今回は、シャンカラの「ウパデーシャ・サーハスリー」という本の解説をしてみようと思います。
シャンカラと言えば、西暦700年〜750年頃に活動した不二一元論(アドヴァイタ)の創始者です。
シャンカラには多くの著書があるようですが、日本においては岩波文庫の「ウパデーシャ・サーハスリー」がもっとも手に入りやすいのではないかと思います。
この本から、アドヴァイタとは何かということを紐解いていこうと思います。
※今回は15000文字ほどの長文です。
シャンカラによる全ウパニシャッドの解説書
「ウパデーシャ・サーハスリー」という本は、シャンカラが1000程の詩句で、全ウパニシャッドの精髄を説いたものになっています。
ウパニシャッドというのは、ヴェーダという書物群の最後を締めくくる、まとめみたいなものです。
そのウパニシャッドをさらにまとめたものが「ウパデーシャ・サーハスリー」ということですね。
精髄の中の精髄です。
シャンカラという人物は、何か独創的な思想を作り出したというわけでもないようです。
シャンカラは、どちらかと言うと保守的であり、伝統を重んじる人物だったようです。
不二一元論(アドヴァイタ)の創始者と言われていますが、ウパニシャッドに書かれていることをまとめると、不二一元論になるというだけなのかもしれません。
とはいえ、不二一元論は、それまでには無かった結論になったのだと思います。
それは、アドヴァイタ・ヴェーダーンタ学派の始まりとなり、現在まで続いています。
シャンカラ以前にも、一元論自体の考え方はあったはずです。
ウパニシャッド自体、梵我一如について語られているものです。
「梵(ブラフマン)と我(アートマン)は同一のものである」という考え方はされていたはずです。
ただ、梵我は完全に同一のものであるという考え方は、あまりされなかったのかもしれません。
梵我が完全に同一ということは、質も、量も、サイズも、完全に同一ということです。
ブラフマンがアートマンを含んでいるとか、そういうことがないということです。
それは、アートマンだけが唯一の実在だということになります。
当然、ブラフマンの中でアートマンが輪廻するということもあり得ません。
それが、シャンカラが全ウパニシャッドから導き出した結論です。
シャンカラが「ウパデーシャ・サーハスリー」の中で語っていることは、次の3つに要約されるのではないかと思います。
- アートマンとは何か?
- 誤って想定されたブラフマンは実在しない(サーンキヤ哲学への批判)
- アートマンと統覚機能(意志)は別物である(仏教への批判)
アートマンとは何か?
シャンカラにとって、大きな論点となるのはアートマンとは何かという部分です。
アートマンだけが実在なので、ブラフマンについては語る必要がありません(サーンキヤ哲学への批判としてブラフマンについても語りますが)。
「ウパデーシャ・サーハスリー」はこの詩句から始まっています。
「一切に偏在し、一切万有であり、一切の存在物の心臓のうちに宿り、一切の認識の対象を超越している、この一切を知る純粋精神(=アートマン)に敬礼する」(1・1)
この詩句を読む限り、アートマンとハートは無関係ではないようです。
心臓のうちに宿るものとはハートのことなんじゃないかと思います。
「輪廻の根源は無知であるから、その無知を捨てることが望ましい。それゆえに、ウパニシャッドにおいて、宇宙の根本原理ブラフマンの知識が述べられ始めたのである。その知識から至福(=解脱)が得られるであろう」(1・5)
シャンカラの不二一元論は輪廻からの解脱を目的としています。
(関連記事:悟りと解脱はどう違うのか?)
