今回は、MNさんから頂いた質問メールを公開したいと思います。
MNさん、ありがとうございます。
MNさんからの質問
はじめまして、MNと申します。
二ヶ月ほど前にこちらのブログにご縁をいただき、以後、過去の記事なども読ませてもらいながら、勉強させていただいています。
今回はいくつかお聞きしたいことがあり、ご連絡させていただきました。
まず、私たちの本質についてなのですが、私たちの本質は、絶対無(唯一の真の実体である神)を構成している無数のアートマンで、そのアートマンが意識を通してそれぞれの世界を映し出している、との理解で間違っていないでしょうか。
次に、言葉の定義についてですが、山家さんのおっしゃる「私は在る」と「ハート」は、ユクテスワの言う「プルシャ」と「クタスタ・チャイタニヤ」あたりに相応すると考えてよいでしょうか。
(関連記事:聖なる科学/スリ・ユクテスワ)
また、観照者という場合、ヨーガではプルシャの段階を指すようですが、山家さんはどのあたりの段階をイメージしていらっしゃいますか。
最後に、『この世界のあとに幽界や観念界が続くわけでなく、「意識」の中で、この世界や幽界や観念界がシュミレーションされているだけです。そして、この意識を認識できるのは身体があるときだけで、体が死んでしまえば幽界や観念界はありません。』ということですが、スピリチュアルヒーリングで(本山博氏やダスカロスを参考にしています)幽界などで苦しんでいる霊を諭すなどして、相談者の心身の状態が劇的に改善したといった例がありますが、亡くなった方たちが幽界などに行くことなくストレートに神の中に還っていくとしたら、このような実例はどのように説明がつくのでしょうか。
「体が死んでしまえば幽界や観念界はありません」ということを、もう少し詳しく説明していただけないでしょうか。
(関連記事:真我実現した後にやるべきことはあるか?/ダルマメーガ・サマディ【Q&A】)
以上について、よろしくお願いいたします。
回答
MNさん
こんにちは。
ご質問ありがとうございます。
最初にご了承いただきたいのは、僕は空白JPで形而上学的なこともお話しているのですが、それを証明することはできないということなんです。
探求の世界には、二元論、非二元論、様々な考え方がありますが、そのすべての概念は証明不可能です。
> まず、私たちの本質についてなのですが、私たちの本質は、絶対無(唯一の真の実体である神)を構成している無数のアートマンで、そのアートマンが意識を通してそれぞれの世界を映し出している、との理解で間違っていないでしょうか。
こちらについても、そうとも言えますし、違うとも言えるんです。
確かに、絶対無が唯一の真の実体である神だろうなとは思っているのですが、それを知的に確認することはできません。
ただ、ハートがそれを確信しているというだけなんです。
(関連記事:「虚無(絶対無)」を唯一の「有」と見抜く)
無数のアートマンが存在するというのも、そうイメージできるだけであって、それを確認することはできません。
もしかしたら、アートマンはここにある1つだけかもしれません。
例えば、MNさんにも僕と同じように意識があって、それを通して世界を認識しているのだろうなと想像することはできます。
でも、それが本当かどうかは確認しようがありません。
二元論では、無数のアートマンが唯一の真の実体である神を構成していると考え、非二元論では、唯一ひとつのアートマンがそのまま唯一の真の実体である神だと考えます。
二元論は想像力を取り入れた概念で、非二元論は想像力を排した概念です。
僕は、どちらの概念も理解できますし、どちらかといえば非二元論を支持しますが、どちらも知的に証明することはできないんです。
(関連記事:なにが正しいのか、本当のところは確認できない)
> 次に、言葉の定義についてですが、山家さんのおっしゃる「私は在る」と「ハート」は、ユクテスワの言う「プルシャ」と「クタスタ・チャイタニヤ」あたりに相応すると考えてよいでしょうか。
