今回は、龍樹(ナーガールジュナ)の「中論」をわかりやすく解説したいと思います(中村元『龍樹』講談社学術文庫より)。
「中論」というのは、仏教の「空」の思想の解説書みたいなものです。
般若心経の「色即是空・空即是色」を論理的に解説したものとも言えると思います。
実のところ、「空」の思想がどんなものかを正確に理解している人は少ないのではないかと思います。
僕自身、「中論」を読むまでは、「空」の思想を誤解していました。
龍樹の「中論」は理解が非常に難しいです。
学者がブッダの教えを論理的に理解しようとしたら「中論」が出来上がりましたという雰囲気があります。
このブログを良く読んでいただいている方なら分かるかと思いますが、僕は龍樹の「空」の思想に批判的です。
その理由についても、あわせてお話していきたいと思います。
※今回は16000文字ほどの長文です。
ブッダの教えを「空」の思想に変えてしまった龍樹
ブッダの教えというのは、実践的なものです。
四諦(したい)を説いたと言われています。
四諦とは、こんな教えです。
- この世は苦しみである(苦)
- 苦しみには原因がある(集)
- 苦しみは滅することができる(滅)
- その方法は、苦しみを観察し、苦しみの原因を観察し、苦しみが滅するところを観察することである(道)
(関連記事:四諦の道諦とは本当に八正道のことなのか?)
ブッダは、四諦を実践してもらいたいがために、教えを説いて周っていたとも言うことができます。
ところが、龍樹は、そのブッダの教えを「空」の思想として論理的なものに変えてしまいました。
確かに、ブッダは「空」という言葉を使っています。
最古の仏典と呼ばれるスッタニパータにはこんな言葉があります。
(関連記事:スッタニパータは、本当にブッダの言葉か?)
つねによく気をつけ、自我に固執する見解をうち破って、世界を空なりと観ぜよ。そうすれば死を乗り越えることができるであろう。このように世界を観ずる人を、死の王は見ることがない(1119)
スッタニパータにでてくる「空」という言葉はこの1つだけです。
詳しい説明もありません。
それは、「空」というのは結果として理解できるものであって、論理的に理解することに意味はないからでしょう。
「世界は空なんだから、世界に執着しないこと」とも言っているようにも思えます。
でも、龍樹は四諦の実践よりも、「空」を論理的に理解することを重視してしまいました。
龍樹の「煙に巻く表現」をどう理解するか?
「中論」というのは、煙に巻く表現のオンパレードです。
例えばこうです。
まず、すでに去ったものは、去らない。また未だ去らないものも去らない。さらに〈すでに去ったもの〉と〈未だ去らないもの〉とを離れた〈現在去りつつあるもの〉も去らない(2.1)
こういった表現が続きます。
僕自身、最初に読んだときには意味不明でした。
「中論」を読むには、ちょっとした視点のコツが必要なんじゃないかと思います。
龍樹は、「縁起」を重要視します。
「空」の思想とは「縁起」のことだと言っても過言じゃありません。
「じゃあ、縁起って何よ?」ってなりますよね。
縁について詳しく調べていくと、とても複雑です。
混乱します。
なので、中論を読むときには単純に、縁とは、「気づく働き」のことだと思えば良いと思います。
「気づく働き」がすべての縁の元になるからです。
例えば、僕の右手の横にはスマホが置いてあります。
僕は、そのことに気がついています。
「気づく働き」と「眼球」に縁って、「スマホ」が起こっている状態です。
これが縁起です。
ここで大事なのは、「気づく働き」も「眼球」も「スマホ」も単独では存在していないということです。
あくまでも縁起(関係性)が起こっているだけであって、その中身には実体は無いというのが「空」の思想のベースです。
「太陽」と「海水」に縁って、「雲」が起こるのも縁起です。
でも、「太陽」と「海水」も単独で存在しているわけではなく、「気づく働き」と「眼球」に縁って、それぞれ起こります。
この世界はこういった縁起によってすべてつながっており、そのすべての縁は「気づく働き」から始まります。
この視点で、さきほどの文章を見てみます。
まず、すでに去ったものは、去らない。また未だ去らないものも去らない。さらに〈すでに去ったもの〉と〈未だ去らないもの〉とを離れた〈現在去りつつあるもの〉も去らない(2.1)
この文章には、3つの要素がでてきます。
「すでに去ったもの」「未だ去らないもの」「現在去りつつあるもの」の3つです。
龍樹は、これらの3つの状態は「去らない」と言います。
「なぜ、そんな意味不明な話をするのか?」と思うかもしれませんが、その疑問は一旦脇に置いてみてください。
一般的に考えれば、「現在去りつつあるもの」は去っていくように思えます。
また、「未だ去らないもの」も、いずれ去っていく可能性があるように思えます。
でも、すべてのものには実体はなく、縁起によって成り立っていると考えると、去っていくものは無いということになるんです。
例えば、目の前のスマホがすでに誰かによって持ち去られていて、ここに無い場合、スマホは去りようがないですよね。