無知とは何かと言えば、アートマンとは何かを知らないことです。
ヴェーダという書物群は、前半部分はアートマンとブラフマンは別々のものであるという風に書かれています。
神々の描写もでてきます。
でも、本当はそうではないんだよということが、ヴェーダの最後を締めくくるウパニシャッドで語られます。
「知識のみが無知を滅することが出来る。行為は無知と矛盾しないから、無知を滅することが出来ない。無知を滅しなければ、貪欲と嫌悪を滅することは出来ないであろう」(1・6)
ウパニシャッドに限らずに、古典には「知識」という言葉が良くでてきます。
一般的な感覚で言えば、「知識」というのは記憶に刻まれる何らかの情報であるかのように感じるかもしれません。
でも、ここで使われる「知識」というのは、そういった情報のことではないんです。
古典で使われる「知識」というのは「私は在る」という状態のことです。
ラマナ・マハルシの言葉を使うなら「私ー私」という状態のことです。
(関連記事:「私−私」と「私は在る」は違う意味なのか?【ラマナ・マハルシ】)
それがアートマンなんだという理解が「知識」です。
「行為はブラフマンの知識と両立しない。行為はアートマンに関する誤った理解をともなっているからである。またブラフマンの知識とは、アートマンは不変であるという理解であると、ここウパニシャッドで述べられている」(1・12)
なんらかの行為を行う時には、行為する主体が発生します。
それは、心や意志と呼ばれるものです。
その行為主体をアートマンだとみなすことが、無知と呼ばれます。
アートマンは変化することがありません。
アートマンと、心や意志と呼ばれるものは、別のものなんです。
「知識は行為の要因を破壊する。正しい知識が砂漠に水があるという観念を破壊するように。この正しい見解を受け入れて、あえて行為をしようと決心するものがあろうか」(1・14)
多くの人は、行為をすることで感情的な満足感を得ようとします。
でも、その満足感は一時的なものなんじゃないでしょうか?
それは砂漠に水を探そうとするようなものかもしれません。
知識とはアートマンのことであり、アートマンはそれ自体で満たされています。
ハートはここにあり、それは、尽きることのない水源です。
そのことを知った人は、あえて、砂漠に出かけようとは思わないのではないかと思います。
「アートマンは否定できないものであるから、天啓聖典は、「そうではない。そうではない」(『ブリハッド・アーラニヤカ・ウパニシャッド』2・3・6)といって、アートマンを否定しないで残したのである。人は「私はこれではない。私はこれではない」というような仕方で、アートマンに到達する」(2・1)
「そうではない。そうではない」という言葉は、ブリハッド・アーラニヤカ・ウパニシャッドの中で、ヤージュニュヴァルキヤ仙が使う言葉です。
ただ、「そうではない。そうではない」と言って、アートマンにたどり着ける人は、すでにアートマンを知っている人でしょう。
例えば、「私は体だ」と思っている人は「私は体ではない」とは言えないはずです。
なので、「そうではない。そうではない」という言葉は、思考するために使うのではなく、思考そのものを「そうではない。そうではない」と否定するために使うのがいいのではないかと思います。
例えば、「本当に私は体なのか?」という思考がでてきたのであれば、それについて考え始めるのではなく、その思考そのものを「そうではない。そうではない」と言って否定するということです。
沈黙を保つために使うということですね。
「ちょうど『チャーンドーギヤ・ウパニシャッド』(6・14・1〜2)で目を覆われて、誰もいないところに残されたガンダーラの人が、道を尋ねながら森を超えてガンダーラ国に到達するように、人は憂いと混迷に汚された「これ」(=非アートマン)の森を超えて、自己のアートマンに到達する」(2・4)
人は5感覚を持っているがゆえに、この世界を認識しています。
体を認識しています。
でも、実際のところはアートマンに到達するために、5感覚は必要ないんです。
この詩句では目が見えなくてもアートマンに到達すると言っていますが、それは視覚だけに限らず、5感覚すべてが不要なんです。
現れる思考に気づけること、そして、その思考を「そうではない。そうではない」と否定すること、それだけでアートマンに到達します。
アドヴァイタでは「これ」を非アートマンとして否定します。
「これ」とは5感覚で認識されるものです。
世界のことだと言ってもいいかもしれません。
非二元論と呼ばれるものの中には、アドヴァイタの他に、ノンデュアリティ、ダイレクトパスと言ったものもあると思います。
