バクティは帰依、
ジニャーナは智慧と言われています。
具体的に言えば、
バクティとは神や師に自分を明け渡すこと、
ジニャーナは、自分の根源に向かうことです。
どっちのほうが真我実現しやすいかとかはなくて、
結局はどちらも必要なんじゃないかなと思います。
結局は、どちらも必要。
バクティとジニャーナ。
正反対のように感じると思います。
バクティは、神や師に自分を明け渡すということによって、
エゴや自我を消していこうとする方法です。
それに対して、ジニャーナは、
自分自身の根源を探求していこうとする方法です。
どう考えても、正反対のように感じます。
でも、どちらも、僕たちを真我実現へと向かわせてくれると思います。
そして、結局はバクティとジニャーナのどちらも必要だと思います。
神や師にバクティしても、真我実現しない?
神や師に自分を明け渡すことがバクティです。
その目的は、自分というものを無くすためです。
自我、エゴ、自由意志、
そういったものを無くすためなんですね。
バクティの道では、神や師の言葉は絶対です。
「これをやらなければいけない」という言葉があれば、
それをやらなければいけません。
「これをしてはいけない」という言葉があれば、
それをしてはいけません。
それに反対していたのではバクティにならないですもんね。
そうしていくことで、
自分の意志というものを無くしていきます。
でも、それで無我の境地にはなれるんでしょうか?
実は、最後に一つだけ、
自分の意志が残ります。
「神や師に自分を明け渡す」という意志です。
それが、真我実現を妨げてしまうんですね。
最後には、真我へのジニャーナが必要。
そこで必要になるのが、
ジニャーナです。
ジニャーナというのは、
観察対象を取り除いていく行為です。
観察できるということは、
自分から離れた存在だからです。
そうやって、自分ではないものを取り除いていくと、
最後には自分が残るんですね。
で、神や師に自分を明け渡すという意志を持った人が、
ジニャーナをするとどうなるでしょうか?
驚愕の事実に気がついてしまいます。
神や師を観察できてしまうんです。
つまりは、神や師は自分ではないということですね。
取り除かなければいけません。
そして、神や師という考えが取り除かれると、
結果として、
神や師に自分を明け渡すという意志も取り除かれます。
対象がなくなっているからです。
そうして、後に残るのが真我なんですね。
自分の根源にジニャーナしても、真我実現しない?
自分の根源を追求していくのがジニャーナです。
さきほども言った通り、
観察対象をどんどんと取り除いていきます。
頭の中にでてくる考えに気づき、
それに反応しないことで、
だんだんと頭の中の考えは少なくなってきます。
そして、次第に無心の状態になります。
バクティの場合のように、
神や師という考えが残るということはありません。
無心の状態、心地がいいものです。
それゆえに、観察者としての意識こそが
真我なんじゃないかという勘違いが起こることもあります。
確かに、観察者としての意識は至福感もともなうので、
そう思ってしまってもおかしくはないと思います。
でも、なにかモヤモヤとしたものが残るんです。
そして、あるとき、瞬間的に真我を体験するという現象が起こります。
そのときに気づくんです。
観察者としての意識は真我ではなく、
むしろ、真我で在ることを妨げていることにです。
最後には、真我へのバクティが必要。
そして必要になるのがバクティなんですね。
観察者としての意識を、
真我に明け渡しする必要があるんです。
真我の意志は絶対です。
観察者としての意識を明け渡すことで、
自分で心をコントロールするということはできなくなってしまいます。
明け渡したあとで人生がどうなってしまっても、
文句はいえません。
自分を捨てる必要があります。
そういった点で、バクティとジニャーナというのは
順番が違うだけで同じようなものであり、
どちらも必要なんじゃないかなと思います。
自分の性質に合った方を選ぶ。
あなたは、
どっちの方が向いていると思いましたか?
バクティは、
人と関わるのが好きな人、憧れの人がいる人、尊敬する人がいる人、
に向いているかもしれませんね。
信仰心の強い人とか、宗教に関わっている人とか。
一方、ジニャーナは、
ひとりでいるのが好きな人に向いているかもしれません。
というのも、ジニャーナというのは
ひたすら自分と向き合う方法だからです。
科学者や、職人タイプの人はこちらのほうが
向いているのかもしれません。
ちなみに、僕はジニャーナなのですが、
結局は、真我へバクティしてしまうんです。
完全なるバクティはなかなか難しいですが。
結局のところ、どちらも必要だということですね。
まとめ
というわけで、
バクティとジニャーナについてお話しました。
真我実現するためには、
どちらも必要だと思います。
違うのは、どっちが先かということなんじゃないかなと思います。
そして、それぞれ注意点もあります。
バクティの場合は、
師が本当に真我実現しているのかを、
明け渡しする段階では判断できないというところです。
大きな視点で見れば、
師が本当に真我実現しているかどうかは関係ないんですけどね。
だって、最後には師を捨てることになるんですから。
大事なのは、自分の意志です。
ジニャーナの場合は、
観察者としての意識が、
真我だと勘違いする可能性があるというところです。
でも、どちらにしても、
真我にたどり着くことは反対に避けられません。
どの道を行ってもいいのではないかなと思います。
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