うちの妻が、スリ・ユクテスワの「聖なる科学」という本を買っていたようで、僕に読めと言ってきました。
Amazonではずっと売り切れ中のイメージがあったのですが、今は普通に買えるんですね。
「聖なる科学」というと、以前、Aさんから頂いた質問メールの中にも登場していました。
その存在は知っていて、読みたいとは思っていましたが、ずっと読めていませんでした。
今回、ようやく読むことができたので、その内容について、思うことをお話しようと思います。
※今回の記事は、ちょっと長めです。
これは科学なのか?
僕は、この本を読んで、なぜ、ブッダが縁起を説いたのか、なんとなく分かる気がしました。
縁起というのは、物事と物事との関係性ですね。
この本は、「聖なる科学」というタイトルになっていますが、「科学」とは言えないような気がしています。
特に、序章では、ユガ(宇宙的季節)という概念について語られています。
宇宙は、24000年周期で変動していて、人類の精神的徳性(霊的なものを認識できるかどうか?)と、連動しているようです。
12000年かけて下降し、12000年かけて上昇するとしています。
西暦にすると、499年が、最低の地点(カリ・ユガ期)だったようで、今は、最低の地点は抜けて、1521年経過した、ドワパラ・ユガ期なんだそうです。
そして、これから10479年かけて、最高の地点(サティヤ・ユガ期)に向かうようです。
最高の地点では、人類の知能は、宇宙霊なる神をも理解するようになるとしています。
すべての人が真理を悟るようになるということなんでしょうか?
でも、その根拠がとても希薄なんです。
マヌ法典や、天文学関係の書物を引用したりしていますが、科学的とはとても言えないのではないかと思います。
そもそも、「時間」には実体はありません。
(関連記事:記憶があるから、時間が存在する)
そのことは、ユクテスワも、この本の中で語っています。
「オーム、時間、空間、宇宙原子は、1つの同じものであって、本質的には単なる観念にすぎない。」
であるなら、わざわざ、こういった時間的な概念について、序章で語る必要もないのになと、僕は思ってしまいました。
精神的な世界については、仮説の上に、仮説を重ねるといった、概念遊びが良く行われる傾向があると思います。
そうなると、どこまでも想像力が膨らんでしまい、思考が迷宮入りしてしまうのは必至です。
それは、2500年前だって同じだったでしょう。
それゆえに、ブッダは、概念が飛躍しないように、縁起を説いたのではないかと思います。
プルシャとプラクリティとは?
この本では、様々な概念が、網羅的に解説されています。
そのすべてに言及することは難しいので、大事なところに絞って、お話してみたいと思います。
それは、「プルシャとプラクリティ」についてと、「サット・チット・アーナンダ」についての2つです。
(関連記事:サット・チット・アーナンダとは一体なんなんでしょうか?)
この本は、インドのサーンキヤ哲学についての解説本でもあると思います。
サーンキヤ哲学は、ヨガの論理的な側面を言い表したものと言われています。
そして、その特徴は二元論です。
2つの実体によって、この世界を超えた現象が成り立っていると考える哲学です。
その2つの実体というのが、「プルシャ」と「プラクリティ」ですね。
当然のことながら、この本の中でも、プルシャとプラクリティがでてきます。
まず、ユクテスワが、プラクリティについて、どう語っているのか引用してみます。
「現象世界を構成する全能の創造力(シャクティ)(無限の姿形をとって万物を構成しているエネルギーの本源。その本質は’喜び’で、永遠の至福(アーナンダ)とも呼ばれる)と、その世界をあまねく意識している全治の知性(チット)(あらゆる知識、感情等の心理機能の本源。これはまた’愛’(思いやる心、理解する心)であり、普遍の愛または全知の愛とも呼ばれる)とは、父なる神の性質(プラクリティ)(創造活動、自己表現活動、を演出する潜在的な実体)を構成する。」
少し、複雑な文章になっていますが、簡単に言えば、至福(アーナンダ)と意識(チット)の2つが、プラクリティを構成しているということですね。
意識の中に、至福をエネルギー源とした、現象世界が現れているということですね。
それでは、次に、プルシャについて、ユクテスワがどう語っているのかを引用してみます。
プルシャについては、かなり抽象的、かつ、キリスト教的な表現になっています。
(この本は、聖書のヨハネの黙示録と、サーンキヤ哲学の類似性を示そうとするものでもあるようです)
「父なる神の全知の愛(全知の知性、普遍の愛)の現れが、クタスタ・チャイタニヤ(プルショッタマ)で、宇宙偏在の命であり、光であり、創造主である。これはまた、聖霊(神の霊、御霊)と呼ばれ、闇(マーヤ)の上を照らして、そのあらゆる部分を神の方へ引き付けようとする。しかし、マーヤ(幻想)もアヴィディヤ(無知)も、もともと反力であるため、その光を受け入れることができず、したがって、真理を理解することができず、反射する。聖霊は、父なる神の性質(プラクリティ)である全知の愛が直接現れたもので、本質的には、神ご自身と全く同じである。そこで、この聖霊の光の’反映’を、神の子(プルシャ)と呼ぶ。」
分かるでしょうか?