すでに去ってしまったものが、さらに去るということはありません。
そもそも、縁起が起こっていない状態です。
「気づく働き」と「眼球」に縁って、「スマホ」が起こっていません。
次に、目の前のスマホが未だ去っていない場合、つまりは、目の前にスマホが有る場合、このスマホは去りません。
「気づく働き」と「眼球」に縁って、「スマホ」が起こっている状態です。
スマホは去りません。
とはいえ、「誰かがこのスマホを持ってどっかに行ってしまえばスマホは去ることになるよね?」って思いますよね。
その可能性を含んだものが、「現在去りつつあるもの」と表現されています。
誰かがスマホを持って去りつつあっても、スマホが見えているうちは、そのスマホはまだ去ってはいません。
「気づく働き」と「眼球」に縁って、「スマホ」は起こっています。
そして、スマホが視界から消えてしまった時、そのスマホは「すでに去ったもの」となり、すでに去ったものが、さらに去るということはありません。
詭弁のように感じられるのですが、スマホは去っていないんです。
スマホが有る状態から無い状態に変化した(去った)のではなく、「気づく働き」と「眼球」に縁って、「スマホ」が起こっている状態が、起こっていない状態になっただけだと龍樹は考えます。
これが、龍樹の基本的な考え方です。
この考え方がそのまま「空」の思想になります。
スマホは有るとも言えないし(縁起が起こってない場合には無い)、スマホは無いとも言えないし(縁起が起こっている場合にはスマホは有る)、スマホは有ったり、無かったりするとも言えない(スマホが有ったり無かったりと変化するのではなく、縁起(関係性)が起こったり起こっていなかったりするだけ)ということになります。
「空」とは何か?
一般的には、「空」とは、有ったり無かったりするものと考えられることが多いのではないかと思います。
テレビのディスプレイがよく例としてでてきますね。
テレビがオフの場合、ディスプレイには何も映りません。
オンの場合には、ディスプレイには映像が映ります。
それゆえに、ディスプレイは「空」みたいなものだと。
僕も、こういった表現を良く使うのですが、この表現は龍樹の言う「空」ではないんです。
(関連記事:「空(くう)」の意味、ものすごく分かりやすく解説)
龍樹は、「空」そのものにも実体は無いと言います。
つまりは、ディスプレイは存在していません。
有るとも言えないし(有の否定)、無いとも言えないし(無の否定)、有ったり無かったりするとも言えない(空の否定)というのが、龍樹の言う「空」の思想です。
「空」という実体があるという考え方を、龍樹は「空見」と呼んで否定しています。
「空」を主張しているわけではなく、何も主張していないというのが、龍樹の主張です。
「中論」の冒頭には、こんな文章がでてきます。
宇宙においては何ものも消滅することなく(不滅)、何ものもあらたに生ずることなく(不生)、何ものも終末あることなく(不断)、何ものも常恒であることなく(不常)、何ものもそれ自身と同一であることなく(不一義)、何ものもそれ自身において分かたれた別のものであることはなく(不意義)、何ものもわれらに向かって来ることもなく(不来)、われらから去ることもない(不出)、戯論(形而上学的論議)の消滅というめでたい縁起のことわりを説きたもうた仏を、もろもろの説法者のうちでの最も勝(すぐ)れた人として敬礼する
8つの「不」がでてくるので「八不」と呼んだりもするようです。
この中ででてくる「われらから去ることもない(不出)」というのは、さきほどのスマホの例で理解できると思います。
何ものも去るということは無く、去らないということも無く、去ったり去らないということも無い、ということです。
あくまでも縁起(関係性)が起こったり起こっていなかったりするだけということですね。
他の「不」についても、同じような考え方で理解していくことができます。
龍樹が見落としていること
龍樹の「空」の思想は、非常に論破しにくいです。
理屈的に言えば、論破することはできないと思います(その必要はないですが)。
というのも、龍樹は何も主張してはいないからです。
「空」を主張しているように見えながらも、同時に「空」を否定してもいます。
対論者からすれば、煙に巻かれているように感じるんじゃないかと思います。
ただ、龍樹の「空」の思想は、「縁起」をベースにしています。
そこに、龍樹が見落としていることがあります。
龍樹は、あらゆるものは縁起すること無しには存在することができないと言います。
例えば、「気づく働き」と「眼球」と「スマホ」の縁起(関係性)の場合、「気づく働き」が無ければ、「スマホ」と「眼球」は存在できません。
「スマホ」が無ければ、「眼球」は対象を失い、気づく働きはありません。
「眼球」が無い場合には、「スマホ」は認識されず、気づく働きはありません。
言ってみれば、単独で存在できるものは無いということです。
龍樹は、あらゆるものにこういった縁起の関係性が適用できるのであり、一切は「空」であると言います。
でも、本当にそうなんでしょうか?
