「今すぐ苦しみを手放す方法【理想論】」という記事に対して、うちの妻から質問メールがあり、
前回「「理想」ではなく「思い込み」を手放す方がいいのでは?【妻からの質問】」という記事で、回答しました。
そしたら、なんと、またもやうちの妻から質問のメールがやってきました。
またもや読者を装った風の文体。。
いつもどおりの、下から上目線の文体でいいのに。。
まあ、これも十分に下から上目線かな。。
そんなわけで、このブログにてお答えします。
僕はフランクな文体で回答しますので、ご了承ください。
【妻からの質問】
直さん、回答ありがとうございます。
読ませいただいて、またちょっと、確認したいことが出てきちゃったのですが 聞いてもよいでしょうか?
「理想」と同じように「思考」「認識」「思い込み」もコントロールできない、 人間にとっていたって当たり前なこと。
というのは、そうですね、そう思いました。
一方で、 もう1人の自分が自分の中を観察していたりする場合、 そこにある、自分の「考え方」や「思い込み」って、観察している自分に気づかれるだけで、 けっこう消えていく場合が多いと思うのですが、どうでしょう?
「あ、こういう思い込みが自分を苦しめてたんだー」って気づくと、 楽になって、知らないうちに、この思い込みが無くなっていたりする。
思い込みという潜在意識が顕在化したおかげで、 無意識のときのように、わけわかんなく振り回されなくなり、 余裕が出てきて、ドツボにハマらなくなって、だんだん軽くなって、気づくと消えていた、みたいなケースです。
わたしが書いた、思い込みを「手離す」という意味は、 「手離そうとするコントロール」ではなく 「観察して、気づく→結果、手離されている」(手離されてない場合もあり) という感じの、上記のような意味です。
ちなみに、わたしは、そういう意味では、自分を意識して観察していくだけで、思い込みや感情に振り回されていた過去の自分に比べて、 だいぶ楽に(苦しくなく)生きられるようになったと感じてます。
これは、苦しみは同じように発生してきてるけど、 苦しみに飲み込まれているか、飲み込まれてないか、の違いかな、と思いますが、いかがでしょうか?
思い込みが消えたおかげで、 昔だと ムキになったり、 もう終わったと消沈するようなことだったり、 怯えまくって消耗しまくっていたようなことが、 今では、どーでもよくなっていたりすることがあります。
えっと、なので、 思い込みをコントロールするんじゃなくて ただ、自分を観察していくことで、もし思い込みに気づいたら、 それだけで楽になっていくんじゃないかな、と思ったのでした。
直さんの言う、 「理想」と「苦しみ」はセット。
そして、 苦しみを受け入れることによって、理想と共に苦しみが消えて無くなると。
で、平和がやってくる。
とは、 もちろんそうだと思います。
ただ、一方で、今、苦しんでいる人が、 苦しみから解放されて常に平和でいられる境地にいたいがために、 「苦しみから解放されるには 理想も捨てなくてはダメ」(←直さんはそうは言ってないですけど) というようなことを、追ってしまうのは、超絶愚かなことだと思ってしまいます。
おそらくきっと、自分は自分(自我)でないという意識状態になったときに、 〈苦しみを受け入れることによって、理想と共に苦しみが消えて無くなる。〉 ということが、 自然に、自動的に、自分の中で現象として起こってくるんじゃないかと思います。
どうでしょうか???
【回答】
まさかの、2回目の質問(笑)
まず、最初に明確にしておきたいことは、僕は、苦しみから逃れることを勧めているわけじゃないということなんだよ。
むしろ、進んで苦しんだほうがいいかもよ、というスタンス。
というのも、生きている限り、苦しみというのは無くなることはないから。
「常に平和でいられる境地」というのは幻想だよ。
ただ、苦しむことには終わりがあるし、飽きることができるということを知っているので、苦しみがやってくることを恐れてはいないというだけ。
苦しむことに飽きる、ということが大事なんだよ。
(関連記事:苦しみに飽きるための感じ方)
例えば、マトリックスでは、モーフィアスがネオに、「救世主として目覚めれば、弾丸を避けるまでもない(ニヤリ)」って言うじゃない。
弾丸っていうのは、例えば、過去の嫌な記憶とかね。
そういう、過去の嫌な記憶とかが、突発的に脳裏に思い出されたとしても、その記憶に飽きてしまってるなら、なんの影響もないでしょ?
