僕はあまり、解脱という言葉を使いません。
でも「悟りと解脱はどう違うのか?」という人もいるかもしれないので、今回は、そのことについて、お話したいと思います。
ものすごく簡単に言ってしまえば、「解脱という概念自体が幻想だった」と気づいてしまうのが悟りです。
なので、悟りと解脱というのは、同じようなものと言うこともできます。
でも、悟りには、3つの側面があります。
悟りの1つの側面とか、2つの側面しか悟っていない場合には、解脱という幻想を見続けるかもしれません。
悟りには3つの側面がある。
悟りには、3つの側面があります。
このブログでは、そのことを良くお話していると思います。
「父と子と聖霊」
ヒンドゥー教(バラモン教)、仏教、キリスト教でも、悟りの3つの側面を、教えの核としています。
まあ、現場で、そのことを理解している人がどれだけいるのかというのは話が別ですが。
そして、世間では、これら3つの側面のうちの、どれか1つでも悟ったなら、それを「悟り」と呼ぶことが多いような気がしています。
ちなみに、僕の場合には、サット・チット・アーナンダの、アーナンダ(至福)を1番最初に悟りました。
悟ったというか、「なんか、根拠もなくいい気分だなあ」ぐらいにしか思ってはいませんでしたが。
それが、悟りの1つの側面であるということの、自覚がまったくありませんでした。
なにしろ、その頃には、まだ、僕の真理の探求は始まってはいなかったからです。
アーナンダというのは、苦しみと向き合うことによって悟られることが多いです。
刑務所の中で、アーナンダを悟る犯罪者がいたって、不思議じゃありません。
2番目に悟ったのはチット(意識)です。
自分は、この体ではなく、意識という存在だと悟ることですね。
この頃には、僕の真理の探求は始まっていました。
探求が始まる前から、アーナンダは理解していましたが、自分はこの体だと思っていましたし、この世界は実在していると思っていました。
「この体が自分じゃない?そんなバカな」
「この世界が幻想?そんなバカな」
って当然思っていました。
でも、瞑想をしたりすると、確かに、思考は勝手に湧き上がるわけです。
自分でコントロールできませんし、確かに、思考は自分ではないかもと気づいたりするわけです。
心臓の鼓動や、呼吸だって、自分でコントロールしているわけじゃないと気がつきます。
そして、ある時に気がつきます。
自分というのは、この体に限られるわけではなくて、この現象に、気がついている存在なんだということにです。
自分は意識なんだということですね。
世間的に言われている、「悟る」ということは、アーナンダ(至福)か、チット(意識)の、どちらかを悟ることを指していることが多いと思います。
どちらも悟っているという人は、実はそれほど多くない気がしています。
チット(意識)は悟っているけど、アーナンダ(至福)については、むしろ、「それは神秘体験の一種だ」と否定的になる人もいると思います。
そして、アーナンダ(至福)は悟っているけれども、チット(意識)は悟っていないという人もいるわけです。
どちらにしても、悟りの3つの側面のうちの、1つでも悟るのなら、「俺は、真理を悟ってしまったのだろうか?」と思う可能性があります。
なにしろ、世間的には、それは悟りだと言われていますし、「まだ悟っていないという思い込みが障害である」と言う覚者だっています。
であるなら、探求は終わったと思いたいですよね。
僕も、この言葉にはだいぶ惑わされました。
でも、僕は、探求が終わったようには思えませんでした。
アーナンダ(至福)とチット(意識)のどちらも悟ったとしてもです。
「いやいや、まだ真理を悟ったとは思えない!」
これが、僕の正直な思いでした。
そして、そう思えたことは、神の恩寵です。
解脱とは、3つの側面、全てを悟ること。
悟りの1つの側面に、サット(存在)というものがあります。
前回の、YSさんからのQ&Aの記事で、サット(存在)についてお話しました。
(関連記事:「存在」と「意識」の関係性について/存在、意識、至福【Q&A】)
サット(存在)というのは、悟りの1つの側面ですが、必ず、最後に悟るものです。
3番目に悟ります。
もし、アーナンダ(至福)も、チット(知識)も悟ることなく、サット(存在)を悟ったと思えるのなら、それは、なにかの勘違いです。
というのも、日常的に、アーナンダ(至福)とチット(意識)の状態にとどまることが多くなることによって、ようやく、サット(存在)を悟ることができるからです。
サット(存在)を悟るということは、この世界は実在しているわけじゃないということを悟ることです。
(関連記事:どうすれば「世界は実在している」という認識は崩壊するのか?)
あなたは、世界に実在していて欲しいでしょうか?
それとも、世界が実在していなくとも大丈夫でしょうか?
もし、世界が実在していないのなら、世界と関わることによって得られる喜びというのは、無くなることになるかもしれません。
それでも、いいでしょうか?
おそらく、多くの人は、世界に実在していて欲しいんじゃないでしょうか?
それゆえに、サット(存在)を悟ることは、困難なんです。
そして、それゆえに、アーナンダ(至福)を悟ることは必須です。
(関連記事:探求を早く終わらせたいなら、まず、ハートを理解する)
もし、世界の中に、喜びを見出そうとするのであれば、世界を失うわけにはいかないでしょう。
でも、喜びというのは、世界の中にではなくて、自分の中にあるということを悟っているのならどうでしょうか?
世界を失うことへの恐れは、段々と無くなっていきます。
それは、死の恐怖の克服にも繋がっていきます。
(関連記事:死の恐怖は、どこからやってくるのか?)
そして、最後には、世界を実在たらしめている、記憶を元にした認識が崩壊します。
それが、サット(存在)を悟るということであり、解脱です。
でも、一体、何からの解脱なんでしょうか?
輪廻の舞台となる世界は実在しないんです。