龍樹は見落としているものがあるんじゃないかと思います。
それは、退屈の感覚です。
退屈の感覚は縁起するものなんでしょうか?
「気づく働き」と「何」に縁って、「退屈」は起こるんでしょうか?
「何」が存在しないゆえに、「退屈」が起こっているんじゃないでしょうか?
「中論」には、退屈についての記述はありません。
ただ、苦しみについては記述されているので、いくつか引用してみたいと思います。
苦しみは、〈自らによってつくられたものである〉、〈他によってつくられたものである〉、〈両者によってつくられたものである〉、〈無因である〉と、ある人々はそれぞれ主張する。しかるにその苦しみは結果として成立するというのは正しくない(12.1)
苦しみというのは、「私はなんてダメな人間なんだ……」という自分の思い込みによって起こったりします。
他人に悪口を言われることで起こったりします。
他人の冗談を真に受けてしまうというお互いの勘違いで起こったりします。
「なんか分からないけど虚しさを感じる……」というように原因無く起こることもあると思います。
でも、龍樹はそれは正しくないと言います。
もしも苦しみが自らつくられるものであるならば、しからば苦しみは、縁によって起こるのではない。何となればこの臨終の五つの構成要素(五蘊)に縁ってかの次の生涯の五つの構成要素(五蘊)が起こるのであるから(12.2)
龍樹によれば、縁起に縁らずに起こった苦しみは存在しません。
なので、苦しみは自らによって作り出されているとか、原因無く起こっているということを否定します。
龍樹は、苦しみの原因として五蘊(ごうん)を持ち出します。
五蘊というのは、肉体的・精神的な傾向とでも言えばいいでしょうか。
クセや煩悩みたいなものと言っても良いかもしれません。
「気づく働き」と「目の前の状況、記憶、イメージ」に縁って、「五蘊」が起こり、「気づく働き」と「五蘊」に縁って、「苦しみ」が起こるということですね。
ここでは、龍樹は輪廻を思わせる発言をしています。
「気づく働き」と「今世の五蘊」に縁って、「来世の五蘊」が起こっていると言います。
もしも苦しみが自分の個人存在(プドガラ)によってつくられるのであるならば、苦しみを自らつくるところのいずれの〈自分の個人存在〉が、苦しみを離れて、別に存在するのであろうか(12.4)
個人存在(プドガラ)というのは輪廻する実体のことであり、魂のことです。
龍樹は、輪廻する実体を否定しています。
もし、魂が苦しみを作り出しているのだとすれば、縁起の考え方から言えば、「気づく働き」と「魂」に縁って、「苦しみ」が起こっていることになります。
であるなら、魂が実在している限り、ずっと苦しみが起こることになります。
そんなことは、魂の実在を主張する人も望むところではないでしょう。
だとすると、魂には苦しみを作り出す魂と、そうではない(悟った)魂の2つが有ることになってしまいます。
もしくは、魂というのは変化するもの(可滅のもの)であるということになります。
であるなら、魂は実在しているとは言えないし、苦しみは自ら(魂)によってつくられるとは言えなくなります。
苦しみが自らつくられることが成立しないから、どこに他人によってつくられた苦しみが存在するであろうか。何となれば、他人がつくるところのその苦しみは、その人にとっては自らつくったものであるはずであるからである(12.7)
もし、苦しみが自分という実体によって作られるものではないのであれば、それは他人に対してだって言えるでしょう。
自分という実体が有ると思うからこそ、他人にも実体が有ると考えます。
他人に悪口を言われることで苦しみを感じるというのは、あくまでも、「気づく働き」と「悪口」に縁って、「五蘊」が起こり、「気づく働き」と「五蘊」に縁って、「苦しみ」が起こるということであって、他人という実体が苦しみを作り出しているというわけではないということですね。
もしも1人1人によってつくられた苦しみがあるならば、自他両者によってつくられた苦しみがあるであろう。しかし他人がつくったのでもなく自らつくったのでもない無原因の苦しみがどこにあろうか(12.9)
自分や他人によって苦しみが作られることが無いのであれば、自他両者によって作られる苦しみもないでしょう。
それゆえに、すべての苦しみは縁起によって起こっており、原因の無い苦しみは存在しないと龍樹は言います。
確かにそうかもしれません。
でも、退屈に対しても同じことが言えるんでしょうか?
