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禅の十牛図をわかりやすく解説【悟りに至る段階】

今回は、禅の十牛図についてわかりやすく解説したいと思います。

十牛図というのは、悟りに至るまでの段階を10の図と詩にして表したものです。

もともと図は八つだったようなのですが、中国の禅僧・廓庵(かくあん)によって二つの図が追加され、十牛図になったようです。

廓庵については、正確な活動時期は確認できなかったのですが、おそらく、西暦1100年から1200年頃の人物ではないかと思います。

図はWikipediaから引用、詩は、『究極の旅 OSHO禅の十牛図を語る』という本から引用します。

※今回は、6000文字ほどの長文です。

【1】尋牛(じんぎゅう)

この世の草原に、私は牛を尋ね、果てしなく、高い草をかき分ける。名もない川に従い、遥かな山々の入り組んだ路に迷う。力尽き元気も涸れ、求める牛は見つからない。聞こえるのはただ、夜の森に鳴く蝉(セミ)の声ばかり。

十牛図の解説では、牛とは「真の自己」または、「仏性(ぶっしょう)」のことだと言われることが多いかもしれません。

でも、それは違うのではないかと僕は思います。

というのも、十牛図を見ていけば分かるかと思いますが、牛は第七図で消えることになります。

第八図、第九図、第十図、では牛は出てきません。

それが「真の自己」であることは無いのではないかと思います。

僕は、牛とは心のことだと思っています。

勝手に現れる思考、そして、感情的なエネルギーのことだと思っています。

牛とは、「真の自己」に到達するために必要なエネルギーであり、乗り物のことです。

禅といえば、坐禅ですよね。

なにはともあれ坐って坐禅をします。

思考やイメージの無い、禅定の状態を保つことが当面の目標です。

そのための入り口として、自分の心を観察することから始めます。

第一図「尋牛」とは、その状態のことを表しているんじゃないでしょうか。

自分の心を観察するという手法を教えられ、「観察者」という視点を得た状態です。

(関連記事:瞑想とは思考との戦いである!【観察者=思考】

とはいえ、初心者の人が心を静かに保つことはとても難しいことなんじゃないかと思います。

坐禅をしても、思考やイメージがわき起こるのではないかと思います。

まさしく、夜の森に鳴く蝉(セミ)のごとくなんじゃないかと思います。

この段階では、自分自身が牛なのであり、牛を見つけることはできません。

【2】見跡(けんぜき)

川べりの木々の下に、私は足跡を発見する!かぐわしい草のもとにさえ、彼の足跡はある。人里離れた山奥深くにも、その足跡は見つかる。これらの足跡はもう、天を見上げる自分の鼻づらほどにも隠れてはいない。

牛の足跡を発見するとは、坐禅中に、自分が考え事に没頭していたことにハッと気づいたときのことを指します。

考え事に没頭している時は、自分自身が牛です。

牛として、ノソノソと様々なところを彷徨い歩いているわけです。

かぐわしい草のもと、人里離れた山奥、様々なところを彷徨い歩きます。

そのことにハッと気づくなら、自身が考え事に没頭していたことに気づくでしょう。

それは、自分自身の足跡です。

【3】見牛(けんぎゅう)

私は鶯(うぐいす)の歌を聞く、太陽は暖かく、風はやさしく、岸辺の柳は青々としている。ここに牛の隠れる余地はない!どこの画家に、あのどっしりとした頭や、堂々たる二本の角が描けよう?

