「悟るための方法は、存在しない」と言われることがあります。
悟ろうと努力することは、無意味だというニュアンスで、使われることが多いように思います。
その努力こそが、悟れない原因だと。
一方で、悟るための方法を、提示する人達もいます。
僕は、後者でしょう。
こういった、考え方の違いは、探求者にとっては死活問題なんじゃないでしょうか?
「一体、どうすればいいんだよ!」ということになるんじゃないでしょうか?
そこで、今回は、悟るための方法論の是非についてお話しようと思います。
そもそも、悟るってどういうことか?
こういった考え方の違いは、「そもそも、悟るってどういうことか?」という認識の違いにあると思います。
僕にとっての「悟り」というのは、死の恐怖の消滅でした。
プロフィールにも書いていますが、僕の探求の原動力は、死の恐怖の克服です。
探求の過程で、いくつか、大きな気づきを経験してきました。
でも、死の恐怖が無くなるまでは、探求が終わることはありませんでした。
人は、必ず死にます。
死の恐怖を克服したいという人が、途中で探求を止められるはずがないんです。
今では、人がなぜ、死を恐れるのかということを、明確に理解しています。
一方で、「私は存在しない」ということを理解することを「悟り」だと思っている人もいると思います。
「ハート」とは何かを理解することが「悟り」だと思っている人もいると思います。
「一瞥体験」をすることが「悟り」だと思っている人もいると思います。
「超能力」を身につけることが「悟り」だと思っている人もいると思います。
そもそも、「悟り」は存在しないという人もいると思います。
「悟り」と一口に言っても、それが何を指すのかは、色々あるわけです。
そうなると、悟るための方法論も、変わってくるんじゃないでしょうか?
一瞥体験をするための方法論は存在しないでしょう。
その中でも、特に、「一瞥体験」をするための方法論は存在しなくて当然だと思います。
一瞥体験というのは、その名の通り、一時的に、悟りの状態を体験することだと思います。
一瞥体験については、こんな記事「一瞥体験は必要でしょうか?それとも不要?」も書いています。
真理に興味がない人でも、突如として、一瞥体験をすることもあるようです。
そして、一瞥体験をした人は、一瞥体験を再現することはできないようです。
言ってみれば、一瞥体験というのは、偶然の産物ということですね。
であるなら、一瞥体験することを、悟ることと同じと定義づけるならば、悟るための方法論は存在しなくて当然です。
僕は、一瞥体験をしたことがないので、一瞥体験をすれば、満足できるのかは分かりません。
死の恐怖が消えるのかは分かりません。
でも、それが一時的なものだとするのなら、僕は、満足できなかったのではないかと思います。
でも、こういったことは、「悟り」に何を求めているのかということに比例すると思います。
もし、まさしく、一瞥体験することを求めている人が、一瞥体験をするのであれば、満足する可能性は高まるはずです。
そして、そのためにできる方法論は、存在しないのだと思います。
でも、真理を悟るための方法論は存在します。
でも、真理を悟るための方法論というのは、存在しています。
それは、古くは2500年以上前のヴェーダの時代から共通しています。
それは、ビックリするほど共通しています。
「ただ、静かであること」
これが、悟るための方法論のエッセンスです。
もちろん、人によって、表現の違いはあると思います。
例えば、ラマナ・マハルシは、「心をハートに沈めなさい」と言ったりします。
ニサルガダッタ・マハラジは「私は在るという感覚にしがみつきなさい」と言ったりします。
僕の場合は、もっと具体的に、「「苦しみ」と「退屈」を避けないこと」と言ったりします。
その方法は、あまりにも地味です。
なので、大抵の場合、探求者の心には刺さりません。
探求者は、もっと、具体的な、何か行為しているという感覚がともなうものを求めます。
なので、色々な方法論が考え出されます。
例えば、瞑想とか、マントラとか、ヨガとか、奉仕活動とかです。
でも、そういったものは、ひとつの過程であって、最終的には、「ただ、静かであること」に集約されていく必要があります。
ただ、僕も、スムーズに探求してきたわけじゃありません。
「本当にこれでいいのかな?」という疑問を抱きながらも、探求を続けてきました。
最後の最後まで、目隠しをされているような感覚は続くんです。
今では、自分が辿ってきた道を、ある程度、体系的に語ることができます。
でも、探求している最中には、そんなことは不可能です。
それは、悟り間近であってもそうです。
現在地すら認識できません。
そして、悟りが起こってから、ようやく納得できるんです。
「ただ、静かであること」というのは、絶対的に正しかったんだということにです。
人事を尽くして天命を待つ。
僕にとっての「悟り」というのは、死の恐怖の消滅です。
なので、死の恐怖を克服したいという人にとっては、「ただ、静かであること」という方法論は、とても有効だと思います。
ただ、だからといって、静かにしていれば、悟れるかどうかは、別問題です。
このことについては、この言葉がピッタリだと思います。
「人事を尽くして天命を待つ」
まさしく、これです。
人事を尽くさずして、天命を待つことは、あまりにも無謀でしょう。
もし、それで悟ることができるなら、今頃、多くの人が悟っているはずです。
そして、人事を尽くしすぎるのも、問題なんです。
「悟るには、神の恩寵が必要だ」と言われる所以です。
例えば、ひたすら、瞑想することは、ある意味では、真理から遠ざかる可能性があります。
「瞑想しなければならない」という意志が、邪魔になる可能性があります。
人事を尽くすというのは、自分がやるべき仕事を、どんどんと減らしていくということです。
例えば、散らかった部屋があるとします。
人事をつくすというのは、その部屋をキレイにするということです。
そして、部屋がキレイになったのであれば、後は、くつろいでいればいいんです。
もう、部屋がキレイになっているのに、「もっと床を磨かなきゃ!」とか思わなくていいんです。
「他の部屋もキレイにしよう!」とか思わなくていいんです。
「ここに、新しい絵を飾ろう!」とか思わなくていいんです。
散らかった部屋を、キレイにするのはひと仕事です。
でも、一旦、意識という部屋をキレイにしたのなら、後は、そのキレイさを保ちつつ、くつろいでいるだけでいいんです。
それが、「ただ、静かであること」です。
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