龍樹に言わせれば、「気づく働き」と「五蘊(世界への執着)」に縁って、「退屈」は起こっているのかもしれません。
確かにそうです。
でも、世界への執着は何ゆえに起こっているんでしょうか?
龍樹は、「気づく働き」と「今世の五蘊」に縁って、「来世の五蘊」が起こっていると言います。
もし、そうなのであれば、「今世の五蘊」は「前世の五蘊」に縁って起こっているということになります。
だとするならば、無限ループです。
どこにも始まりは無く、どこにも終わりがありません。
であるなら、そもそもの五蘊(世界への執着)は原因無く起こったんじゃないでしょうか?
世界への執着に原因はあるのか?
執着について、龍樹は輪廻を例にこのように語っています。
「過去世において、われは有った」というこのことは成立しない。何となれば前の生涯において有ったものは、そのままこの我ではないからである(27.3)
確かに、過去世の時に有った体が、そのまま、この体ではないでしょう。
しかしながら、前の世にあったアートマンがいまのこの我となっているのであるというならば、執着のもと(個人存在を構成している5要素)がアートマンとは区別されてしまう。では、執着のもとを離れたそれとは異なったいかなるアートマンが汝に存するのであろうか(27.4)
龍樹はアートマンの存在を否定しています。
ここでは、アートマンとは魂のことだと考えればいいと思います。
すべての実在を否定しているので当然といえば当然です。
前世にあった五蘊は、縁起によって今世に起こっているのであり、アートマンという実体が持ち運んできたのでは無いと言います。
もっと言うなら、「あなたはアートマンという実在を信じているかもしれないけど、それは、縁起によって起こった五蘊(執着のもと)をアートマンだと勘違いしているだけだよ」ということですね。
「執着のもとを離れた別のアートマンは存在しない」ということが成立したならば、アートマンとは執着のもとであるということになる。では汝にとっては「アートマンは存在しない」ということになる(27.5)
もし、アートマンが魂のことを指すのであれば、僕もアートマンは存在しないと言います。
それは五蘊(執着のもと)と同じだと言います。
それに実体は無いと言います。
でも、アートマンは魂のことではないんです。
また執着のもとと異なる執着の主体なるものはありえない。何となれば、もしも両者が異なるならば、執着のもとをもたない主体なるものが認識されるはずである。しかし、そのようなものは認識されない(27.7)
龍樹は、縁起によって起こった五蘊とは別に、執着のもとを作り出すような主体(実体)は存在しないと言います。
すべては縁起によって起こっていると言います。
でもそれは、龍樹がそれを確認していないだけです。
執着のもと(五蘊)をもたない主体(アートマン)なるものは認識されます。
もし、龍樹が「空」の思想を絶対視していたのであれば、それを確認することはなかったでしょう。
だって、執着のもととなる五蘊というのは、縁起によって起こっているのであって実体の無いものです。
それを取り除こうとすることは馬鹿げているんじゃないでしょうか?
でも、本当に、執着のもと(五蘊)は、縁起によって起こっているんでしょうか?
「空」の思想は「縁起」に依存しています。
そして、「縁起」は「輪廻」という概念に依存しています。
前世の五蘊に縁って今世の五蘊が起きている言います。
でも結局のところ、龍樹は、縁起によって五蘊が起こっているということのきちんとした説明はできていません。
「気づく働き」と「前世の五蘊」に縁って、「今世の五蘊」が起こっているということをどうやって確認できるんでしょうか?
それはまさしく机上の空論です。
ニルヴァーナも「空」であって実在しないのか?