でも、アドヴァイタはこれらとはまったく別のものです。
アドヴァイタでは、アートマンとブラフマンは2つではないと説きます。
「これ」は対象にしません。
一方、ノンデュアリティ、ダイレクトパスと言ったものは、「これ」を対象にしているのではないかと思います。
「これ」をアートマンとして扱っているのではないかと思います。
言ってみれば、世界はアートマンであるというのが、ノンデュアリティ、ダイレクトパスなんじゃないかと思います。
(関連記事:非二元論を超えて【アドヴァイタ・ノンデュアリティ】)
「聖者ウダンカは、ヴィシュヌ神が、武器を持ち恐ろしい形相の狩人に扮したインドラ神を介して甘露を与えようとしたが、それが狩人の尿の排泄器官から出ていたために、せっかくの甘露を尿ではないか、と考えて、甘露を受け取らなかったように(『マハー・バーラタ』アシュバメーダ章54)、人々は、行為が止滅することを恐れて、アートマンの知識を受け取らない」(5・1)
甘露とはハートのことです。
ただ、「甘露を得るには行為を止めなければならない」という教えも付いてきます。
「行為を止めなさい」というのは、多くの人にとっては、尿みたいに避けるべきもののように感じられるかもしれません。
でも、本当にそうかを確かめるなら、それは甘露だと気づくことになります。
でも多くの人はその逆をやるんじゃないかと思います。
キレイに演出された甘露であれば、多くの人は喜んで飲むのではないかと思います。
例えば、「あなたは世界を救うことができる」とか「あなたはより良い人間に進化できる」とかですね。
その時は、感情的な高揚感を得られるとしても、それは後日、苦しみに変化してしまうんじゃないでしょうか。
きめ細かく泡が立ち上る、冷えたシャンパンは美味しいですが、それは文字通り、最後には尿になることと同じです。
アートマンという甘露は、そもそも、この世界には属しておらず、そういった変化が起こりません。
「私(=アートマン)自身純粋精神を本性としている、おー意(=統覚機能)よ。私と味などとの結合は、お前の混迷に由来するものである。それゆえに、お前の努力によるいかなる結果も、私には属さない。私は一切の特殊性をもたないから」(8・1)
アートマンの甘露というのは、当然のことながら味覚ではありません。
人は何がアートマンであるかということを勘違いします。
その最たるものは、「私は体だ」ということでしょう。
でも、そういった考え方は、統覚機能の勘違いだとシャンカラは言います。
統覚機能というのは、簡単に言えば、コントロール欲を持つものです。
意識に方向性を持たせようとするものです。
意志や心と言ってもいいと思います。
体や、味覚などの感覚を、アートマンとみなすのは、意志や心の勘違いだと言います。
それは、アートマンに特殊性を持たせようとすることであり、アートマンを部分に限定しようとすることです。
「不二であるから、覚醒状態にあっても、熟睡状態にあるときのように、実際には二元を見ておりながら、二元を見ることなく、また同じく、実際には行為しながらも、行為しない人、その人がアートマンを知っているものであり、その他のなにものもそうではない。これがこのウパニシャッドの結論である」(10・13)
不二であるということは、生と死を超えることでもあります。
(関連記事:死の恐怖は、どこからやってくるのか?)
生と死には、気づきが有るか無いかの違いがあります。
生きて起きている時には、ここに気づきがあるので、世界を対象に行為をすることができます。
でも、自分がアートマンでありブラフマンだということを自覚している人は、わざわざ砂漠に水を求めたりはしません。
ここに在る尽きることのない水源にとどまりながら、砂漠の蜃気楼を眺めることはあるかもしれません。
水源地帯を散策することはあるかもしれません。
でも、わざわざ、水源地帯を離れてまで何かを得ようとすることはありません。
そして、この水源地帯にとどまるなら、そこに気づきが有ろうが無かろうがあまり関係がないんです。
人は、ベッドの中に入るなら安心して明かりを消しますよね。
でも、道端で真っ暗になるのなら恐怖を感じるんじゃないかと思います。
人は暗闇を恐れるがゆえに明かりを求めます。
でも、本当に大事なのは、自分がどこに居るべきかを知ることです。
尽きることのない水源を見つけて、そこにとどまることです。
そうすれば、暗闇と明かりの二元性を超えます。
「真実のアートマンを知っている者には、あの世に対する恐怖も、死に対する恐怖もない。かれにとっては、ブラフマー神(=梵天)やインドラ神(=帝釈天)を含む神々さえも、憐れむべきものである」(14・27)
