっても、体をもつ個人としては、この世界を3D空間として認識します。
でも、梵我一如としての視点からは、この世界は、曼荼羅のように感じられるんです。
最後に、バガヴァッド・ギーターから、クリシュナの、この言葉を引用したいと思います。
「私より高いものは他に何もない。アルジュナよ。この全世界は私につながれている。宝玉の群が糸につながれるように。」
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