「私は在る」という感覚は、自分自身が意識そのものであることを自覚することと、ほぼイコールと考えていいかもしれません。
(正確に言えば、意識がハートに気がついている状態ですが)
そして、そのことを自覚することは、一般的には、「悟り」と言われるかもしれません。
でも、正直な探求者であれば、「私は在る」を悟ったとしても、それで、探求が終わったようには感じないんじゃないでしょうか?
「いやいや、「私は在る」という感覚は分かったけど、だから何?」って思うかもしれません。
実際のところ、探求は終わりません。
今回は、その理由について、お話したいと思います。
「私は在る」は、浄化具であり、剣である。
バガヴァッド・ギーターには、こんな言葉があります。
「あたかも燃火が薪を灰にするように、知識の火はすべての行為(業)を灰にするのである。」(4・37)
「というのは、知識に等しい浄化具はこの世にないから。行為のヨーガにより成就した人は、やがて自ら、自己(アートマン)のうちにそれ(知識)を見出す。」(4・38)
「私は在る」を悟るということは、「知識」を見出すということです。
一般的な意味での知識というと、脳内に蓄積された、具体的な情報のことをイメージするかもしれません。
でも、真理の探求において、知識というのは、「私は在る」ということを悟ることです。
「私は、意識であり、ハートである」ということを、悟ることです。
脳内に、具体的な情報が得られずとも、それは知識なんです。
このことは、なかなか実感としては、理解しにくかったりするのですが、「私は在る」という感覚を理解するということは、知識を得たということであり、知識は、最高の「浄化具」です。
知識というのは、何かを浄化するためにあるんですね。
浄化という言葉がピンとこないのであれば、こんな言葉もあります。
「知識の剣により、無知から生じた、自己の心にある疑惑を断ち、行為のヨーガに依拠せよ。立ち上がれ、アルジュナ。」(4・42)
知識の「剣」と言っていますね。
つまりは、知識というのは、知ってそれで終わりというものではなく、利用するものなんです。
「私は在る」という感覚は、利用するものだということなんです。
「私は在る」を悟っても、残党狩りが残っている。
真理の探求を、合戦に例えてみます。
「私は在る」を悟るということは、敵の大将を討ち取ったということに似ています。
「私は、体を持った個人なんだ!」という認識を、討ち取った感じでしょうか。
その合戦には勝利したということです。
でも、合戦はそれで終わるでしょうか?
人類の歴史を見てみるならば、親族同士で戦いあうことは日常茶飯事です。
バガヴァッド・ギーターだって、親族同士での戦いのストーリーです。
(関連記事:バガヴァッド・ギーターを、わかりやすく解説)
大抵の場合、敵側の血族を滅ぼすまで、戦いは続きます。
敵大将を討ち取ったとしても、残党狩りが行われます。
日本の平家物語だって、源氏によって、平氏が滅ぼされてしまうストーリーです。
実は、真理の探求においても、それは同じなんです。
「私は在る」を悟ったとしても、残党狩りが残っているんですね。
人は、自分がどんな思い込みや認識を持っているのか、すべてを同時に自覚することはできません。
意識の中に、現れたときにしか、それを自覚することができないんです。
「私は、体を持った個人なんだ!」という大将は討ち取ったかもしれませんが、その親族はまだ、潜在的な存在として、相当数、生き残っています。
その中には、「世界は実在している!」という認識や、理想的な自分に関しての認識、理想的な世界に関しての認識などがあります。
おそらく、「私は在る」を悟ったとしても、理想的な自分や世界を目指すことは続くでしょう。
僕も、続きました。
「それの何が悪い?」って思うかもしれません。
もちろん、悪くはないのですが、それは、残党にやられてしまっている状態です。
大抵の場合には、苦しみが、そのことに気がつかせてくれます。
残党にやられている限り、理想と現実のギャップに苦しむことは続きます。
せっかく「私は在る」を悟ったのに、宝の持ち腐れになってしまっているんです。
もし、残党にやられてしまっていることに気がついたのであれば、ぜひ、「私は在る」を使ってください。
「私は在る」という浄化具、剣は、そういった認識(残党)を解体していくためのものです。
最後の残党は「あなた」です。
日常生活の中で、「私は在る」ことが多くなってくるならば、残党はどんどんと少なくなっていきます。
前回の記事「PNSE(継続的非記号体験)って何だ?【心理学的な悟り】」でも少しお話したのですが、思考の量が減り、感情の変化も少なくなり、記憶の重要度が低下していきます。
そして、ある時点で、「世界は実在している!」という認識が崩壊します。
それは、残党狩りの終わりを意味します。
悟りというのは、ジョークみたいなものと言われることがあります。
僕は、「私は在る」を悟ったときには、「全然、ジョークみたいに感じないじゃん」と思ったのですが、世界の実在性が崩壊したときには、「なるほど、確かにジョークみたいかも」と思いました。
アジャシャンティは、「天と地がひっくり返る」と表現していたと思います。
確かにその通りなんです。
そして、世界の実在性が崩壊するということは、本当の意味での、個人性の崩壊でもあります。
「「私は在る」を悟った時点で、個人性は崩壊しているんじゃないの?」と思うかもしれません。
実は、巧妙に、個人性は続いているんです。
「私は、体を持った個人なんだ!」という認識を討ち取った時に、自我(意志)は巧妙に、意識と一体化するからです。
(関連記事:「意志」と「意識」の違いとは?)
ここらへんは、非常に巧妙です。
基本的には、気がつけないと思っておいたほうがいいと思います。
それまでは、「私は、体だ!」と思っていたのに、実はそうではないということがバレそうになると、「私は、意識であり、意志だ!」というポジションにシームレスにシフトします。
自我(意志)というのは、実体がないゆえに、様々なものにシフト(一体化)することができます。
(関連記事:そもそも、自我ってどういうものなのか?【エゴとは?自我とは?】)
世界というのは、自我(意志)にとっての遊び場です。
自我(意志)にとっては、体との一体化が解けても、世界で遊ぶことができるなら、それでいいわけです。
そこには、なんらかの個人性の継続があるんじゃないでしょうか?
なんていうことはありません。
世界を実在たらしめているのは、自我(意志)なんです。
真理の探求において、最後の残党というのは、自我(意志)たる「あなた」自身ということになります。
(関連記事:「私は在る」をインスタントに悟る方法)