アートマンとは何かを知らない限り、アートマンの中にとどまらない限り、道の途中であるという感覚は無くなりません。
誰も、道の途中で終わりたくなんてないはずです。
それゆえに、死後にも道が続くように想像します。
そう願います。
死後の世界を想像します。
生と死を超えた、神々の存在を想像したりします。
でも、アートマンの中から眺めるならば、神々の存在は、砂漠の水と同じです。
それは蜃気楼のようなものです。
本当に生と死を超えているのは、このアートマンだけです。
「縄が存在するために、蛇が縄と蛇とを識別する前には、存在するかのように見えるように、輪廻も、実在しないとはいえ、不変のアートマンが存在するために、存在するかのように見えるのである」(18・46)
ウパニシャッドには、縄と蛇の話が良くでてきます。
暗がりの中では、縄を蛇と間違えてビックリすることがあるよねという話です。
日本で言えば、柳の木を幽霊と間違える話と似ているでしょうか。
輪廻という概念も、その勘違いに似ているということですね。
不変のアートマンがここにあるがゆえに、「私」という存在の連続性がここにあります。
それを感じているがゆえに、アートマンによる認識対象にしかすぎない、心や意志といったもの(統覚機能)が、この体が死んでも輪廻して継続するのではないかと考えてしまうんですね。
でも、よく考えれば、多くの人は前世なんて覚えていないですし、例え、前世があったとしても、それは今のこの人格とは別もののように感じるはずです。
であるなら、来世があるとしても、それはきっと別人でしょう。
それゆえに、人は輪廻転生を想像しながらも、死への恐怖を感じるのでしょう。
「生と死の川の中に落ちたものは、知識以外の何ものによっても、そこから自分自身を救うことは出来ない」(15・52)
死への恐怖を取り除くには、この心や意志が輪廻するんだという勘違いを取り除くしかありません。
あくまでも、ここに不変のアートマンが在るだけなんだということを理解するしかありません。
そして、そのためには、「私は在る」という知識を得る必要があります。
「「この高いアートマンと低いアートマンが知られるとき、心臓の結節は解かれ、一切の疑惑は切り払われて、かれの行為は滅び去る」という天啓聖句(『ムンダカ・ウパニシャッド』2・2・8)があるから」(15・53)
低いアートマンというのは、体や心や意志のことを言います。
まるで、それが自分自身であるかのように感じられる存在ですね。
でも、実際のところは、高いアートマンだけが唯一のアートマンであって実在です。
「私は在る」という状態にとどまり、その違いに明確に気がつくのであれば、心臓の結節は解かれるだろうということですね。
(関連記事:「私は在る」をインスタントに悟る方法)
つまりは、ハートを理解するだろうということです(必ずしも、このタイミングでハートを理解するとは限らないですが)。
ハートとは尽きることのない水源のことであり、そこにとどまることを好むようになるなら、何かを求めて行為することは少なくなっていくはずです。
そして、それは解脱へと繋がっていきます。
誤って想定されたブラフマンは実在しない(サーンキヤ哲学への批判)
シャンカラは、アドヴァイタと対立する思想に対していくつかの批判をしています。
その主な矛先は仏教にあるのですが、同じくヴェーダに権威を認める思想である、サーンキヤ哲学に対してもいくつかの批判をしています。
サーンキヤ哲学は二元論であり、プルシャ(魂・アートマン)とプラクリティ(現象世界)はどちらも実在であるとしています。
シャンカラは、その矛盾を突いています。
「サーンキヤ学派の主張するように、唯一の根本物質プラクリティがその多数の純粋精神プルシャのために存在するとすれば(『サーンキヤ・カーリカー』17,31,56,57参照)、解脱した純粋精神プルシャと束縛されている純粋精神プルシャとの間に区別をつけることは、理に合わない」(16・47)
サーンキヤ学派は二元論ですが、不二一元論と同じく、目指すべきものは解脱ということになっています。
プラクリティ(現象世界)の中をプルシャ(魂)として輪廻転生を繰り返し、段々と解脱に近づいていくと考えます。
でも、その考え方だと、解脱したプルシャは消滅することになってしまうんじゃないかと思います。
仮に、すべてのプルシャが解脱したとなるなら、残るのはプラクリティ(現象世界)だけです。
サーンキヤ学派の目的は、プラクリティだけの世界でしょうか?
