今回は、ニサルガダッタ・マハラジの「意識に先立って」という本からいくつかの言葉を引用しながらお話したいと思います。
「意識に先立って」という本には、ニサルガダッタ・マハラジが死ぬ直前の1年間ぐらいの対話が収録されています。
ニサルガダッタ・マハラジは84歳で死んでいます。
その内容は、死を思わせるものも多く、世界に対しての願望のすべてが否定されているような雰囲気があります。
真理を悟るため以外の、無駄なことは話さないというような雰囲気があります。
ニサルガダッタ・マハラジの「アイ・アム・ザット」という本に比べると、グッとその内容はストイックです。
でも、だからこそ、本当に重要なことは何なのかが分かりやすいという側面があります。
僕自身、探求の目的は死の恐怖の克服だったので、「意識に先立って」という本は参考になりました。
というわけで、今回はこの本を参考に、ニサルガダッタ・マハラジが「死」について何を語っているのかをお話したいと思います。
ジニャーニにとっては、死は最大の幸福の瞬間だ
当然のことながら、ニサルガダッタ・マハラジは死を恐れてはいません。
死の瞬間について、このように語っています。
あなたが意識の中にいるとき、あなたは意識の性質を理解する。この意識は消滅しつつあり、知識のあることは消えつつあるが、絶対であるあなたに何も影響を与えることはない。それが死の瞬間だ。しかし、何が問題だろうか? 生命ー呼吸は肉体を離れ、「私は在る」は退却するが、「私は在る」は絶対へ行く最中だ。それは最大の瞬間、不死の最大の瞬間だ。「私は在るという性質」がそこにあって、その運動もそこにあった。そして私は、それが消滅することを観察する。死の瞬間に無知な者は非常に恐れ、奮闘する。しかしジニャーニにとっては、それは最大の幸福の瞬間だ
死は恐れるものどころか、最大の幸福の瞬間だと言います。
これは、多くの人にはにわかには信じ難いのではないかと思います。
「死への恐れは誰しもが持っているもので、避けられないもので、でも、その恐れを和らげることはできるのではないか?」と思う人はいるかもしれません。
真理の教えや宗教といったものは、その方法を提供しているのではないかと考える人もいるかもしれません。
でも、ニサルガダッタ・マハラジはそうは言いません。
真理の教えというのは、死の恐怖を和らげるというような中途半端なものではなくて、根本的に、死の恐怖の正体を明らかにするものです。
人が死を恐れるのは、死の正体をまったく理解できていないからです。
(関連記事:死の恐怖は、どこからやってくるのか?)
まず、意識は消滅します。
このことはニサルガダッタ・マハラジも明確に言っています。
「人は体ではなく、意識という存在である」と言われることがありますが、そうではないんです。
ニサルガダッタ・マハラジ自身、人の本質は意識にあると言うこともあると思います。
僕も、そう言うことがあります。
でも、自分自身は意識であると気づいたとしても、死の恐怖は消えはしません。
だって、意識は消滅するんです。
体という物質的なものを失う恐怖から、意識という非物質的なものを失う恐怖へと変わるだけなんです。
(関連記事:すべては意識(気づき)なのか? それともハートが存在するのか?)
死という現象は、物質的なものにも、非物質的なものにも影響します。
でも、唯一、「絶対」は影響されないとニサルガダッタ・マハラジは言います。
「絶対」という表現は、人によっては聞き慣れないかもしれません。
意識には気づいている意識と、気づいていない意識の2つがあると思っている人は、「絶対」というのは、気づいていない意識(顕現していない意識)のこと指していると思うかもしれません。
でも、そうじゃないんです。
質問者:顕現していない意識が絶対で、顕現した絶対が意識だと言うことは、正しいですか?