龍樹は、アートマンの実在を否定するとともに、ニルヴァーナの実在も否定しています(実際のところ、アートマンとニルヴァーナは同じものです)。
ニルヴァーナとは、四諦を実践した先にある、最終目的地という意味で使われます。
でも龍樹は、ニルヴァーナも「空」であると言います。
龍樹によるニルヴァーナの考察についてもいくつか引用してみます。
〔反対者いわく〕もしもこの一切のものが空であるならば、何ものかが生起することも無く、また消滅することも無いはずである。何ものを断ずるが故に、また何ものを滅するが故に、ニルヴァーナ(涅槃)が得られると考えるのか(25.1)
執着を滅した後に、ニルヴァーナが得られると考える人による龍樹への反論です。
もし、執着と呼ばれるものが「空」なのであれば、執着が滅せられるということはなく、ブッダの説いたニルヴァーナは得られないということなのではないかということですね。
まず、ニルヴァーナは有(存在するもの)ではない。もしもそうではなくて、ニルヴァーナが有であるならば、ニルヴァーナは老いて死するという特質をもっているということになってしまうであろう。何となれば、老いて死するという特質を離れては、有(存在するもの)は存在しないからである(25.4)
龍樹は、ニルヴァーナは実在するものではないと言います。
有(実在)は老いて死するという特質を持っていると言います。
つまりは、有(実在)は体と同じようなものであると考えているということですね。
なぜ、そう考えるんでしょうか?
ニルヴァーナを感じるのは体であって、ニルヴァーナは体に属すると考えているんでしょうか?
また、もしもニルヴァーナが有(存在するもの)であるならば、ニルヴァーナはどうして他のものに依らずに存するであろうか、しからばニルヴァーナは他のものに依って存することになる。何となればいかなる有も他のものに依らないでは存在しないからである(25.6)
この発言は、縁起が絶対であることが前提となっています。
でも、龍樹は五蘊(執着のもと)が縁起によって起こっていることをきちんとは説明することができていません。
前世や来世のことをどうやって確認するんでしょうか?
にも関わらず、輪廻そのものも「空」だと言います。
それは、順番があべこべです。
「空」の思想を成り立たせるために、輪廻も「空」である必要があるんでしょうか?
それとも、輪廻は「空」だと確認できるからこそ、「空」の思想も成り立つんでしょうか?
そのことがハッキリしないなら、「輪廻は有るとは言えず、輪廻は無いとは言えず、輪廻は有ったり無かったりするとも言えない」とも言うことができません。
つまりは、ニルヴァーナは「空」であるとも言えません。
またもしもニルヴァーナが無であるならば、どうしてそのニルヴァーナは他のものに依らないでありえようか。何となれば、他のものに依らないで存在する無は存在しないからである(25.8)
有のみならず、ニルヴァーナが無であることもあり得ないということですね。
龍樹にとって、ニルヴァーナとは「空」だからです。
もしも五蘊、個人存在を構成する五種の要素を取って、あるいは因縁に縁って生死往来する状態が、縁らず取らざるときは、これがニルヴァーナであると説かれる(25.9)
多くの人は、魂という実体があり、それによって生死往来すると考えています。
でも、魂という実体はないのであり、縁起が起こったり、起こっていなかったりするだけだと龍樹は言います。
その「空」の思想を理解することがニルヴァーナだと言います。
師(ブッダ)は生存と非生存とを捨て去ることを説いた。それ故に「ニルヴァーナは有に非ず、無に非ず」というのが正しい(25.10)
これは、龍樹がニルヴァーナとは体に属するものだと認識しているがゆえの言葉なのではないかと思います。
ニルヴァーナとは生存でも非生存でも「空」でもありません。
ここで、スッタニパータからブッダの言葉を引用してみます。
想いを知りつくして、激流を渡れ。聖者は所有したいという執着に汚されることなく、煩悩の矢を抜き去って、つとめ励んで行い、この世をもかの世をも望まない(779)
結果として、生存(この世)と非生存(かの世)を望まなくなるのであって、むしろ、大事なのは煩悩の矢を抜き去ることなんじゃないでしょうか?