恐らく、違うんじゃないかと思います。
サーンキヤ学派でも、プルシャとプラクリティを内包した、1つのブラフマンを想定していたりもします。
であるなら、解脱したプルシャはブラフマンと一体化すると考えることもできます。
でも、そうであるなら、二元論である必要がありません。
1つのブラフマンが実在するという一元論でいいはずですが、サーンキヤ学派では、あえて、そうは言わずにプラクリティとプルシャの2つが実在するという二元論を主張します。
「サーンキヤ学派の体系においても、純粋精神プルシャは不変のものであるから、根本物質プラクリティが、他(=純粋精神プルシャ)のために存在するということは不合理である。もし純粋精神プルシャに変化があるとしても、不合理である」(16・48)
プルシャ(魂)が不変のものであるなら、プラクリティ(現象世界)の有無に限らずにプルシャは実在するはずです。
でも、サーンキヤ学派はプラクリティが実在することにこだわります。
プルシャが輪廻して進化していくための舞台として、プラクリティも実在だとします。
でも、プルシャを不変であるとしておきながら、プルシャの進化を語ることは、少し矛盾するような気もします。
「根本物質プラクリティと純粋精神プルシャとが相互に関係し合うということが成立しないし、また根本物質プラダーナ(=プラクリティ)は非精神的なものであるから、その根本物質が純粋精神のために存在することは不合理である」(16・49)
不変のものは、それ自体で完結します。
なので、もし、プラクリティ(現象世界)とプルシャ(魂)がどちらも実在であるなら、相互に関係性を持つ必要がありません。
もし、関係性を持たなければ成立しないというならば、それは関係性によって、どちらかが、もしくは両方とも変化するものだということになります。
にも関わらず、サーンキヤ学派では、プラクリティとプルシャはどちらも不変で実在であるとします。
それは、矛盾です。
最強の矛と最強の盾、同時に成り立つことはありません。
実際のところ、プラクリティ(現象世界)を観察してみるならば、それは物質的で変化しているように見えます。
物質はプルシャ(魂)に対して影響を与えることができるんでしょうか?
「純粋精神プルシャに作用が起きるならば、純粋精神プルシャは可滅のものとなる。また、純粋精神プルシャの知識のみに作用が起きるとするならば、前と同様に、純粋精神プルシャは可滅のものとなる。もし根本物質プラダーナの作用が、原因をもたないならば、解脱はない、という結果が付随する」(16・50)
シャンカラは、サーンキヤ学派は意志(統覚機能)をプルシャ(魂)だと認識していると推測しているはずです。
だとするならば、プラクリティ(現象世界)は、プルシャ(魂)に影響を与えられるということになります。
世界の状況は、意志(プルシャ)に影響を与えるでしょう。
あまりにも厳しい現実を目の前にして、意志が変わることもあるんじゃないでしょうか?
「やっぱり、やめておこう」「違う方法を考えるか」とか。
それは、意志は消滅することがあるということなんじゃないでしょうか?
「それは、意志が変わるだけだよ」と思うかもしれません。
でも、細かく言うならば、以前の意志が消滅して、新たな意志が生まれるということになるんじゃないでしょうか。
この認識が、サーンキヤ学派と不二一元論では違うんです。
サーンキヤ学派は、意志の内容が変わったとしても、意志は継続していると考えるでしょう。
でも、不二一元論では、継続しているのはアートマンだけだと考えます。
意志は現れては消えているだけです。
言ってみれば、サーンキヤ学派では、意志(プルシャ)とアートマンは一体であると考えているんです。
なので、プルシャは不変でありながら変化もすると考えます。
そこに矛盾があります。
不変であるプルシャ自身が、自身の解脱のために変化を続けるなんていうことがあるんでしょうか?
それはあり得ません。
「何人も私に属さないし、私は何人にも属さない。なぜなら、私は不二であり、誤って想定されたものは存在しないから。そして私は誤って想定されたものではなく、誤って想定がなされる以前にすでに確立していたのである。二元のみが誤って想定されたものである」(19・12)
実際のところ、「プラクリティ(現象世界)とプルシャ(魂)の2つが実在し、プラクリティの中でプルシャが輪廻する」というサーンキヤ学派の思想そのものが、誤って想定されたブラフマンなんです。
実在しているのは、その思考が現れる原因となるアートマンだけです。
言ってみれば、アートマンの中に、一次創作物としての現象世界(プラクリティ)が現れ、その現象世界の中に、「プラクリティとプルシャの2つが実在し、プラクリティの中でプルシャが輪廻する」という二次創作物としての思想(ブラフマン)が存在しているようなものかもしれません。
その思想(ブラフマン)は、アートマンを小さく限定したものではないでしょうか?