かなり理解が難しい文章になっています。
ユクテスワは、プルシャについて、こういったことも語っています。
「解脱とは、プルシャ(ジーヴァ、魂)が、真の自己の中に落ち着くことである」
カッコ書きで「魂」って書いてあります。
つまりは、プルシャというのは、個我のことであり、プラクリティを輪廻する実体ということなのだと思います。
それが、サーンキヤ哲学の二元論ですね。
ただ、プルシャが個我である魂なのだとすれば、アハンカーラ(自我意識)とはどう違うのか、という疑問が起こらないでしょうか?
ユクテスワは、アハンカーラ(自我意識)について、こう語っています。
「個々の宇宙原子(アヴィディヤ、無知)は、全知の愛(チット)の現れである聖霊の影響を受けて、ちょうど磁界の中に置かれた鉄粉が磁化するように、霊化して意識(知性、愛)をもつようになる。そのときこれを、チッタ(心)またはマハットと呼ぶ。するとその中に、自分を、他のものと分離した一個の存在と思う観念が生ずる。これをアハンカーラ(自我意識)または人の子という。」
ここで言う宇宙原子というのは、「人の体を構成するもの」と言い換えてもいいかもしれません。
ユクテスワは、チッタ(心)の中に、個人という観念が生まれ、アハンカーラ(自我意識)が生ずると言います。
そして、それをプルシャである「神の子」とは区別をつけて、「人の子」と表現します。
では、「神の子」と「人の子」は、一体、どう違うんでしょうか?
そのことについて、ユクテスワは、こう語っています。
「人の子は、この救い主(グル)に助けられて聖霊の光の河で再び洗礼を受け、’自己’を浄化する。そして、現象(マーヤ)の世界から脱出して聖なる霊の世界に入り、ナザレの師イエスの場合と同じように、神の子(プルシャ)となる。この状態に達すると、人は、永遠にマーヤの束縛から解放されるのである。」
‘自己’が浄化されることによって、人の子は、神の子になるということですね。
浄化というのは、「私は体を持った個人である」という思い込みが浄化されることでしょう。
そうすると、マーヤの世界から脱出して、聖なる霊の世界に入れると。
でも、本当にそうでしょうか?
僕は、ヴェーダンタ哲学の不二一元論を支持しています。
なので、二元論に対しては、どちらかというと否定的です。
でも、だからといって、この世界で生きている限り、二元性は避けられません。
ユクテスワが、プルシャとプラクリティについて語ることについても、ある程度は、納得できるところもあります。
でも、物質的なこの世界をマーヤ(幻想)と呼び、聖なる霊の世界を実在としようとする傾向は、否定せざるを得ません。
「聖なる霊の世界」と呼べるような世界があるなら、それもマーヤ(幻想)だからです。
サット・チット・アーナンダとは?