中論に戻ります。
ニルヴァーナがどうして有と無との両者でありえようか。ニルヴァーナはつくられたものではないもの(無為)であるが、有と無とはつくられたもの(有為)であるからである(25.13)
ニルヴァーナは「有であり無である」と良く言われます。
そのことへの反論ですね。
龍樹によると、ニルヴァーナとは有でもなく、無でもなく、「空」です。
ニルヴァーナのうちに、どうして有と無の両者がありえようか。この両者は同一のところには存在しえない。それは光明と暗黒とが同一のところに存在しえないようなものである(25.14)
龍樹は「中論」の中で論理的な逆説を多用しているのですが、真理的な逆説を理解することはできていません。
ニルヴァーナは有であり無であると言われるのは、そこに真理的な逆説があるからです。
多くの人は退屈を避けています。
退屈とは世界と関わることが出来ないことであり、虚無感につながっているようにも感じられます。
「世界が無いなら、虚無感を感じるであろう」というのが多くの人の認識だと思います。
でも、実際のところは違うからこそ「ニルヴァーナは有であり無である」と言われるんです。
実際のところは世界の認識が無い時に、人はニルヴァーナ(有)を感じます。
これは、言葉では説明することができません。
実際に確認するしかありません。
「空」の思想を理解したって分からないんです。
それゆえに、ブッダは世界への執着を取り除くという実践的な教えを重視したのではないかと思います。
この真理的な逆説を、ブッダはこのように語っています。
スッタニパータから引用します。
他の人々が「安楽」であると称するものを、諸々の聖者は「苦しみ」であると言う。他の人々が「苦しみ」であると称するものを、諸々の聖者は「安楽」であると知る。解し難き真理を見よ。無智なる人々はここに迷っている(762)
真理は言葉では説明することができないと言われるのは、こういった真理的な逆説があるからです。
他の人々と、諸々の聖者は感じ方が真逆なんです。
退屈を「苦しみ」と感じる人に、退屈は「安楽」だといくら説明しても意味不明でしょう。
ブッダは方便なんて使っていない?
龍樹の「空」の思想は、論理的には筋が通っているようにも思えます。
真理的な逆説を突かなければ、なかなか反論もできないと思います。
なので、龍樹の「空」の思想に納得する人も少なくはなかったのかもしれません。
論理的な思考が得意な人にとっては、「空」の思想は理解できるものです。
ただ、そうなると、ブッダの教えと、龍樹の「空」の思想の間で、矛盾が生じることになるんです。
ブッダは四諦(したい)を説いたと言われています。
執着を取り除くための実践的な教えですね。
一方、「空」の思想では、あらゆるものに実体は無いと言います。
もちろん、執着にも実体は無いということになります。
なので、「実体の無い執着を取り除くことに何の意味があるのか?」ということになるんですね。
「というか、そんなことは不可能だよね?」ということですね。
この矛盾に対して、龍樹は「ブッダは「空」を理解できない人のために方便を使った」と言います。
方便というのは「ウソも方便」の方便ですね。
本当は「空」の思想を理解することが真理だけれども、それを理解できない人のために、執着を取り除くことでニルヴァーナを得ることができるという方便を使ったということですね。
実際のところはニルヴァーナという実体は無く、「空」の思想を理解させることがブッダの目的だったんだと龍樹は言います。
二つの真理(二諦(にたい))に依存して、もろもろのブッダは法(教え)を説いた。その二つの真理とは世俗の覆われた立場での真理と、究極の立場から見た真理とである。この二つの真理の区別を知らない人々は、ブッダの教えにおける深遠な真理を理解していないのである。世俗の表現に依存しないでは、究極の真理を説くことはできない。究極の真理に到達しないならば、ニルヴァーナを体得することはできない(24.8-10)
「空」の思想は多くの人には理解が難しく、そういった人のために、簡単に理解できる教え(方便)が必要だったということですね。
でも、本当にそうなんでしょうか?
もし、これが間違っているのであれば、龍樹はブッダの教えと真逆のことを説いたことになります。
どんな縁起でも、それをわれわれは空と説く。それは仮に設けられたものであって、それはすなわち中道である。何であろうと縁起して起こったのではないものは存在しないから、いかなる不空なるものも存在しない(24.18-19)
龍樹によると、縁起として起こったものではないものは存在しません。
そして、一切は「空」であるという真理を理解するなら、有ること、無いこと、有ったり無かったりすることに執着することもないから、それが中道であると言います。
もしもこの一切のものが空でないならば、何ものかの生起することも無いし、消滅することも無いであろう。そうして汝にとっては四つの真理が存在しないということになるであろう。縁起したのではない苦しみがどこにあろうか。無常は苦しみであると説かれている。それ〔無常性〕は自性を有するものには存在しないからである(24.20-21)
龍樹の盲点は、「一切のもの」と決めつけているところです。
ブッダが言うように、確かにこの世界は「空」です。
でも、この世界は「一切のもの」ではありません。
「空」と「不空」は同時に成り立ちます。
この世界は「空」であり、この世界を超えたものは「不空」です。
なぜ、龍樹はこの世界を超えたものを、この世界の中に当てはめようとするんでしょうか?
だからこそ、「空」か「不空」かという極端な考え方になります。
「空」と「不空」は同時に成り立つという方が中道なんじゃないでしょうか?
「退屈」という苦しみはどうやって縁起しているんでしょうか?
「気づく働き」と「世界への執着」に縁って、「退屈」は起こっているのかもしれません。
でも、世界への執着はどうやって縁起しているんでしょうか?