坐禅を続けるなら、自覚なく思考に没頭することも少なくなってきます。

観察者として、思考が勝手に起こっていることに気がつけるようになってきます。

観察者としての自分を、ある程度は保てるようになってきます。

第一図では蝉(セミ)の鳴き声のように連続的にわき起こっていた思考も、鶯(うぐいす)の「ホーホケキョ」ぐらいの刹那的なものにおさまってきています。

自身が、牛として彷徨い歩くことも少なくなっているでしょう。

もはや、牛を見つけられないということはありません。

むしろ、力強い、牛の存在感をヒシヒシと感じられるようになってきています。

【4】得牛(とくぎゅう)

大変な苦闘の末、私は彼を取り押さえる、彼の偉大な意志と力は無尽蔵だ。雲海のかなたの高原に突進し、あるいは、不可侵の峡谷に立つ。

牛の存在を認識できるようになってから、ようやく、牛との対峙が始まります。

でも、それは一筋縄ではいきません。

この段階では、気を抜けば、いとも簡単に牛を見失います(自身が牛になってしまいます)。

牛がもつ感情エネルギーは強力です。

雲海のかなたの高原に突進するが如く、妄想にふけったりもします。

はたまた、不可侵の峡谷に立つが如く、苦しみ落ち込むこともあります。

その牛を取り押さえること(思考が発生して、その思考が消えるまで観察し続けること)は難しいことです。

【5】牧牛(ぼくぎゅう)

鞭と手綱は必要だ、さもないと、彼はどこか泥んこ道へそれかねない。よく手なづけられれば、彼も自然におとなしくなる。そうなれば、つながれなくとも、彼は主人に従う。

坐禅を続けるなら、簡単に牛を見失うこと(自身が牛になってしまうこと)は少なくなってきます。

牛が静かになるまで、観察できるようになってきます。

前の第四図「得牛」の時ほどには、気を張り詰める必要はなくなってきます。

牛も、海雲のかなたの高原に突進したり、不可侵の峡谷に立つことは少なくなってきます。

とはいえ、まだまだ牛は様々なところを彷徨い歩きます。

泥んこ道にそれていきます。

なので、鞭と手綱はまだ必要です。

海雲や峡谷に突進していかないように、手綱は必要です。

また、泥んこ道にそれたときには、鞭で打つ必要もあります。

泥んこ道というのは、牛を見失ってはいないけれども、牛が静かにならずに、延々とそこらへんをたむろしているような状態です。

とはいえ、坐禅を続けていれば、次第に、牛は静かになっていきます。

【6】騎牛帰家(きぎゅうきか)

牛に乗って、ゆっくりと私はわが家に向かって帰る。私の横笛の音は、夜のしじまに響きわたる。手拍子で脈打つハーモニーをうたい、私は無限のリズムを取る。この調べを聞いた者は、誰でも仲間にはいるだろう。

坐禅に熟達してくるならば、牛は、さらに静かになります。

それこそ、牛に乗れるようになるほどにです。

でも、牛に乗るっていうのはどういうことなんでしょうか?

牛とは、勝手に現れる思考であり、感情的なエネルギーだと言いました。

牛が静かになるということは、思考が消えていて、感情的なエネルギーだけがここに在るということです。

牛に乗るということは、勝手に現れていた思考に変わり、観察者自身が、感情的なエネルギーをコントロールするようになるということです。

意志が向く方向に、感情的なエネルギーも向かいます。

人牛一体です。

坐禅であれば、人牛一体となって、禅定の状態を保つことです。

横笛の音とは、呼吸の音でしょう。

禅定の状態を保ち、ただ、呼吸のリズムだけがそこにある状態。

修行としての坐禅の目的地です。

シーンとした静けさと、呼吸のリズムがそこにはあります。

この状態に入っている人を見たなら、その姿に惹かれて、参禅したくなる人もいるかもしれません。

ちなみに、世の中には、坐禅することなく、この状態になっている人もいます。

意志が強いと言われている人は、自然とこの状態になっているはずです。

政治家、経営者、意志の強さが求められる人は、人牛一体となっているはずです。

意志が向く方向に、感情エネルギーも付き従います。

願望を実現させるために瞑想を利用する人にとっては、人牛一体のこの状態がゴールです。

でも、禅にはこの先があります。

(関連記事:十牛図はマインドフルネスの過程を表しているのか?