> また、観照者という場合、ヨーガではプルシャの段階を指すようですが、山家さんはどのあたりの段階をイメージしていらっしゃいますか。
「ハート」と「クタスタ・チャイタニヤ(聖霊)」は同じものだと思います。
ただ、「プルシャ(魂)」については、そもそも非二元論では実在しないと考えます。
仮にプルシャが実在すると仮定するのであれば、「私は在る」と同等のものだと言うこともできます。
でも、その場合には、プラクリティ(現象世界)も「私は在る」と同等のものです。
観照者だって「私は在る」と同等のものです。
意識として、想像力を働かすことなく確認することができるのは、「私は在る」ということだけです。
(関連記事:「私は在る」をインスタントに悟る方法)
ただ、想像力を働かすのであれば、今認識できている意識の外側にも大いなる意識が広がっていて、その中に宇宙があり、魂がその中を時を超えて輪廻するとイメージすることができます。
でも、それを証明することはできないんです。
> スピリチュアルヒーリングで(本山博氏やダスカロスを参考にしています)幽界などで苦しんでいる霊を諭すなどして、相談者の心身の状態が劇的に改善したといった例がありますが、亡くなった方たちが幽界などに行くことなくストレートに神の中に還っていくとしたら、このような実例はどのように説明がつくのでしょうか。
こういったことは大いにあり得ると思います。
ちなみに、相談者の心身の状態が劇的に改善したのは、相談者が、幽界などでの出来事を知らされたからでしょうか?
それとも、相談者はそのことを知らされないままに心身の状態が改善したんでしょうか?
僕は、スピリチュアルヒーリングについてほとんど知らないのですが、もし、相談者がそのことを知らされたことによって心身の状態が改善したのであれば、必ずしも幽界の存在の証明にはならないのではないかと思います。
内面の変化で心身が改善するということは良くあります。
薬でも、プラシーボ効果というものがありますよね。
「これを飲むと病気が治るよ」と言われて単なる水を飲むと、病状が改善することがあるという現象です。
思い込みで治ってしまいます。
なので、もし、本当に幽界とこの世界に関係性があるということを証明しようとするなら、相談者に伝えないならどう変化するのかということも観察しなければいけません。
もし、それで相談者の心身が改善するのであれば、検証の余地もあると思います。
もちろん、幽界などの世界が存在すると確信している人にとっては、それは存在しているように感じられるはずです。
それが意識の働きです。
僕は、それを否定するつもりはないんです。
ただ、「その確信はどこからやってくるのか?」ということにも目を向けたほうがいいのではないかと思うだけなんです。
確信というのは感情的なエネルギーとも言えると思います。
例えば、僕は幽界をイメージすることはできますが、そこに感情的なエネルギーは発生しないので、そのことにリアリティを持てません。
なので、幽界は存在しているようには思えません。
一方、幽界が存在していると確信している人には、感情的なエネルギーが発生しているんじゃないかと思います。
でも、その感情的なエネルギーというのは、どこから発生しているんでしょうか?
幽界がその感情的なエネルギーを発生させているんでしょうか?
それとも、感情的なエネルギーが、幽界にリアリティを持たせているんでしょうか?
「鶏が先か?卵が先か?」的な構図がそこにはあるんです。
幽界での出来事が、人の心身に影響を与えると思うからこそ、人は幽界に興味を持つんじゃないかと思います。
世界での出来事が、自分の感情に影響を与えると思っているからこそ、人は世界に興味を持つんじゃないかと思います。
もし、そうなのであれば、人は世界や幽界を失うことを恐れるんじゃないかと思います。
感情を失うことを恐れるんじゃないかと思います。
MNさんは、感情を失ったらどうなるかを確かめたことはあるでしょうか?