にも関わらず、サーンキヤ学派は、その思想(ブラフマン)はアートマンを超越していると考えるでしょう。
アートマンと統覚機能(意志)は別物である(仏教への批判)
シャンカラはサーンキヤ学派への批判もしていますが、その主な矛先は仏教です。
不二一元論と仏教は、部分的には似た概念も多いです。
でも、肝心な部分である、アートマンの実在性について、考え方が全く逆です。
不二一元論ではアートマンこそが唯一の実在だと考えますが、仏教ではアートマンは実在しないと考えます。
それゆえに、シャンカラの仏教批判にも力が入っています。
ただ、ここで言う仏教というのは、龍樹から始まった「空」の思想をベースとする大乗仏教です。
僕は、もし、シャンカラがゴータマ・ブッダと出会っていたなら、意気投合すらしていたのではと思っています。
「仏教徒によれば、この一切はじつに瞬時に滅し、間断なく生ずるダルマ(=存在の要素)にほかならない。この一切は瞬時に滅するのであるが、ちょうどこの瞬間の灯火が、類似性のゆえに、前の瞬間にあった燈火と同じであるという認識が生じるように、類似性のゆえに、これは過去のあれであるという認識が生ずる。この一切を寂滅に帰することが、人生の目的である」(16・23)
これは、龍樹の「空」の思想についての説明です。
「空」の思想というのは、簡単に言ってしまえば、あらゆるものは生じては滅してゆく実在性を持たないものであり、「空」という存在すら、実在性を持たないとする思想です。
(関連記事:龍樹(ナーガールジュナ)の中論をわかりやすく解説【「空」の思想】)
でも、人は記憶ゆえに、瞬間にしか存在しないはずのものに連続性を感じます。
(関連記事:記憶があるから、時間が存在する)
極端なことを言えば、記憶喪失になったのなら、自分という定義すら失われますよね。
いつ生まれて、どんな人生を送ってきたのかという認識がそこにはありません。
仏教の目的というのは、まるで記憶を失ったかのように、その瞬間を生きるということでもあります(そこには苦しみがないので)。
「識(=統覚機能)は外界の対象の形をとり、かつ瞬時に滅するから、それは決して記憶をもたない。また、統覚機能は瞬時に滅するから、どこにも潜在印象を保持することはない」(16・25)
仏教への批判として、シャンカラは記憶を引き合いにだします。
すべてが「空」なのであれば、記憶すらも瞬間瞬間に生じては滅するはずだからです。
にも関わらず、仏教では、過去、未来、にとらわれずに、記憶が存在しないかのように今を生きることを説きます。
それは一種の矛盾であって、当然のツッコミどころです。
確かに、記憶というのは実体を持っていません。
自分の記憶のすべてを今この瞬間に認識できるという人はいないでしょう。
記憶は、必要な時に部分的に認識できる対象として頭にでてきます。
でも、それを記憶だと認識できるのはなぜなんでしょうか?
「また、この一切を寂滅に帰することは、なんの努力をしなくても達成されるのであるから、それを達成するための手段を教えることは無意味である。この一切は各瞬間ごとに寂滅に帰するのであるから、それらが寂滅に帰するには、他の何ものをも必要としない」(16・27)
これも当然のツッコミどころです。
すべてが「空」なのであれば、記憶だって当然のことながら寂滅に帰することになります。
なんの努力をせずとも、記憶を持っていないかのように、今を生きるようになるはずです。
過去や未来にとらわれることも無いでしょう。
わざわざ、仏教がそれを教えるまでもないことです。
「しかし誤った付託がなされているそのアートマンにおいて、誤った付託を滅することが成立するというのが、われわれ不二一元論者の見解である。一切のものが瞬時に滅するならば、その結果としての解脱は、何ものに属するのかを語れ」(16・30)
実際のところは、すべての人は記憶を認識しており、過去、未来を気にしながら生きています。
それはなぜかと言えば、アートマンについて何も知らないからというのが、シャンカラの主張です。
自身がアートマンであるという自覚があれば、記憶と体を関連づけるということはしません。
自分の存在を、記憶と体に付託したりはしません。
でも、その自覚がないからこそ、人は記憶と体を関連づけて考えます。
そして、それを自分だとみなします。
仏教では、すべては「空」と言いますが、記憶を気にするその人には連続性があるように感じられます。
仏教の目的は、その連続性を切り離すことです。
それは確かに可能です。
その連続性が無くなるなら、記憶を気にするその人も、現れては滅するものになるでしょう。
でも、そのことを認識するのは一体誰なんでしょうか?
「空」でしょうか?