【7】忘牛存人(ぼうぎゅうぞんじん)

牛にまたがって、私はわが家にたどり着く。私は穏やかだ、牛も休むことができる。夜明けが、至福の休息のうちに訪れた。私の草屋の中で、私は鞭も手綱も捨ててしまった。

人牛一体であることに執着がある人は、ここまでたどり着けません。

この第七図「忘牛存人」で、牛は消える(休む)ことになります。

つまりは、感情的なエネルギーは消えることになります。

行為するエネルギーを失うことになります。

多くの人は、行為するためのエネルギーに執着しているのではないかと思います。

でも、「わが家」にたどり着けば、感情的なエネルギーは不要です。

というよりも、感情的なエネルギーがある限り、「わが家」にはたどり着くことができません。

感情的なエネルギーは、世界に対して喜怒哀楽の感情を示します。

それが、牛の性質です。

人牛一体となったとしても、牛にはその性質が残っています。

坐禅することに退屈を感じて、牛は彷徨いだそうとします。

(関連記事:「意志」と「意識」の違いとは?

そんな時は、鞭と手綱が必要になります。

でも、それは「わが家」にたどり着きつつあることのサインです。

退屈するエネルギーが消えた時に、人は「わが家」にたどり着きます。

そこには至福があります。

喜怒哀楽を求める感情、退屈から解放された至福がそこにはあります。

この第七図を見てみると、人は太陽に向かって手を合わせています。

太陽とは至福のことであって、「真の自己」であり、「仏性」です。

他の宗教でいえば、それはアートマンであり、アーナンダであり、ハートであり、聖霊です。

ラマナ・マハルシに言わせるなら、これは「私ー私」という状態です。

(関連記事:「私−私」と「私は在る」は違う意味なのか?【ラマナ・マハルシ】

禅ではこの状態を「見性」と呼ぶのではないかと思います。

このことを知れば、もう牛をコントロールするための鞭と手綱は必要なくなってしまいます。

【8】人牛倶忘(じんぎゅうぐぼう)

鞭、手綱、人、そして牛、すべてが無の中に溶け合う。この天の広大さには、どんなメッセージもかなわない。どうしてひとひらの雪片が荒れ狂う炎の中に存在できよう。ここに、祖師たちの足跡がある。

「真の自己」を知ってしまえば、人は、移り変わる喜怒哀楽の感情に執着することは少なくなってきます。

坐禅をするにも、人牛一体である必要はなくなります。

牛に乗るということは、「わが家」から離れるということであり、真の自己から離れるということと一緒です。

真の自己を知っている人が、わざわざ、そんなことをする必要はありません。

常に、真の自己を意識せずにはいられなくなります。

この第八図「人牛倶忘」は、十牛図の中でも最も印象的な図なんじゃないかと思います。

「空」を思い浮かべる人も多いかもしれません。

(関連記事:「空(くう)」の意味、ものすごく分かりやすく解説

でも、僕は、この図は「空」を表したものではなく「真の自己(仏性)」を表したものなんじゃないかと思います。

ブッダの言葉を使うなら「安らぎ(ニルヴァーナ)」でしょうか。

仏教というのはかなり複雑で、その思想は多岐に分かれています。

「空」の思想を説いた龍樹の時代(西暦100年頃)には「仏性」という言葉は無かったようです。

(関連記事:龍樹(ナーガールジュナ)の中論をわかりやすく解説【「空」の思想】

そして、有ったとしても、龍樹は「仏性」の存在を否定したはずです。

龍樹は、アートマンの存在を否定しています。

もしかしたら龍樹は、第七図「忘牛存人」の意味を理解できないかもしれません。

この第八図「人牛倶忘」は、第七図で描かれた、太陽のことを表しています。

この太陽の中に、鞭も、手綱も、人も、牛も、溶け合います。

それは、ひとひらの雪片が、荒れ狂う炎の中で存在できないのと同じです。

人と太陽という二元性はないのであり、この太陽だけが実在であるという直感的な理解が起こった状態です。

(関連記事:すべては意識(気づき)なのか? それともハートが存在するのか?