感情を失うというのは、ネガティブな感情になるということじゃありません。
感情エネルギーそのものが消えた状態のことを言います。
イエス・キリストは、「神の王国は、あなたの内にある」と言っています。
それは、感情の内側に神の王国(聖霊)があるということなんです。
(関連記事:私は良い羊飼いである。良い羊飼いは羊のために命を捨てる。)
感情は外側の対象(世界や幽界など)に対して反応するため、常に移り変わります。
でも、ハート、クタスタ・チャイタニヤ(聖霊)は常に一定でここに在ります。
ハートにとどまるなら、世界や幽界などに対して、感情が満たされることを求めたりはしなくなります。
それが良い感情であれ、悪い感情であれ、それはハートを覆い隠すことになるからです。
ハートの至福、解放感、存在感を感じるのに、世界や幽界は必要がないんです。
そのことを理解するなら、結果として、世界や幽界などはリアリティを失っていきます。
それが非二元論の行き着く先なんです。
(関連記事:シャンカラ「ウパデーシャ・サーハスリー」【書籍の解説】)
> 「体が死んでしまえば幽界や観念界はありません」ということを、もう少し詳しく説明していただけないでしょうか。
生きている限りは、ここにハートがあり、意識があり、目の前の世界もあります。
でも、体が死んでしまい意識が消えるなら、目の前の世界も消え、ハートへの気づきも消えるでしょう。
熟睡中と同じです。
そこには何の認識もありません。
世界と呼べるものはありません。
とはいえ、当然、「自分が死んでも、世界や幽界は存在し続けるのでは?」と思われるんじゃないかと思います。
でも、それは起きていて意識がある時にしかそう思うことはできません。
あくまでもそうイメージできるというだけなんです。
熟睡中や、死後の状態を、自身が外側から確認することはできません。
ちなみに、熟睡中の状態がずっと続く、絶対無になってはいけないんでしょうか?
唯一の真の実体である神で在ってはいけないんでしょうか?
ここに、二元論の矛盾点があると思っています。
絶対無は唯一の真の実体である神と言いながら、その状態を恐れてはいないでしょうか?
死後も意識が継続することを願ってはいないでしょうか?
ハート、聖霊、アーナンダを求めるという目的自体は、二元論も非二元論も同じなんじゃないかと思います。
でも、方向性が真逆ですよね。
この世界、幽界、あらゆる目に見えない世界を認識、理解していった先に、ハート、聖霊、アーナンダがあるのだと考えるのが二元論なんじゃないかと思います。
そして、それが実現されるまで輪廻転生が繰り返されると考えると思います。
二元論の聖者・覚者と呼ばれる人で、目的に到達したという人はいないのではないかと思います。
スリ・ユクテスワですら、道の途中という視点で「聖なる科学」は書かれているんじゃないかと思います。
非二元論の視点から見れば、それは当然です。
幻想の中に真理を探そうとしているようなものだからです。
ハートというのは、気づきをともなった絶対無であって、常にここに在るものです。
ただ、人は絶対無を恐れます。
気づきをともなうこの世界の中では、それは退屈の感覚として感じられるものです。
退屈を避けて、この世界、幽界などの世界を探求してみても、ハートはきっと見つからないでしょう。
灯台下暗しです。
(関連記事:「苦しみ」と「退屈」を避けないこと)
もちろん、そういった探求の過程を楽しめるのであれば、二元論の思想を楽しむのもいいと思います。
僕は、そういったことを否定するつもりはないんです。
それは余計なお世話ですから。
ただ、その探求の過程が苦しみになるようであるのなら、二元論の思想を疑ってみることも大事なのではないかと思います。
「体が死んでしまえば幽界や観念界はありません」という言葉を違う切り口で言うならば、「死後どうなるのかは分からないけれども、熟睡中の絶対無がずっと続くとしても全然かまわないよ」ということでもあるかもしれません。
なので、形而上学的な概念の正しさを求めるのはあまり意味がないとも言えるんです。
それよりも、「なぜ、自分はそれを気にするのか?」という感情的な側面に注意を向けたほうがいいのかもしれません。