僕はこのブログで「苦しみと退屈を避けないこと」と言っています。
このブログのすべての記事は、なぜそうした方がいいのかの説明のためにあるとすら言っています。
そんなこともあって、このブログを良く読んでいただいている方には、そのことを良く理解してもらえているのではないかと思います。
ただ、どちらかというと、苦しみよりも退屈に注目されることの方が多いようです。
「退屈に飽きるってどういうことなんだよ?」と興味も湧きやすいのかもしれません。
もちろん、退屈という現象は真理の探求における核心だと僕は思っています。
ただ、ともすれば、「退屈に飽きるのならば苦しみそのものも消えるのでは?」と思われることも少なくないように感じています。
そういうわけじゃないんです。
僕が「苦しみ」と「退屈」の2つをあえて名指しするように使っているのは、退屈という苦しみが見落とされがちだからです。
退屈に飽きることは苦しみに対する処方箋にはなりません
退屈に飽きることによってすべてが解決するのであれば、僕はシンプルに「退屈を避けないこと」と言います。
でも、そうはならないんです。
退屈に飽きることは、苦しみに対する処方箋になるわけじゃないんです。
ひたすら瞑想することがすべての解決策になるわけじゃないのと似ています。
瞑想している最中には思考が静まって、苦しみを感じることはないかもしれません。
むしろ、なんとなく心地よい感覚を感じるかもしれません。
でも、瞑想を止めればまた思考が湧き上がって、苦しみを感じるということはよくあるんじゃないかと思います。
僕の苦しみについての認識は、ブッダの考え方に近いのではないかと思います。
ブッダは四諦を説いたと言われています。
こんな教えです。
この世は苦しみである、苦しみには原因がある、苦しみは滅することができる、その方法は正しい道を実践することである。
でも、「正しい道」って何なんでしょうか?
現代仏教は宗派によって「正しい道」の解釈が違っています。
正しい道とは、八正道を実践することだと言うところもあったり、坐禅をすることだと言うところもあったり、ヴィパッサナー瞑想をすることだと言うところもあったり、南無阿弥陀仏を唱えることだと言うところもあると思います。
でも、ブッダがあえてそんな大事なところをあやふやにしたりするでしょうか?
僕は四諦は四諦だけで成り立っているのではないかと思っています。
この世は苦しみである、苦しみには原因がある、苦しみは滅することができる、その方法は、苦しみを観察し、その原因を観察し、苦しみが滅するまで観察することである。
これが四諦の本質なのではないかと思います。
シンプルに観察するということが「正しい道」なのではないかと思います。
もし、八正道、坐禅、ヴィパッサナー瞑想、南無阿弥陀仏、護摩行などによって苦しみを滅することができると思うなら、苦しみの原因について明確には理解できないかもしれません。
それは間接的な方法だからです。
それゆえに、無自覚に苦しみの原因を作りだし続けてしまう可能性があります。
覚者が苦しみの原因を明確に理解しているのは、瞑想方法や戒律にとらわれずに苦しみそのものをよく観察してきているからです。
スッタニパータの中のブッダはこう言っています。
みずから誓戒をたもつ人は、想いに耽って、種々雑多なことをしようとする。しかし智慧ゆたかな人は、ヴェーダによって知り、真理を理解して、種々雑多なことをしようとしない。(792)
(関連記事:スッタニパータは、本当にブッダの言葉か?)
ブッダは仏教という宗教にだってとらわれていないのではないかと思います。
僕はブッダの四諦の教えには賛成です。
ブッダにとっては、退屈というのは苦しみに含まれるものなのではないかと思います。
でも、僕は、現代においては退屈を認識しない人も少なくないのではないかと思っています。
現代においては退屈を避けられる手段がたくさんあります。
社会全体が退屈を避けるために進化しているといってもいいぐらいです。
なので、僕は退屈ということをあえて独立させて「苦しみと退屈を避けないこと」と言うようにしています。
川で溺れているときに退屈するべきか?
多くの人は、人生に疑問を持った時、苦しみにさいなまれた時に、真理とは何かということを気にしだすのではないかと思います。
そして、ああするべきこうするべきという情報を得て、それを実践してみたりするわけです。
当然、その中のひとつに瞑想があります。
僕も瞑想することを推奨しています。
ただ、すべての人に瞑想が推奨できるわけでもないんです。
瞑想することの本質は退屈と向き合うことです。
(関連記事:OSHOの名言【退屈から逃れる道はない】)
でも、中には、瞑想することに苦しみが消えることを期待する人もいるかもしれません。
というよりも、そういう人は多いような気もしています。
それはどういうことなのかというと、川で溺れている最中に、退屈しようとしているようなものかもしれません。
それってちょっとおかしいですよね。
確かに、瞑想している最中には、苦しみを感じずに済むかもしれません。
でも、結局のところは川に溺れている最中なのであれば、瞑想を止めるといとも簡単に苦しみはやってきます。
「瞑想ってそんなものでしょ」と思う人もいるかもしれません。
でも、本質的にはまずは川から上がるべきなんじゃないでしょうか?