禅では、この理解が「大悟」と呼ばれるのではないかと思います。

もともとの牛図では、この第八図で終わっています。

実際のところ、禅の修行はここで終わりです。

廓庵(かくあん)はさらに二つの牛図を付け足していますが、それは、さらに先の段階があるというものではありません。

言ってみれば、大悟した後に訪れる、自然発生的なエピローグを付け足したようなものです。

【9】返本還源(へんぽんげんげん)

根源に還るために、あまりにも多くのステップが踏まれすぎた。はじめから、目も耳もきかなかったほうがよかったのに!自分の真の住み家にいて、外のことにはかかわりなし。川は穏やかに流れゆき、花は赤く色づいている。

真の自己を悟ったとしても、人生は続きます。

目の前には川があり、木が生えていて、花が咲いています。

ただ、それに対して牛は彷徨いだしません。

感情を求めて、外に彷徨いだすのは自分自身を分離させることだと理解しているからです。

自分が居るべき場所は「真の住み家」であって、そこから外に出る必要はないんです。

無知ゆえに、牛として外に彷徨いだし、帰り道を忘れてしまいました。

その結果、「真の住み家」に帰るのに、大変な苦労をすることになりました。

であるならば、最初から目が見えず、耳も聞こえなかったほうが、簡単に帰ることができたのかもしれません。

5感覚に反応することがなければ、「真の住み家」を離れることもなかったでしょう。

この第九図「返本還源」こそ、「空」を表しているのではないかと思います。

目の前に世界は現れているにも関わらず、それは「空」であるということを理解している状態です。

(関連記事:「私の中に世界がある」ってどういうこと?

【10】入鄽垂手(にってんすいしゅ)

足は裸足で、胸ははだけ、私は世間の人々と交わる。服はぼろぼろで埃まみれでも、私はつねに至福に満ちている。自分の寿命を延ばす魔術など用いない。いまや、私の目の前で、樹々は息を吹き返す。

世界は「空」とはいえ、ここに自分の体があるように感じられるし、心もあるように感じられます。

感情だって感じます。

この状態で、「私は「空」であって実在しない」と言うことは、反対に不自然でしょう。

とはいえ、以前のように、感情を求めて牛のごとく彷徨いだすことはありません。

求めているものは感情ではなく、真の自己であり、至福です。

そして、それは常にここに在ります。

であるなら、あるがままに、起こることに任せて生きるだけです。

もはや坐禅することに執着することもありません。

第十図「入鄽垂手(にってんすいしゅ)」とは、手ぶらで町に入るという意味だそうです。

手ぶらとは、鞭と手綱も持たないということです。

この段階に至っては、人も牛も、「真の住み家」にとどまることを好むようになっています。

向かうべき方向が無いのであれば、鞭と手綱は必要がありません。

大乗仏教には、人類の救済という名目があります。

なので、この第十図は、人類の救済のために活動することを表していると説明されることがあります。

でも、それは「入鄽垂手」という言葉の意味とは合いません。

「入鄽垂手」とは、そういった方向性すら捨てて、手ぶらで「空」たるこの世界に入るということです。

結果的に、人類の救済につながるかもしれません。

でも反対に、人に迷惑をかけることもあるかもしれません。

台風には、世界を自浄する側面と、破壊する側面があることと同じです。

時間には、物語を作りだす側面と、物語を終わらせる側面があることと同じです。

どちらにしても、鞭と手綱を持つ必要性を感じない状態。

それが、この第十図です。

真の自己はこの「空」たる世界を超えており、不生不死です。

であるなら、この「空」たる体の寿命を意図的に延ばすことに何か意味はあるでしょうか?

自身が牛として彷徨いだしていた時、その視野はとても狭いものでした。

食べられる草にしか気がつくことはできませんでした。

自身が観察者として牛と対峙していた時、牛をどう捕らえるかに気をとられて、その背景には気がつくことができませんでした。

でも、「真の住み家」に帰り着いた今、ありのままの「空」の世界に気がつくことができます。

ありのままの樹々に気がつくことができます。

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