二元論と、非二元論(不二一元論)の違いというのは、それこそ、プルシャとプラクリティの認識の違いにあると、一般的には思われていると思います。
二元論では、プルシャ(魂)には実体があると考え、非二元論(不二一元論)ではプルシャ(魂)は実在しないと考えます。
でも、それは、結果として、そういった認識の違いになるのであって、実は、もっと根本的な違いがあるんです。
その違いは、「サット・チット・アーナンダ」の解釈によく現れます。
ユクテスワは、サット・チット・アーナンダについて、こう語っています。
「実在と、意識と、至福は人間の心の中に本来ある3つの欲求である。至福(アーナンダ)とは、本心(チッタ)が満足することであり、これは、聖師(サット・グル)が教える道と方法に従うことによって得られる。真の意識(チット)は、あらゆる心の障害を絶滅し、あらゆる徳性をもたらす。実在(サット)は、魂の永遠不滅性を体認することによって達成される。これら3つは、人間の本来の性質を構成するものである。すべての欲求が満たされ、あらゆる苦悩が根絶したとき、心の最終目標(パラマアルタ)が達成される。」
まず、明確に言えるのは、至福(アーナンダ)とは、本心(チッタ)が満足することじゃありません。
この認識の違いが、二元論と、非二元論(不二一元論)のあらゆる違いを引き起こします。
心(チッタ)というのは、喜怒哀楽の感情を引き起こしますが、至福(アーナンダ)というのは、感情を超えたものです。
心(チッタ)とは関係がありません。
むしろ、心(チッタ)が静まっている時にこそ、至福(アーナンダ)というのは感じられやすくなります。
ユクテスワは、至福(アーナンダ)はどうすれば得られるのかということについて、こう語っています。
「人は、だれか神性をそなえた聖師(サット・グル)の助けを受ける幸運に恵まれて、その聖なる導きを受け、それに忠実に従って修行を積み、自分の注意力を完全に内面に集中することができるようになると、心のあらゆる願望を満足させることができるようになり、それによって至福(アーナンダ)が得られる。」
むしろ、逆です。
至福(アーナンダ)が得られることによって、心の願望が、段々と消えていきます。
バガヴァッド・ギーターでは、自分が、意識であり、至福であるという自覚のことを、「知識」と呼びます。
(関連記事:バガヴァッド・ギーターを、わかりやすく解説)
クリシュナは、「知識に等しい浄化具はこの世にない」と言います。
知識という浄化具を使って、心の願望を浄化するんです。
その浄化具を、最後に手に入れようとしてどうするんでしょうか?
そして、至福(アーナンダ)を得るのに、必ずしも、聖師(サット・グル)が必要とは限りません。
(関連記事:真理の探求に、師は必要か?【サットグルとは?】)
ちょっと前に、アメリカで、持続的な至福感を感じている人を研究している博士のことを記事にしました。
(関連記事:PNSE(継続的非記号体験)って何だ?【心理学的な悟り】)
その博士は、2500人ほどの、持続的な至福感を感じている人を見つけています。
その中には、瞑想すら実践していない人もいたようです。
であるなら、その人には、聖師だっていないでしょう。
こういったことは、アメリカだけに限らないと思います。
インドでだって、日本でだって、そういう人はいるはずです。
僕自身、瞑想をしたことがない状態で、至福とは何かに気がつきました。
次に、真の意識(チット)についてです。
ユクテスワはこう語っています。
「このようにして本心が満足すると、人は、自分の注意力を、任意の対象のうえに固定して、そのもののあらゆる面を知ることができるようになる。こうして、自分の内奥に宿っている全知の意識、神の最初の顕現であるオームをはじめ万物の中にあまねく内在すると同時に、真の自己でもあるチットが、徐々に現れてくる。そして、その意識の’河’で洗礼を受けて、’悔い改め’(自己意識を浄化し)自分が’落ちて来る’前のすみかであった父のもとに帰り(神性を取り戻し)はじめるのである。」
意識の存在は、あまりにも明白です。
誰もが、意識の存在を知っていると思います。
意識があるがゆえに、人は、意識の中で起こる現象に気がつくことができます。
自分の注意力が、任意の対象のうえに固定されたことに、気がつくことができます。
そのもののあらゆる面を知ることができるということに、気がつくことができます。
でも、意識そのものと、自分の注意力をどこかに向けようとする意志は、別ものです。
(関連記事:「意志」と「意識」の違いとは?)
それは、心(チッタ)であり、アハンカーラ(自我意識)です。
至福(アーナンダ)が得られたなら、そのまま、そこにとどまっていればいいんです。
それが、洗礼であり、父のもとに帰りはじめるということです。
なぜ、人の子として、自身がマーヤ(幻想)と呼ぶ、物質的な世界に注意力を向ける必要があるんでしょうか?
それは、本心が満足していないということであり、本当のところは、至福(アーナンダ)を理解していないということなんじゃないでしょうか?