マハラジ:知的な曲芸をしても究極を理解することはできない。あなたは無限のものを限界のある知性に制限しようとしている。
顕現していない意識と、顕現した意識があるとイメージすることはできますが、顕現していない意識を確認したことがある人はいません。
意識は必ず、この現象世界と共に現れます。
それは、同一のものと言っても良いと思います。
なので、顕現していない意識があるとイメージすることは、逆説的には、現象世界を失うことを恐れているということであり、輪廻を期待しているという証拠でもあるんです。
そして、そのことが、死の恐怖を存続させ続けます。
いわゆる霊的探求者たちはブラフマンを欲しがっている
多くの人にとって、死という現象が問題になる理由について、ニサルガダッタ・マハラジはこう言っています。
あなたの存在性は最も微細で、同時にその中に粗大な質を隠しもっている。ベンガルボダイジュの種を取ってみなさい。それは非常に小さく、非常に微細だが、その内部にはすべての粗大な物質を内包している。あなたの存在性は最も微細でありながら、全宇宙を含んでいる。それは継続的過程だ。種はあらゆるものを含み、繰り返し、繰り返し、繰り返す。いわゆる霊的探求者たちはブラフマンを欲しがっている。しかし、どうするのかというと、彼が欲しがるままにブラフマンが起こるべきだと思っている。あなたは自分の概念に従って、ブラフマンを再創造したいと思っているのだ
いわゆる霊的探求者たちはブラフマンを欲しがっていると言います。
ここでいうブラフマンというのは、現象世界とも全宇宙とも言って良いと思います。
存在性の根源である「絶対」そのものではなくて、そこから、繰り返し、繰り返し、現れてくる現象世界の方に興味を持つ探求者が多いということですね。
そして、ただ現象世界が現れるだけじゃなくて、自分の思い通りに現象世界が現れるべきだと考える人が多いということでもあります。
今の、この不完全に思えるブラフマンは破壊されるべきであって、自分が思う、理想的なブラフマンとして再創造されるべきだということですね。
もし、人がそう思うなら、死を恐れるようになるのは当たり前とも言えます。
人によっては、「死後にはすべての人が「絶対」に還るのであって、生きているうちは現象世界を楽しんだほうが良いのでは?」とも思うかもしれません。
でも、そう思うその人は「絶対」から一時的な存在として創造されているのであり、死後には消滅します。
だからこそ、人は死の恐怖を感じるんです。
「死後には自分は「絶対」に還るんだ」と思うのは幻想です。
それは、目的地を下見したことがないツアーガイドが、想像で目的地を語るようなものです。
ツアーガイドは目的地にはたどり着けません。
だからこそ、生きているうちに、自分は一時的な存在として創造されているだけなんだということ、そして、「絶対」とは何かを確認することが大事になってくるんです。
存在したいという第一の願望さえも抜け落ちる
「意識に先立って」という本の中では「絶対」という言葉が多用されています。
なので、この本を読むときには「「絶対」って何だろう?」と想像しながら読むことになるのではないかと思います。
ただ、ニサルガダッタ・マハラジが「絶対」という言葉を使う時、それが何を意味するかは結構ブレていると思います。
僕からしても、「それって矛盾してるよね?」って感じる言い回しが結構あります。
例えば、ニサルガダッタ・マハラジは「絶対」を「それは視覚も不要の深い青の恵み深い状態だ」と表現していたりします。
にも関わらず、「絶対の状態では意識する人は誰もいないのだから、意識が存在しているかぎりはその状態に到達することはありえない」と言います。
「だったら、なんで深い青とかいう表現がでてくるの……」って思ったりします。
ここらへんは言葉のあやであり、実際のところは「絶対」というのは、意識が有ろうと無かろうが常にその背後に在るもののことです。
意識がここに有る時、「絶対」は「ハート」とも呼ばれるかもしれません。
(関連記事:真我探求を早く終わらせたいなら、まず、ハートを理解する)
ハートにとどまって、目を閉じて静かにしている時、まぶたの裏には深い青の色が見えるかもしれません(見える必要は無いですが)。
一般的には丹光と呼ばれるものだと思います。
(関連記事:真理を悟るには、霊性を高めなければならない?)
でも、意識がここに無ければ、当然のことながら深い青の色は見えません。
「絶対」は1つですが、語る視点が変わると、視点ごとに違うもののように感じられるかもしれません。
「絶対」を理解するための方法として、ニサルガダッタ・マハラジはこのように語っています。
幸福のまさに源泉はあなたの存在性だから、そこにいることだ。もしあなたがマーヤーの流れに関われば、みじめさがあることだろう。あなたはマーヤーの活動から喜びを得ようとしているが、これは存在性の産物なのだ。自分の存在性の中で静かにしていなさい。
あなたが真我を理解するという霊的道を追求するとき、すべての願望は抜け落ちる。存在したいという第一の願望でさえもだ。あなたがしばらくその存在性の中に安定していれば、その願望もまた抜け落ちることだろう。あなたは絶対の中にいるのだ。
存在性とは「私は在る」という感覚であり、もっと言うのであれば、意識としてハートに気がついている状態です。
ニサルガダッタ・マハラジは、その状態に安定しなさいと言います。
ニサルガダッタ・マハラジは「絶対」という言葉を使いますが、意識がここに無い時、「絶対」は認識されようがなく、真理の探求を行うことはできません。
真理の探求を行うことができるのは、ここに意識が有るときであって、その時、「絶対」の理解の入り口は「私は在る」という感覚です。
(関連記事:「私は在る」という感覚をインスタントに悟る方法)
それだけで良いんです。
ブラフマンを再創造しようとする必要はないんです。
ブラフマンから得られる喜びというのは、結局のところは「私は在る」という感覚によって創造されているのであり、「私は在る」の正体を知ることが、そのままブラフマンの正体を知ることにも繋がります。
死の恐怖というのは、自分がブラフマンから分離してしまうことへの恐れでもあります。
この現象世界から自分が消滅してしまうと思うからこそ、死を恐れます。
ブラフマンが提供してくれる喜びを失うかのように感じるから、死を恐れます。
でも、ブラフマンというのは「絶対」の中から一時的な存在として現れるものです。
自分だってそうです。
であるなら、「絶対」として在ることに何の恐れがあるでしょうか?
ブラフマンが提供できる喜びを、「絶対」が提供できないとでも思うでしょうか?
このことを確認することが、真理の探求です。
このことが確認できれば、最終的には、存在したいという第一の願望も抜け落ちることになります。
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