でも、仏教では「空」という実体すらないと言います。
誰でも無いものが、そのことを認識するんでしょうか?
「確かに、知識とも、アートマンとも、その他のものとも呼ばれるものはみずから実在する。それはものごとの存在と非存在の認識主体であるから、それが存在しないということは承認されない」(16・31)
実のところ、「空」という思想自体が誤って想定されたブラフマンなんです。
サーンキヤ学派が「プラクリティ(現象世界)」と「プルシャ(魂)」の2つの概念を主張したように、仏教では「存在」と「非存在」の2つの概念を主張して、「空」という言葉で真空パックにしているようなものです。
アートマン無しには、「空」という概念そのものも認識できないでしょう。
シャンカラにとっては、「空」という概念そのものが「非存在」であり、それゆえに、「空」によって「存在」とされる存在も「非存在」となります。
唯一実在するのはこのアートマンだけです。
「[唯識学派の反論]知覚が、他のもの(=アートマン)に依存する、ということは、君(=シャンカラ)にとって、一体どんな利益があるのか、われわれ唯識派のものに語れ。もし君が、知覚は知覚主体に依存するということが、承認されていると、反論するならば、われわれは次のように答える。われわれの唯識説によれば、知覚主体もまた知覚以外のなにものでもない」(18・141)
仏教の唯識派というのは、「空」の思想をベースに西暦400年頃に起こった学派です。
認識主体と対象は存在せず、その間に起こる認識のみが存在すると考える学派です。
例えば、手がコップに触れるなら、手とコップは存在せずに、触れた感覚だけがその瞬間に存在します。
目が世界を捉えるなら、目と世界は存在せずに、視覚だけがその瞬間に存在します。
唯識派の主張では、触れる感覚に気づくのも、その知覚そのものということになります。
触れる感覚が、気づく主体でもあり、気づかれる対象ということですね。
触れる感覚に気づく主体(アートマン)は存在しないとします。
「認識のみが存在すると主張する人びとは、その認識を作用である、その認識を作用の原因である、という。[返答]もし唯識派が知覚には実在性と可滅性とがあるというならば、知覚には知覚主体があるということをも認めるべきである。もし、唯識派が、知覚にはいかなる属性をも認められない、というならば、知覚には実在性と可滅性があるという、自分自身の主張を棄てることになる」(18・143)
触れる感覚そのものが、気づく主体でもあるという主張は矛盾しません。
でも、もしそうであるなら、触れる感覚が消滅したことに気づく主体は何になるんでしょうか?
触れる感覚そのものが主体でもあるなら、それが消滅するなら、そのことへの気づきは起こり得ません。
なので、シャンカラは、知覚に可滅性があるならば、知覚には知覚主体(アートマン)があるということも認めるべきだと言います。
それでも、知覚には知覚主体(アートマン)は存在しないと言うならば、可滅性の確認は不可能だということになり、唯識派は、知覚には実在性と可滅性の両方があるということを主張することはできなくなります。
「アートマンには触覚も運動もないが、人は触覚や運動がアートマンにあるかのように感ずる。同様に、識別智をもたないから、人は意(=統覚機能)に属する苦を、アートマンにあるものと見做す」(18・166)
アートマンそのものには、触覚も運動もありません。
アートマンは在るものです。
アートマンの「見る側面」である意識そのものにはなんの属性もありません。
でも、心や意志(統覚機能)といった、意識に方向性を持たせようとする存在が、自身を意識だと勘違いします(アートマンが、自身を意志だと勘違いしています)。
(関連記事:「意志」と「意識」の違いとは?)
