瞑想って、トータルで何時間ぐらいする必要があるんでしょうか?
瞑想を始めたてのうちは、あまり気にならないかもしれません。
でも、瞑想を続けていくうちに、「一体、これはいつまで続ければいいんだ?」とか疑問に思ったりします。
「トータルで何時間ぐらいやればいいんだ?」とか疑問に思ったりします。
特に、瞑想をすることの意味が、揺らいでいる時に、そう思うことが多いと思います。
一体、瞑想というのは、トータルで何時間ぐらいすればいいんでしょうか?
正解はありません
身もフタもありませんが、正解はありません。
というのも、個人差があまりにも大きいからです。
人によっては、瞑想不要という人もいるかもしれません。
極稀にですが、ラマナ・マハルシのように、瞑想をすることなく、真理を悟ってしまうという人もいます。
その反対に、一生瞑想を続けても、真理を悟ることができない人も、少なくないと思います。
となると、「もしかして、自分は、このまま瞑想を続けても、悟ることはできないのでは?」とか不安になったりもします。
「瞑想することに、意味なんてないのでは?」とか、不安になったりもします。
もちろん、僕も、そういった不安を感じたことがありました。
でも、「せめて1万時間ぐらいは続けないとだめかな?」とも思っていました。
「その道のプロになるには、1万時間の修行が必要だ」と言われることがあるからです。
例えば、プロ野球選手とか、弁護士とか。
まあ、こういったことを、真理の探求に当てはめるのはナンセンスなのですが、それぐらいは当然かなと思っていたわけです。
僕のトータルの瞑想時間は、おそらく500時間ほど
でも、実際のところは、僕のトータルの瞑想時間は、おそらく500時間ぐらいです。
これは、座っての、修行としての瞑想時間は、ということですけどね。
僕の瞑想は、ゴエンカ式のヴィパッサナー瞑想合宿10日間に参加するところから始まりました。
1日10時間を、10日続けるという瞑想合宿です。
結構有名なので、参加したことがあるという人もいると思います。
そこで、サマタ瞑想と、ヴィパッサナー瞑想の2つを教わりました。
でも、結局のところ、ヴィパッサナー瞑想は続きませんでした。
帰宅して、数週間は、朝と夜、30分とか1時間、ヴィパッサナー瞑想をしていました。
でも、気がついたら、サマタ瞑想ばっかりになっていました。
(関連記事:サマタ瞑想のもっともシンプルなやり方【止行】)
しかも、サマタ瞑想といっても、合宿で習った通りというわけではなく、呼吸に意識が向くこともあれば、眉間に意識が向くこともあれば、ハートに意識が向くこともありました。
明確に、「瞑想対象はここ!」ということを、僕はあまり決めませんでした。
なんとなく、思考やイメージを観察しやすいポジションをとる、という感じでしょうか。
トータル500時間のうち、350時間ぐらいは、この瞑想をしていたと思います。
1日1時間としても、1年ぐらいかかる計算ですね。
それぐらいだと思います。
そして、500時間のうち、100時間は、瞑想合宿でのものです。
残った50時間は、数週間は続けたヴィパッサナー瞑想と、マントラ瞑想です。
僕は、1ヶ月間だけ、マントラ瞑想をしたことがあります。
シンプルな、「オーム」と唱える瞑想です。
日常生活の中で、身体的な変化が現れました。
頭を、内側から押されているような感覚が続きました。
まばたきをした瞬間に、目の前に青い光が見えるということが、ちょくちょく現れるようになりました。
背中から肩、頭にかけて、物理的に存在するかのように感じられる、さざ波のようなものを、感じることが数回ありました。
確かに、マントラ瞑想は、霊性の向上と関係しているようです。
でも、僕は、霊性の向上には、あまり興味をもつことができませんでした。
(関連記事:真理を悟るには、霊性を高めなければならない?)
なので、1ヶ月で止めてしまいました。
僕が実践してきた瞑想のほとんどは、サマタ瞑想です。
そして、ある時期に、思考の絶対量が、急激に減ってきたなという状態になりました。
瞑想をするまでもなく、瞑想状態に近いなという感覚です。
この状態が、瞑想修行のゴールです。
そして、僕は、座って瞑想することを止め、日常生活の中に、瞑想を持ち込むようになりました。
瞑想しない日があってもいいけど、続けること
ちなみに、僕は、明確に「1日、何時間瞑想する!」とか決めませんでした。
結構、気分で決めていました。
あまり、気が乗らない時には、「瞑想しない」という選択もしてきました。
10分だけ瞑想するという時もありました。
1時間、瞑想するということもありました。
2時間、瞑想することはありませんでした。
長くても、1時間ちょっとです。
瞑想修行において、大事なのは、続けることだと思います。
それは、瞑想に限らないですけどね。
「決められただけの時間、必ず瞑想する!」と決意することは、ある意味では、真理から遠ざかってしまう可能性があります。
極端な話、僕は、そんな意志を持つことはできません。
それは、ハートを縛ることであり、分離感を生み出す可能性があります。
なので、瞑想する時間は、気分で決めてもいいんです。
瞑想しない日があったっていいんです。
でも、瞑想することが不要になる、その日までは、瞑想を続けることは、重要だと思います。
(関連記事:瞑想は1回あたり何分間が最適か?【束縛に感じない程度】)
トータル時間は、瞑想的な日常生活で飛躍的に増えます
瞑想修行において、1回あたりの瞑想時間は、それほど長くなくてもいいんです。
というのも、瞑想的な日常生活が始まれば、瞑想のトータル時間は飛躍的に増えるからです。
さきほど、「その道のプロになるには、1万時間の修行が必要だ」と言われているというお話をしました。
それは、まんざら見当違いでもないんです。
それは、真理の探求においてもです。
むしろ、もっと時間が必要かもしれません。
僕は、今まで、トータル、約4万時間ほどの、瞑想的な日常生活を送ってきていると思います。
そして、悟りという現象が起きたのが、去年です。
言ってみれば、それだけの、圧倒的な瞑想時間が必要だったとも、言えるかもしれません。
赤ちゃんが生まれてから、自我が芽生えるまでに、約3年ほどかかります。
それと同じように、今まで蓄積してきた認識が、解体されるまでには、同じぐらいの時間が必要なのかもしれません。
記憶の重要性が、十分に下がるまでには、それだけの時間が必要なのかもしれません。
もし、これを、座っての瞑想で達成しようと思うのなら、気が遠くなるんじゃないでしょうか?
1日10時間でも、11年近くかかることになります。
ヴィパッサナー瞑想合宿10日間どころの話じゃありません。
そして、おそらく、それでは悟りという現象は起こらないでしょう。
なぜ、座ってなきゃいけないんでしょうか?
「座って、瞑想しなければならない!」という意志を握りしめるなら、悟りは起こりにくいでしょう。
多くの人は、瞑想と、日常生活を、ハッキリと区別していると思います。
日常生活の中に、瞑想を持ち込むだなんて、そんな気はサラサラないという人も、少なくないはずです。
もちろん、集中力を上げたり、願望実現するために、瞑想をしているという人は、それでいいんです。
でも、本気で、真理を悟りたいという人がいるのであれば、日常生活の中に、瞑想を持ち込む必要があります。
圧倒的な、瞑想時間を、確保するためには、そうすることが必要です。
ただ、慣れてしまえば、そこに、努力は不要です。
(関連記事:瞑想にゴール(目標・目的)はあるんでしょうか?)