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なぜ、聖者・覚者は超越的に振る舞うのか?

今回は、素朴な疑問系のお話をしようと思います。

聖者や覚者に会ってみたり、本を読んでみたり、動画を見てみたりして、「なんで、聖者や覚者は、超越的に振る舞うのだろうか?」って疑問に思ったことはありませんか?

僕はあります。

まあ、僕は本とか動画を見たことがあるだけですが、「超越的だなあ」と感じることが多いです。

もちろん、すべての聖者や覚者というわけじゃないのですが、そう感じることが多いです。

それって、一体、なぜなんでしょうか?

今回は、独断と偏見でお話しようと思います。

話を聞いてもらいたいからです。

最大の理由は、話を聞いてもらいたいからだと思います。

聖者や覚者といえど、真理についての話を、壁に向かってしゃべる人はいませんよね。

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おそらく。

そんなことをするなら、黙っていればいいんです。

覚者であれば、まず間違いなく、沈黙していることを好みます。

壁に向かって独り言のように真理を語るなんていうことはしないでしょう。

ラマナ・マハルシの初期の頃のように、人に話しかけられても、沈黙を保ち続ける覚者もいるはずです。

なので、どうせ話すなら、きちんと話を聞いてもらいたいわけです。

もちろん、覚者によって、どれくらい、話を聞いてもらいたいのかという度合いは違ってくるはずです。

世界中の人に、聞いてもらいたいと思う覚者もいるかもしれません。

一方、目の前の、この人にだけ、聞いてもらいたいと思う覚者もいるはずです。

そもそも、真理を悟ったからといって、真理を語る必要性なんていうのはないわけです。

それは、義務じゃありません。

それを義務だと思うのであれば、その人は、真理を悟ってなんていません。

真理を悟っても、なにも語らず、人生を終えていく人もいるはずです。

それで、問題はないわけです。

なので、聖者や覚者は、まず、話を聞いてもらうために、なんらかの工夫をします。

その手段のひとつが、超越的に振る舞うということです。

場合によっては、そこに、超能力が絡むこともあるかもしれません。

おそらく、その歴史は古いです。

ブッダだって、神通力(超能力)を使ったとされています。

関連記事:スッタニパータは、本当にブッダの言葉か?

ブッダは、弟子に対して、人前で神通力を使うことをたしなめていたようですが、初期の頃には、話を聞いてもらうために、自身が、超能力を使っていたのかもしれません。

イエス・キリストだって、超能力者ですよね。

盲目の人の目を、見えるようにしたり、水をワインに変えたり、大量のパンを作り出したり、湖の上を歩いたり、死者を生き返らせたり、自身を生き返らせたりしています。

そのしるし(超能力)を見て、イエスを信じる人も増えました。

近代においては、サティヤ・サイババでしょうか。

Wikipediaをみると、「奇跡(超能力)は「私」の名刺代わりである」と明言していたようです。

まさしく、話を聞いてもらうためのものですね。

サイババの影響力は、今においても、とても強いもののように感じられます。

確かに、超能力のインパクトは強力です。

自身を、超越的にみせるのに最適の方法でしょう。

ただ、サティヤ・サイババが言うように、超能力というのは名刺代わりのものです。

名刺そのものには、大した価値はないでしょう。

大事なのは、その人が何を語っているのかということであり、その内容を、しっかりと吟味することです。

「「私」とは何か?」というのが、大事なところです。

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真理と、超能力というのは、直接的にはなんの関係もありません。

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ただ、人は、「超能力が使えるということは、この人は真理を悟っているんだ!」という思考におちいりがちです。

そして、超能力を使う人は、そういう演出をしがちです。

なので、そこらへんは、少し、注意しておいたほうがいいかもしれません。

もちろん、「超能力に興味がある!」という場合はいいんですけどね。

超能力に興味がある場合には、むしろ、超能力が使える人のところに行くのは当然のことと言えます。

真理を悟るということは、超越的になるということじゃありません。

例え、超能力を使わなくても、聖者や覚者の中には、超越的に振る舞う人は多いです。

特に、インドの人は、その傾向が高いと思います。

ラマナ・マハルシも、超越的でしょう。

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ニサルガダッタ・マハラジも、超越的だと思います。

ラメッシ・バルセカールはバランス感覚がありそうですが、本を読む限りは、サットサンの間は超越的に振る舞っているようにも思えます。

関連記事:ラメッシ・バルセカールの言う「理解のトンボ返り」とは?

ラーマ・クリシュナも、超越的だと思います。

まあ、インドという土地柄、自然とそうなってしまうという部分はあるのかもしれません。

僕だって、今まで読んできた本の文体に、自分が影響を受けているなと感じることがあります。

それは、僕だけに限らないと思います。

特に、OSHOに影響を受けているんだろうなという人の文体は、すぐに分かりますよね。

聖者や覚者と言えども、環境からの影響は避けられません。

ただ、真理を悟るということは、超越的になるということじゃありません。

ここは、結構、勘違いしがちなのではないかと思います。

「真理を悟ったら、私もこんな風になるのかしら?」とか。

当然、僕も、「もしかしたら、そうなのかな?」と思ってはいましたが、そんなことはありません。

あくまでも、超越的に振る舞うのは、話を聞いてもらうための演出的な部分が大きいと思います。

ちなみに、僕の場合には、あえて、個人的な立場で、このブログを書くようにしています。

それは、真理を悟ったとしても、別に、超越的になるわけじゃないということのアピールでもあるかもしれません。

とはいえ、ブログを書くからには、探求者の方々に読んでもらわないことには、意味がないわけです。

個人的な立場で、真理を語っても、「こいつは、本当に真理を悟ってるのかよ?」って思われるのがオチです。

そこで、僕がとっている手段は、内容を、かなり具体的に書くということです。

僕は、それほど多くの本を読んできたというわけではないですが、本には書かれていないであろう内容を、なるべく書くようにしています。

もしくは、僕が本を読んでいて、いまいち分かりにくかった表現を、具体的にするようにしています。

良く本を読んでいる方ほど、このブログに書かれていることの独自性に気づいてもらえるのではないかと思います。

それが、良いのか悪いのかは分かりません。

良い影響も、悪い影響もあるでしょう。

「真理は言葉にすることはできない」と良く言われます。

確かに、熟睡中のことは、言葉にすることができません。

でも、この意識の中で、観照されたり、観察されたりすることについては、ある程度は言葉にすることができます。

僕は、このブログの中で、そういったことを、言語化するようにしています。

それが、僕にとっての超越性の演出ということになるかもしれません。

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作成者: 山家直生

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このブログに書かれていることは、基本的には、なぜ、苦しみと退屈を避けないほうがいいのかということの説明のためにあります。

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