まさしく、弾丸を避けるまでもない。
ネオが、弾丸を避けるまでもなく止めれるようになったのは、スミスに胸を銃弾で打たれて、一時的に死んだ後だったでしょ?
覚えてないかもしれないけど。。
苦しみを恐れる人が死ぬことによって、ネオは、救世主として復活するんだよ。
苦しみは避けるべきもの、無くすべきもの、って思ってると、この逆説は理解できないかもしれない。
確かに、自分を観察することで、自分が抱えている「思い込み」とか「考え方」に気がつくことで、苦しみが和らぐことはあると思うよ。
時間が苦しみを風化させるということもあるしね。
ただ、気づくだけで消えるような苦しみは、大した苦しみじゃないとも言えるんだよ。
だって、例えば、「死にたくない」と思っていることに気がついたとして、一体どうすればいいのか分からないでしょ?
(関連記事:死の恐怖は、どこからやってくるのか?)
まさしく、観察しているその人が、自身の消滅を恐れてるから。
以前、「瞑想をすると死の恐怖は消えるのか?」という記事を書いたんだけれども、瞑想をすると、死の恐怖って反対に強くなったりするんだよ。
はたまた、生きているうちは、自分の死というよりも、身近な人の死の方が怖いかもしれないね。
でも、どうすることもできないでしょ。
誰しもがいつかは死ぬし、去っていくかもしれない。
それをコントロールすることはできないし。
ちなみに、「今すぐ苦しみを手放す方法【理想論】」の記事の中では、僕はあえて瞑想の話を出さなかったんだよ。
だって、まさしく、今苦しんでいるという人に瞑想を勧めたなら、まさしく、その苦しみが瞑想対象になるでしょう。
観察者の意識は、その苦しみに釘付けになるでしょう。
それって、苦しみを受け入れることと同じじゃない?
もしかして、「意識をどこどこに向ければ苦しみが消えるよ」とかテクニック的なことを言う?
それは、余計苦しみを長引かせるだけだよ。
その苦しみを、孤独にさせるだけだよ。
もしかしたら、それは超絶愚かなことかもしれないよ。
本当の意味で、苦しみをどうにかしたいと思うのであれば、結局のところ、苦しみと対面するのがベストだよ。
「あえて苦しんだほうがいいだなんて酷い奴だ!」って思われるかもしれないけど。
もちろん、多くの人は僕と同じみたいに、苦しみを避けつづけて、最後には耐えられなくなって、ネオとスミスの最終決戦みたいになることが多いのかもしれない。
でも、苦しみを受け入れて、味わって、見守って、飽きて、苦しみは実在しなかったことを悟るしかないと思うんだよ。
飽きてしまったものには苦しめないから。
(関連記事:「苦しみ」と「退屈」を避けないこと)
ネオとスミスの最終決戦の後、マトリックスの世界が映し出される時、最初に映し出されるのは、インド人の小さな女の子の「サティ」なんだよ。
覚えてる?
いや、僕もうる覚えだけど。。
サティっていうのは「気づき」っていう意味。
ネオとスミスの最終決戦で、ネオとスミスは消えるんだけど、無くなったわけじゃないんだよ。
本来の自分に還っただけ。
それが、「サティ」。
理想と苦しみが消えても、気づきは残る。
サティがいるからこそ、オラクルもアーキテクトも世界も存在できるんだよ。
ちょっと斜め上から目線だけど、こんな感じでいかがでしょうか?