この世界は、他人とのコミュニケーションによって成り立っています。
他人に限らず、物とかもそうですね。
情報や、概念といったものもそうです。
この世界で生きている限り、他者、物、情報、概念といったものとの関わりは避けられず、そこには、コミュニケーションが発生します。
ただ、コミュニケーションには、もう1つのベクトルもあります。
それは、自分とのコミュニケーションです。
今回は、他人とのコミュニケーションと、自分とのコミュニケーションの違いについて、お話しようと思います。
他人とのコミュニケーションで、この世界は成り立っている。
人は、コミュニケーション無しに生きることができません。
生まれた時から、親とのコミュニケーションが始まります。
そして、近隣地域とのコミュニケーション、社会とのコミュニケーションと展開していきます。
現代においては、社会といえば、地球全体のことであり、インターネット、電話などを使えば、地球の裏側にいる人とも、コミュニケーションをとることができます。
スーパーに行けば、メキシコ産のアボカドを買うこともできます。
地球規模でのコミュニケーションがあるからこそ、そういったことが可能なんだと思います。
まあ、それが良いのか悪いのかは置いておいてですが。
人は、コミュニケーション無しには生きることができません。
でも、どれだけ、コミュニケーションに関心を持つのかは、人それぞれです。
他人とのコミュニケーションに、非常に大きな関心を持つ人もいると思います。
その一方で、他人とのコミュニケーションに、たいして関心を持たない人もいると思います。
そして、そこには、コミュニケーション能力も関わってきます。
生まれつき、コミュニケーション能力がとても高い人もいるでしょう。
一方、生まれつき、コミュニケーション能力が低い人もいると思います。
そういった差は、子どもの頃からも顕著に現れているんじゃないかと思います。
ちなみに、僕は、たいして他人とのコミュニケーションに関心を持てず、かつ、生まれつきのコミュニケーション能力も低いタイプです。
こういったタイプは、そもそも、他者への関心が低いので、コミュニケーション能力も向上しない傾向があります。
なぜ、人は生まれつきの能力が違うのか?
なぜ、人は、生まれつきの能力に差があるんでしょうか?
それは、コミュニケーション能力だけに限りませんよね。
それは、性格的なものもあると思います。
生まれつき、聖者のような性格を持つ人もいれば、生まれつき、暴力的な性格の人だっているでしょう。
思考パターンの差もあると思います。
あまりにも非現実的な思考パターンを持つ傾向があると、仕事に支障がでる可能性だってあります。
現実的な収支計算ができなければ、ビジネスをすることは難しいです。
スパッと物を捨てられる人もいれば、物をため込んでしまう人もいると思います。
例を上げればキリがありませんが、人それぞれ、生まれ持った特徴というのは違います。
おそらく、すべてに万能な状態で生まれてくる人はいないでしょう。
なので、人には、出来ることと、出来ないことがあります。
どう頑張っても、出来ないことというのはあるものです。
例えば、僕の場合には、政治家になることは不可能でしょう。
まぁ、なりたいとも思いませんが。。
とはいえ、生きていくには、多少なりとも他者とコミュニケーションをとっていかなければいけません。
でなければ、仕事になりません。
そこで僕がとった選択は、文章能力を高めることでした。
僕は、文章能力も、どちらかといえば苦手な方でした。
携帯メールは、基本、1行で済ますタイプの人間です。
今だって、そんなに上手ではないのですが、とりあえず、分かりやすく伝えるという技術は身についたかなとは思います。
これは、後天的に身につけた間接的なコミュニケーション技術といっても良いかも知れません。
もし、僕が生まれつき抜群のコミュニケーション能力を持っていたなら、こんな努力はしなかったでしょう。
このブログも書いていなかったかもしれません。
というより、書けなかったでしょう。
こんな風に、人は、最低限の努力をする必要はあるのかもしれません。
でも、必要以上の努力は、不要なのではないかと思っています。
人は、自分の理想を実現するために、大変な努力をしたりします。
場合によっては、自分が苦手なことを克服する努力をすることもあります。
僕も、したことがあります。
でも、大抵の場合には、そういった努力は上手くいきません。
「苦手だ!」ということが、「ちょっと苦手かな?」ぐらいになるだけでしょう。
それが大好きで、努力しているという感覚なく、それに没頭できる人には、まったく太刀打ちできません。
例えば、孫正義氏は、本当に、ビジネスが大好きなんだと思います。
「ちょっとお金儲けしたいな」というぐらいの人では、まったく太刀打ちできないでしょう。
探求の世界では、人の役に立ちたいと思っている人が、結構いるように思います。
それは、素晴らしいことです。
でも、人の役に立つって、一体どういうことなんでしょうか?
世界にインパクトを与えるぐらいのことをしたいのであれば、それなりの才能が必要になってきます。
もし、そうする運命なのであれば、生まれつき、そういった能力が備わって生まれてくるはずです。
もしくは、後天的に、能力を高めていけるはずです。
でも、そうではないなら、嫌々努力しているという感覚があるのなら、そうすることは、反対に、運命に逆らっていることなのかもしれません。
そこには、激しい分離感があるでしょう。
であるなら、他者とのコミュニケーションに向かう前に、自分とのコミュニケーションに向かう必要があるのかもしれません。
自分とのコミュニケーションには、能力は不要です。
自分とのコミュニケーションには、コミュニケーション能力は不要です。
その他の能力も不要です。
世界の中で、必要とされるあらゆる能力が不要です。
これは、素晴らしいことなんじゃないでしょうか。
世界の中では、出来ることと、出来ないことがあり、まるで、行動を制限されているかのように感じることもあります。
そこは、競争の世界です。
でも、自分とのコミュニケーションには、なんの制限もありません。
どんな人であっても、自分とのコミュニケーションを、楽しむことができます。
ただ、静かにしていればいいだけですから。
人によっては、その、「静かにしている」ことができないかもしれません。
その場合には、多少の努力が必要です。
僕も、その努力をしました。
でも、この努力は、必ず報われるタイプのものです。
ここには競争が無いからです。
「誰の方がより静かだ」とか、そういったことがありません。
誰しもが、努力をするなら、段々と思考が収まってきて、無心でいられる時間が長くなっていきます。
それが、自分とのコミュニケーションです。
他者とのコミュニケーションとは、まったく別のベクトルですが、そこには平和があります。
そして、自分とコミュニケーションをとり続けるならば、ある時点で、コミュニケーションを超えます。
自分と自分の差がなくなり、「自分」そのものになります。
「私は在る」という状態です。
(関連記事:「私は在る」をインスタントに悟る方法)
そして、日常的に「私は在る」という状態でいることが多くなるなら、そして、神の恩寵が起こるのならば、本当の意味での悟りが起こります。
世界が実在しているという認識が崩壊します。
(関連記事:どうすれば「世界は実在している」という認識は崩壊するのか?)
もし、それでも世界の役に立つことをしたいと思うのであれば、それから世界に目を向けても、遅くはないかもしれません。
最後に、バガヴァッド・ギーターから、クリシュナのこの言葉を引用して終わりにしたいと思います。
「生まれつきの行為は、たとい欠陥があっても、捨てるべきでない。アルジュナよ。実に、すべての企ては欠陥に覆われているのだ。火が煙に覆われるように。」
(関連記事:バガヴァッド・ギーターを、わかりやすく解説)