意識そのものに、意識に方向性を持たせる機能が備わっていると勘違いします。
それゆえに、苦しみを感じるときには、意識そのものが苦しんでいるのだと勘違いします。
違うんです、苦しんでいるのは意志であって、意識はそのことに気がついているだけです。
また、意識と意志を同一のものだと勘違いしているので、自身(意識と意志)の認識主体は存在しないと考えます。
もちろん、意識を意識できる存在は存在しないでしょう。
つまり、アートマンは存在しないと考えます。
その勘違いは、意識と意志は別物だということに気づくための識別智が無いがゆえです。
「10人の少年たちが川を泳ぎ渡ってから自分自身がその第10番目であった1人の少年が、自分自身も他の9人のうちにいる、と考えて、「1人足りない」と判断し、別の少年から「君が10番目だ」と言われるまで、そのように理解していたように、この混迷に陥った世人は、アートマンを統覚機能などのような認識対象のうちにある、と考えて、それとは別様には理解していない」(12・3)
多くの人は、自身がアートマンであるにも関わらず、自身を認識対象の1つだと勘違いしています。
例えば、意志・心(統覚機能)、体などを自分自身だと感じています。
そういう風に勘違いしているなら、アートマンは存在していないかのように感じるでしょう。
まさしく、「自分自身も他の9人のうちにいる」と勘違いしている状態です。
でも、実際のところは、自分自身が10番目の人です。
それは、認識対象ではなく、認識主体です。
「「君が10番目だ」という文章によって、少年は自分自身が10番目の少年である、と知ったように、ひとは、「君はそれである」などの天啓聖句から、自分自身のアートマンを、一切の内官(=統覚機能など)の目撃者である、と知る」(18・174)
仏教徒がアートマンは存在しないと主張するのは、まさしく、自分が10番目の人であることの自覚がないからだとシャンカラは見抜いています。
それゆえに、仏教徒に対しても、「君はそれである」と言います。
君はそれである
「「君はそれである」などの文章において、「君」という単語の意味が識別されていないから、「私はつねに解脱している」という文章の意味が明白にならないのである」(18・179)
もちろん、「君」が何を指すのかを最初から理解できれば、真理の探究は簡単でしょう。
「「君」という単語の意味を識別するためには、一切の行為を棄てることが手段となる。なぜなら「心が平静となり、感官が制御され、……精神統一して、自己のなかにアートマンを見、一切をアートマンと見る」(『ブリハッド・アーラニヤカ・ウパニシャッド』4・4・23)などというウパニシャッドの教えがあるから」(18・219)
シャンカラは、「君」という単語の意味を知るには、知的に理解しようとする行為ではなく、一切の行為を棄てることが手段だと言います。
これは、一般的な感覚から言えば、真逆のように感じるのではないかと思います。
「君」という単語の意味を知りたいのであれば、例えば、小説などであれば、その単語の前後関係の文脈を見ます。
それは、知的な行為です。
それ無しでは、「君」という単語の意味は分からないでしょう。
でも、ウパニシャッドの場合、「君」という言葉の前後関係を見てみても、その意味は分からないでしょう。
ウパニシャッドの言う「君」はアートマンのことであって、それは、認識対象ではないからです。
認識対象ではないので、この時間とも関係ないし、この空間とも関係がありません。
(関連記事:記憶があるから、空間が存在する)
極端なことを言えば、この世界とも関係がありません。
それゆえに、シャンカラは、アートマンを知る方法は、一切の行為を棄てることだと言うんですね。
ただ、それは、単純に瞑想すればいいというわけではありません。
あくまでも、大事なのは認識主体としてとどまることです。
統覚機能たる意志として、瞑想をしようと思うなら、それは行為を棄てることにはならないでしょう。
むしろ、日常生活の中で、意志による意図的な行為をしないようにする(ハートにとどまる)という方が、「一切の行為を棄てる」ということの本質に近いかもしれません。
ただ、この点に関しては、僕はシャンカラに全面的には同意しません。
ある段階までは、意図的に瞑想などの行為をすることも必要だと思っています。
(関連記事:瞑想にゴール(目標・目的)はあるんでしょうか?)
実際のところ、シャンカラはこのようにも言っています。
「「私は行為主体であり、苦しむものである」と、直接知覚によって認識される。それゆえに、「私は行為主体であってはならないし、苦しむものであってはならない」という努力があるべきである」(18・209)
「私は行為主体ではない」という自覚を得るための努力はあるべきだと言っています。
また、シャンカラからすれば、全ウパニシャッドの精髄を知ろうとする行為は推奨されることなのではないかと思います。
最後に、シャンカラによるウパニシャッドへの讃歌を2つ引用して終わりにしたいと思います。
「われわれのために、蜜蜂のように、ウパニシャッドの文章の花々から、知識という最上の甘露の蜜を集めたこの有徳の師に敬礼する」(18・230)
「神々が大海を撹拌して、大海から甘露(=不死の霊薬)を取り出したように、かつて偉大な人びとがヴェーダ聖典の海を撹拌して、ヴェーダ聖典の海から、かれらが最高と考える知識を取り出した。これらの諸師に敬礼する」(19・28)