その後に川辺で瞑想を始めるのでも遅くはないんです。
そのためにも、苦しみの原因を理解するということは大事なことです。
もちろん、思考的には苦しみの原因は分かっていると思うかもしれません。
「社会が悪いんだ」
「あいつが悪いんだ」
「自分自身が不甲斐ないからだ」
「でもそれを変えられないんだ」
大抵の場合、それは表面的なものであって、根本的な苦しみの原因にはまったく気づけていないことがほとんどです。
実のところ、苦しみの原因というのは、イメージを現実であるかのように錯覚しているところにあります。
人が「社会が悪いんだ」と言う時、一体どの社会のことを指しているんでしょうか?
政治家はよく「国民の声」という言葉を使いますが、一体どの国民の声なんでしょうか?
僕なんかは「いやいや、僕はそんなこと思ってないけどな〜」と思うことも少なくないです。
「国民の声」という実体が国会議事堂に向かってデモ行進することもないでしょう。
多くの人は、自分で勝手にイメージをでっち上げて、そのイメージに対して勝手に感情的な反応を示しているんです。
逆説的に言えば、その感情的なエネルギーが、単なるイメージにリアリティを与えているとも言えます。
例えば、多くの人は、昔は気にしていたけど、今はまったく気にならないという記憶があると思います。
それはどういうことなのかといえば、その記憶がリアリティを失ってしまっているんです。
言ってみれば、ディスプレイ越しに記憶という映像を見ているようなものです。
でも、そこに感情的な反応が起こるなら、とたんにディスプレイが消えたかのように感じられます。
それが現実であるかのように感じられるんです。
でも、それは本質的には記憶でしかなく、記憶が実体を持ってあなたに危害を加えるということはありません。
あくまでも、感情的なエネルギーが、記憶と、その記憶を見ているあなたという関係性にリアリティを与えているだけなんです。
その構図に気がついてしまったなら、だんだんと苦しむことが難しくなってきます。
それは夢の中の出来事をずっと気にしているようなものだからです。
だからこそ、ブッダは四諦を説いたのではないかと思います。
苦しみ(感情)を観察し、苦しみの原因(イメージ)を観察し、苦しみが滅する(それがイメージでしかないことに気づいて飽きる)まで観察すればいいんです。
瞑想の場合には、感情とイメージを抑圧してしまう可能性もあり、反対に苦しみが大きくなってしまう可能性もあります。
なので僕は、もし、川に溺れている最中なのであれば、瞑想をする必要はないと思っています。
優先するべきはまずは川から上がることなのであって、その方法は瞑想ではなくて、単純にその苦しみを避けない(観察してみる)ことなのではないかと思います。
やりたいことも、苦しみも無いときに人は本当に退屈する
川から上ったなら、多くの人はその反動で人生を楽しみたいと思ったりします。
もちろん、それはいけないことじゃなくて、そう思えるのなら、ぜひ、そうするのがいいんです。
僕も、真理の探求を始める前は、人生を楽しみたいと思って仕事に没頭していた時期もありました。
ただ、中には人生を楽しめない人もいると思います。
川から上って苦しみは無くなったけれども、だからといって、やりたいこともない。
そんな人が本当に退屈します。
なんとなく、人生のパターンに気がついてしまっているんですね。
でも、だからといって、退屈は苦痛なわけです。
やりたいことも無い、苦しみも無い、でも、だからといって退屈したいわけではないということですね。
八方塞がりです。
僕が退屈を避けないほうがいいというのはそういった人に向けてです。
そういった人には瞑想することを勧めます。
その八方塞がりの突破口は退屈にしかないからです。
真理という言葉を使う人の中には、世界に意識を向けさせようとする人もいると思います。
「もっと世界を楽しんだほうがいいよ(世界が真理だから)」とか、はたまた、「世界がこんなに苦しみに満ちているんだから救わなければ(そうすることが真理につながる)」という人もいると思います。
もちろん、そいういったことにエネルギーが湧くなら良いと思います。
でも、そういった人は、八方塞がりに感じているその人を救うことはできないわけです。
退屈の正体を知らないんです。
逆説的に言えば、自身が退屈を避けているから、そういった方向性に向かうとも言えるんです。
一体、退屈とは何なんでしょうか?
退屈を避けようとしているその人は誰なんでしょうか?
私が存在しないなら退屈も存在しません。
その時、そこには何も無いんでしょうか?
それとも何かが在るんでしょうか?
僕が「退屈を避けないこと」と言うのはそのことを確認してもらいたいと思うからです。
(関連記事:苦しみに飽きるための感じ方)
(関連記事:「退屈を避けない」って一体どういうことなのか?)