「気づく働き」と「過去世の五蘊」に縁って、「今世の五蘊(世界への執着)」が起こっているんでしょうか?
それはおかしいということには気がつかないのでしょうか?
「気づく働き」と「過去世の五蘊」に縁はありません。
それは単なるイメージです。
そのイメージは、「気づく働き」と「無明」に縁って起こっています。
言ってみれば、一切のものは「空」であるという認識は「無明」に依存しています。
一切のものは「空」であるのではなく、この世界は「空」であるというだけです。
それ自体として存在するものが、どうして再び生起するであろうか。それ故に〈空であること〉を排斥する人にとっては、苦しみの起こる原因(集諦(じったい))は存在しない(24.22)
それ自体として存在するもの(ニルヴァーナ)は、空たるこの世界に生起するということはありません。
でも、縁起の要素を一時的なものとして作り出します。
例えば、「世界への執着」のような要素です。
それは、この空たる世界の中では、縁起の1つの要素として機能します。
過去世とか関係がありません。
というか、確認しようがありません。
ただ、過去世と縁起しているとイメージすることができるだけです。
でも、「退屈」を感じることがあるなら、「気づく働き」と「世界への執着」に縁って起こっていることに気づくことができます。
「世界への執着」は縁起の1つの要素ではありますが、それ自体は縁起によって起こっているのではなく、唯一の実体たるニルヴァーナによって一時的に作り出されています。
でも、龍樹はこのことを認識できず、ニルヴァーナを世界の中に(縁起の中に)あるべき存在として認識しています。
確かに、「気づく働き」と「ニルヴァーナ」に縁っては、「退屈」が起こることはないでしょう。
それ自体として存在する苦しみが消滅することは、存在しない。汝はそれ自体を固執するから、苦しみの消滅(滅諦(めったい))を破壊する(24.23)
これも、龍樹がニルヴァーナが世界の中に存在すると思い込んでいることによります。
もし、ニルヴァーナが実体を持つもので、かつ、それが苦しみなのであるなら、苦しみが滅することはないでしょう。
苦と集と滅とが存在しないときに、苦しみを消滅させるものであるからとて、いかなる道がニルヴァーナを得させるであろうか(24.25)
「苦」と「集」と「滅」というのは、ブッダが説いた四諦(したい)のうちの最初の3つです。
この世界は苦しみである。
苦しみには原因がある。
苦しみは滅することができる。
という3つですね。
そして、4つめ、苦しみを観察し、苦しみの原因を観察し、苦しみが滅するところを観察することが「道」と呼ばれます。
でも、一切のものが「空」なのであれば、苦しみという実体は無いということであり、無いものを滅することはできません。
また、ニルヴァーナが世界の中で実在しているのだとすれば、ニルヴァーナが苦しみであるはずはなく、これまた無いものを滅することはできません。
言ってみれば、龍樹にとっては、苦しみを滅する「道」というのは幻想みたいなものであり、存在しません。
そして、ブッダがその「道」を説いたのは、方便であると龍樹は言います。
もしも苦しみがそれ自体として完全に熟知されないならば、それではどうしてそれを完全に熟知しうるであろうか。それ自体(自性、本体)は確立しているものであると伝えられているではないか(24.26)
もし、魂がそれだけで確立していて不変不滅なのであれば、魂が苦しみを持ち運ぶということは考えられません。
そして、魂がニルヴァーナなのだとすれば、苦しみは存在しえないでしょう。
確かに、ニルヴァーナを輪廻の主体たる魂のことだと考えるのであれば、「苦しみは成り立たない」という龍樹の主張には一理あります。
でもそれは、龍樹がニルヴァーナとはこの世界の中に存在するものだと勘違いしているからです。
空である道理を破壊する者にとっては、なすべきことは何もないことになるであろう。なすはたらきは起こされないであろう。そうして、行為主体は何もなさないでいることになるであろう(24.37)
これはある意味ではブッダの教えを否定しているとも言えるかもしれません。
ブッダは世界への執着を取り除くことを説きました。
その行きつく先は、なすべきことは何もない状態です。
とはいえ、ブッダは何もしなかったわけじゃありません。
むしろ、ものすごく行動的ですよね。
四諦を説いてインドをまわったわけですから。
それは、行為の止滅を説いたシャンカラだって同じです。
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ハートにとどまることを説いたラマナ・マハルシだって同じです。
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これは、矛盾するわけじゃないんです。
ブッダの体は、空たるこの世界に属しているわけで、縁起の影響を免れることはできません。