次に、実在(サット)についてです。
ユクテスワは、こう語っています。
「人は、’自己’なる意識の実態や、マーヤの創造活動の実相に目覚めると、それを超えた絶対的な力をもつようになり、無知(アヴィディヤ)が生み出したあらゆるものをしだいに取り除いてゆく。こうして、マーヤの支配から解放されると、ついには、自分(魂)が’永遠に存在する不生不滅の実体’であることを体認するようになる。このようにして、’自己’の実在(サット)が実現する。」
実際のところは、マーヤの支配から解放されるなら、プルシャ(魂)には、実体がないということに、気がついてしまうはずです。
ユクテスワは、物質世界のことをマーヤ(幻想)と呼び、聖なる霊の世界を、実在する世界だと認識しています。
でも、それはちょっとおかしいんです。
物質世界も、聖なる霊の世界も、どちらも、神の性質であるプラクリティから創造されているからです。
どちらかがマーヤ(幻想)ということは、考えにくいんじゃないでしょうか?
ユクテスワは、こうも語っています。
「不生不滅の永遠の存在であるスワミ・パラムブラフマ(父なる神)は、実在する唯一の真の実体(サット)であり、宇宙のすべてのすべてである。」
このことは、不二一元論を支持する僕も同意します。
なので、それ以外は、すべてマーヤ(幻想)です。
プルシャも、プラクリティもです。
でも、二元論では、プルシャも、プラクリティも、実在(サット)であると考えます。
でも、プラクリティの中の、物質世界だけは、実在(サット)ではなく、マーヤ(幻想)だと考えるんですね。
それは、論理的に考えても、少し、おかしくはないでしょうか。
実のところ、本当のマーヤ(幻想)というのは、この意識(チット)の外にも、実在する世界が広がっているという勘違いのことを言います。
それは、この意識(チット)の外には、超越的な、真の意識(チット)が広がっているという勘違いも含みます。
そんなものはありません。
それこそがマーヤ(幻想)です。
この、今認識できている、意識の中に現れるものが実在です。
それは、物質的な世界であれ、霊的な世界であれです。
ただし、それは一時的な「存在」です。
「存在」は意識の中に現れては、意識の中から消えていきます。
僕は、聖なる霊の世界を否定はしません。
それを認識できる人にとっては、それは現実だと思います。
でも、それは、物質世界と同等の価値であるというだけです。
(関連記事:真理を悟るには、霊性を高めなければならない?)
どっちが上とか下とかないんです。
どちらも、等しくマーヤ(幻想)の性質を持っています。
この本の中には、「記憶」という言葉は出てきませんが、この意識の外の世界は、単なる記憶です。
この本の中では、「サット・チット・アーナンダ」という言葉は、サットは「父なる神」、チットは「プルシャ・プラクリティ」、アーナンダは「プラクリティ」、という意味で使われていると思います。
そして、そのすべてを実在だとしています。
でも、実際のところは、「サット、チット、アーナンダ」は、父なる神の、この世界での3つの側面なのであって、そのすべては一時的な性質を持っています。
サットとは、意識によって気がつかれる存在のすべてです。
プラクリティと言ってもいいかもしれません。
チットとは、今、意識することができている意識のことです。
それ以上でも、それ以下でもありません。
アーナンダとは、この意識の真ん中に位置する、自分が存在するという感覚、至福のことです。
二元論では、アーナンダをプラクリティとしていますが、それは、世界と関わることによって至福が得られると考えているからです。
それゆえに、プラクリティを実在だと信じています。
でも、実際のところは、アーナンダというのは、この意識の真ん中に、無条件に在るものです。
今、この瞬間にだって、それを確認することができます。
「サット・チット・アーナンダ」というのは、信じるべき概念なのではなくて、今、ここで確認できるものなんです。
(関連記事:信じるものは救われる?疑うものも救われる。)
この本の最後に、ユクテスワは、シャンカラの言葉を引用しています。
シャンカラというのは、西暦700年頃に活動した不二一元論の提唱者です。
(関連記事:シャンカラ「ウパデーシャ・サーハスリー」【書籍の解説】)
「人生は、蓮の葉の上の水滴のように不安定で、たえず苦難にさらされている。しかし、たとえわずかな間でも聖者と交われば、救いを受けることができる。」
もし、ユクテスワがシャンカラに出会ったなら、こう言われることでしょう。
「あなたは誰ですか?」