四向四果という悟りの概念について思うこと。

仏教では、
悟りの段階というのが、
明確に区別されています。

その段階のことをあらわした言葉が、
「四向四果(しこうしか)」です。

悟りの段階によってあらわれる特徴が、
言葉によって説明されています。

でも、これって注意が必要な気もするんです。
お話しします。

悟りの4つの段階。預流、一来、不還、阿羅漢。

悟りの4段階。
「預流(よる)」「一来(いちらい)」「不還(ふげん)」「阿羅漢(あらかん」の4つです。

預流から順に上に向かっていく感じですね。

そして、阿羅漢になると、
もう、生まれ変わってこない状態。

完全なる悟り。
解脱の状態だと言われています。

そして、それぞれに、特徴があるんですね。

預流の特徴は、
自我というものは存在しないということを自覚していること、
儀式や儀礼などを重要視しなくなること、
ブッダの教えを疑わなくなること、
の3つです。

特に、自我というものが存在しないということを、
自覚しているのが最大の特徴です。

次に、一来の特徴は、
強い欲と、強い怒りが消えていることです。
だいぶアバウトな感じですが。

そして、不還の特徴は、
弱い欲と、弱い怒りが消えていることです。
またまたアバウトな感じです。

そして、阿羅漢の特徴は、
自我が存在していない状態です。
自分というものが存在していない状態です。

それゆえに、生まれ変わるような自分がいなくなります。
輪廻転生が起こらなくなる解脱した状態です。

向かう状態と、果たした状態。

悟りの段階は4つなのですが、
それぞれに、向かう状態と、果たした状態の2つの状態があります。

預流であれば、
預流向と預流果の2つの状態があります。

預流向というのは、
預流の状態に向かっている状態。

つまりは、まだ預流の状態ではないということですね。

そして、実際に預流の状態になったとき、
それは預流果になります。

一来、不還、阿羅漢についても同じです。

一来向、一来果、不還向、不還果、阿羅漢向、阿羅漢果、
があるってことですね。

つまりは、四向四果には合計8つの状態があるということですね。

幻想を抱いてしまうのでは?

ちなみに、悟りの4つの段階は、
書籍によってはもっと詳しくその特徴が書かれていたりもします。

どういう性格になるとかですね。

そういった情報は、ともすれば、
悟りに幻想を抱いてしまう可能性もあるのではないかと思うんです。

例えば、

「預流果というのは、
こういう状態らしいから、
そうなるように意識していこうとか。」

自我が存在しないと思い込もうとしてみたり、
ブッダの教えを深く信じてみようとしたり、
そういうことが起きてしまうんじゃないかと思うんです。

ちなみに、本当に預流果になっている人は、
おそらく、こういった情報によって幻想を抱くことは、
ほとんどないのではないかと思います。

だって、幻想を抱くのは自我だからです。

預流果になると、
自我という実体はないことを明確に自覚しています。

一来果になるために、
強い欲や強い怒りを意識的に消そうとすることは、
自我の仕業だということに気がついてしまいます。

大事なのは沈黙?

四向四果という悟りの概念は、
結果的にそうなる可能性があるよという、
統計データみたいなものであって、

目指すゴールのようなものではないと思います。

結局のところ、
悟りを深めていく方法はひとつしかないと思います。

それは、沈黙を保つことです。

沈黙というのは、
頭の中になんの考えもでてこないし、
なによりも、自我すらも、その存在を消している状態です。

正確には、自我が有るともいえるし、無いともいえる状態。
つまりは空の状態ですね。

自我がしゃべりだしたり、
何かをイメージしたり、
何かに意識を集中したりすると、
沈黙は妨げられてしまいます。

禅定の段階で言えば、非想非非想処の状態だと思います。

何も考えていない状態、
でも、何も考えていないとは完全には言えない状態です。

どれだけ沈黙していられるかで自覚できるのでは?

四向四果のどの段階にいるのかは、
概念で理解するよりも、
どれだけ沈黙していられるかで自覚するほうが、
早いのではないかなと思います。

預流果の場合は、
自分が存在しないということを自覚している状態です。

自分という存在が、
たんなる思考やイメージのようなものだということを知っています。

そのことを自覚しているからこそ、
沈黙を保つことができるようになります。

でも、そのことに気づいたばかりの預流果の場合は、
日常生活の中では、
沈黙を保てる時間はそれほど長くはないと思います。

その時間が長くなってくると、一来果になり。
さらに長くなってくると、不還果になる。

そして、沈黙の状態を妨げる自我が完全に消えたとき、
阿羅漢果になるのだと思います。

ちなみに、
阿羅漢果になったとき、
どういう状態になるのかは僕にはわかりません。

自我がなければ、
しゃべることができなそうな気がしますが、
どうなんでしょうか?

まるで映画を観るかのように、
世界や自分を観るようになるんでしょうかね?

まとめ

というわけで、
四向四果という悟りの概念について思うことをお話しました。

預流、一来、不還、阿羅漢と、
悟りの段階がはっきりと区別されています。

でも、あくまでも概念です。
悟った人にはどういう特徴があるのかの、
統計データのようなものだと思います。

「預流果というのは、こういう状態なんだ」

という幻想を作り出してしまう可能性もあるのではないかなと思います。

特に、預流向から預流果に向かうときは、
自分が存在するという思いを抱えたまま、進むことになります。

自分が存在しないという状態への幻想を抱いてしまいかねません。

大事なのは、結局のところ、
沈黙を保つことだと思います。

なかなか、頭の中の考えが静まらないという場合は、
預流果になることを目標とせずに、

ただ、思考を静めるための瞑想を続けることが、
大事なのではないかなと思います。

結果的に、自分が存在しないということを、
自覚する瞬間がおとずれると思います。

頭の中の思考が静まっているほどに気がつきやすくなると思います。

そして、ここで僕がお話した内容も、
参考程度に聞いておいてください。
概念ですから。

実際に、自分で確かめてみるのが大事だと思います。

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