つまりは、行動しつづけます。
でも、ブッダという存在の源はニルヴァーナという実体です。
ニルヴァーナという実体は何もしません。
その矛盾を、龍樹は「ブッダは四諦という方便を使った」と説明しています。
でも、そうじゃないんです。
もしも不空であるならば、未だ得ざる者が得ることも、苦しみを絶滅させる行為も、一切の煩悩を断ずることも、存在しえない。この縁起を見るものは、すなわち苦、集、滅および道を見る(24.39-40)
もし、一切のものが「空」でないなら、不変不滅の実在(魂)が存在するのだとすれば、魂が無から有になることは考えられないし、不変不滅の存在が、苦しみや煩悩を内包していることは考えられないということですね。
でも、苦しみは認識されます。
つまりは逆説的に、魂という実体は存在せず、ただ、縁起だけが存在し、それは「空」であるということです。
すべては縁起で成り立っているということを理解すれば、四諦の「苦」「集」「滅」「道」も縁起によって成り立っているということを理解するだろうということですね。
ちなみに、「この縁起を見るものは、すなわち苦、集、滅および道を見る」という言葉は、ブッダの「この縁起を見るものは、すなわち法を見る」という言葉を書き換えたもののようです。
法(ダルマ)というのは、「すべてを支えるもの」という意味で使われます。
すべてを支える唯一の実在と言ってもいいと思います。
ニルヴァーナと同じ意味だと言ってもいいと思います。
龍樹が「法」を「苦、集、滅および道」に書き換えたのは、法という実体は存在しないと認識しているからでしょう。
そして、法という言葉はブッダによる方便だと認識しているからでしょう。
でも、そうではないんです。
「すべての縁起を確認していくなら、最後には縁起によって起こっているのではない法(ニルヴァーナ)を発見するだろう」とブッダは言っているんです。
それは、方便なんかじゃありません。
ブッダは瞑想することを推奨したのだと思います。
瞑想とは、意図的に退屈することと言ってもいいと思います。
仏教には三昧(ざんまい)という言葉があります。
サマーディとも呼ばれるものです。
ブッダの時代からあった言葉だと思います。
瞑想をしていると、最初のうちは退屈を感じることが多いですが、次第に、思考が収まり、根拠の無い至福感を感じることがあります。
それが三昧なのですが、三昧は縁起に縁って起こっているんでしょうか?
退屈の場合には、「気づく働き」と「世界への執着」に縁って起こっていると言うことができました。
でも、三昧の場合には、その原因が見つけられません。
世界への執着が消えているからこそ、三昧を感じると言うことができるのですが、それだと、「気づく働き」と「無」に縁って、「三昧」が起きているということになります。
「無」というのは、縁起の1つの要素として成り立つんでしょうか?
「気づく働き」と「無」に縁って、「スマホ」が起こるということはないでしょう。
「気づく働き」と「無」に縁るなら、「無」が起こるだけです。
つまりは、縁起は起こりません。
にも関わらず、「三昧」は起こっています。
であるなら、「三昧」というのは縁起に縁らずに起こっているものなんじゃないでしょうか?
「中論」の中では、このことについての記述はありません。
ただ、「三昧」がニルヴァーナであり、唯一存在する実在だとするならば、それが失われるように感じるのはおかしいわけで、龍樹は「三昧」を「空」であると結論づけるのではないかと思います。
五蘊(世界への執着)の縁起を、輪廻の概念を前提として成り立たせているように、なにかしらの縁起の理由を見つけることでしょう。
だからこそ、ブッダは「空」の思想を最重要なものとしては説かなかったのかもしれません。
あくまでも実践的な「四諦」の重要性を説いたのかもしれません。
ここで、スッタニパータからブッダの言葉を引用します。
安らぎ(ニルヴァーナ)は虚妄ならざるものである。諸々の聖者はそれを真理であると知る。かれらは実に真理をさとるが故に、快を貪ることなく平安に帰しているのである(758)
これは、ブッダによる方便なんでしょうか?
龍樹によれば「空」という実体は無いにも関わらず、ここではブッダは、ニルヴァーナは虚妄ならざるものであると言っています。
どちらが本当なんでしょうか?
それを、言葉で証明することはできません。
もし、証明可能であれば、ブッダがすでにそれをしていたはずです。
なぜ、ブッダは「空」の思想を自ら体系化することなく、「四諦」の重要性を説いたんでしょうか?
龍樹によれば、「空」の思想を理解することがニルヴァーナであり真理を悟ることです。
でも、その前に、四諦を実践することで、本当にすべては縁起によって成り立っているのかを確認してみてもいいかもしれません。
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