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非二元論を超えて【ノンデュアリティへの批判】

僕が「非二元論」という言葉を知ったのは、確か、トニー・パーソンズの本をアマゾンで購入したときです。

「非二元論の大御所」みたいな煽り文句で紹介されていて、「へ〜、非二元論なんていうジャンルがあるんだ」と思ったことを覚えています。

それまでにも、ラマナ・マハルシの系譜に連なる方々の本を読んできていました。

ラマナ・マハルシの教えが、非二元論と同じ意味であるアドヴァイタ(不二一元論)というジャンルで括られているということも、その時に知りました。

でも、僕はラマナ・マハルシの本を読んでいて、それが非二元論だと感じたことがありません。

ラマナ・マハルシの教えは、明らかにハートの教えだからです。

(関連記事:探求を早く終わらせたいなら、まず、ハートを理解する

それは、非二元論を超えています。

※今回はかなり長文です。

非二元論を悟っても満足できない?

僕は、非二元論を悟っても、満足できませんでした。

非二元論の核心は、「私は個人ではない」ということなんじゃないでしょうか?

私は、世界の中で、体と心を持った個人として存在しているわけではなく、そのことに気がついている存在、意識だということです。

それは、「私は存在しない」とか「私は在る」という言葉で表現されることもあります。

そして、私という意識の中で、物事は自動的に起こります。

そこに個人はおらず、私は、そのことに気がついているだけです。

非二元論をザックリと説明すると、こうなるんじゃないでしょうか?

でも、それは、コインの2つの側面の内の、片方だけを語るようなものです。

「非二元論は、2つでは非ずという意味なんだから当然じゃない?」って思うかもしれません。

確かに、「私は在る」時、私は存在しません。

でも、あなたは常に「私は在る」でしょうか?

「「私は在る」を私は知っている」という状態でいることも、長くはないでしょうか?

(関連記事:なぜ「私は在る」を悟っても探求は終わらないのか?

その時、あなたは、意志を持つ個人として存在しています。

こんなことを言うと、「意志を持つ個人は存在しない」とか言われるかもしれません。

非二元論では、この考え方を許さない傾向があります。

「私は存在しない」

そう、言葉で言うことは簡単です。

(関連記事:「私は存在しない」という言葉によくある勘違い

でも、感情は納得しているでしょうか?

例えば、僕を探求に駆り立てたのは、死への恐怖です。

死への恐怖を克服したいという原動力はかなり強力です。

でも、非二元論を悟っても、死への恐怖は消えませんでした。

「本当の自分は意識だというのは分かったけどさ、この体が死んだら、この意識も消えるよね?」

という、当然の疑問が残るわけです。

そう思っている人は多いんじゃないでしょうか?

(関連記事:死の恐怖は、どこからやってくるのか?

それに対する、非二元論的な答えは、こんな感じなんじゃないでしょうか?

「恐怖を感じている私は存在しない」

「その恐怖の所有者はいない」

「意識の気づきが消えても、意識は残る」

もちろん、こういった言葉に納得する人もいるかもしれません。

でも、遅かれ早かれ、感情は反乱を起こすんじゃないでしょうか?

そして、もしそうであるなら、そもそも、真理の探求をする必要はなかったんじゃないでしょうか?

これは、非二元論の限界です。

でも、それは、超えることができます。

「私は在る」という存在の感覚はどこにあるのか?

「私は在る」には、存在の感覚がともないます。

その、存在の感覚というのは、一体、どこで感じられるものなんでしょうか?

意識そのものには、存在の感覚はありません。

空間そのものには知覚がないので、感覚を感じることはできません。

感覚を感じることができるのは、体が持つ、この5感覚と、この感情だけです。

であるなら、「私は在る」というこの存在の感覚は、体で感じられるものなんでしょうか?

確かに、「私は在る」時、体の表面に、微細なエネルギーのさざ波のようなものを感じることもあります。

体の中を、なにか微細なエネルギーのようなものが、対流しているように感じられることもあります。

それは、存在の感覚なんでしょうか?

でも、もし、「私は在る」という存在の感覚が、体に属するものなのであれば、「私は体だ」と言っているようなものなんじゃないでしょうか?

スポーツ選手なんかは、ものすごく敏感に「私は在る」という存在の感覚を感じていることになります。

であるならば、真理を探求するよりも、スポーツ選手を目指したほうがいいかもしれません。

でも、そうではないはずです。

体の感覚を「私は在る」と思うには、ちょっと距離があるはずです。

体の感覚というのは、あくまでも観察対象なんじゃないでしょうか?

であるなら、「私は在る」という存在の感覚は、感情で感じられるものなんでしょうか?

あなたは、今、どんな感情を感じているでしょうか?

なにも感じていないでしょうか?

それとも、高揚感を感じているでしょうか?

はたまた、怒りを感じているでしょうか?

もしくは、動揺しているでしょうか?

それは、「私は在る」という存在の感覚でしょうか?

「う〜ん、そうかもしれないけど、ちょっと違うような」と思うかもしれません。

「この感情は、体の感覚と同じく観察対象だよ」と思うかもしれません。

「いや、なにも感じないんだけど?」と思うかもしれません。

じゃあ、「私は在る」という存在の感覚はどこにあるんでしょうか?

このことは、探求されるべきものです。

ニサルガダッタ・マハラジはこう言っています。

「「私は在る」という感覚にしがみつきなさい」

これは、「私は在る」ということを悟っても、真理を知ることはできないということを物語っているんじゃないでしょうか?

ニサルガダッタ・マハラジ自身、「私は在る」という感覚に3年間しがみつきました。

ニサルガダッタ・マハラジは、その3年間で、何を悟ったんでしょうか?

感情は存在しない、けど、ハートは在る。

実は、感情にも、非二元論的なことが言えます。

感情は存在しません。

けど、ハートは在ります。

「いやいや、感情は確実に存在するでしょ!むしろ、ハートが存在してないんじゃない?」って思うかもしれません。

個人は存在しないのに、感情は存在するんでしょうか?

すべての感情は、一時的なはずです。

それは確認することができます。

今まで、同じ感情を感じ続けたことはあるでしょうか?

もしそうであるなら、一度でも満足した経験がある人は、今も満足し続けているはずです。

でも、そうではないんじゃないでしょうか?

なので、人は、繰り返し繰り返し、心地良い感情を求めて行動し続けます。

実は、そのこと自体が、ハートの存在を覆い隠します。

もし、あなたが常に思考し続けるならば、あなたは、「私は存在しない」「私は在る」を悟ることはできなかったでしょう。

それと同じことが、感情にも言えるんです。

そして、ハートの存在を知らない人はいません。

意識の存在を知らない人がいないように、ハートの存在を知らない人はいません。

ただ、多くの場合、ハートは、感情によって覆い隠されています。

そして、ハートに触れたとしても、それをそれと気がつけないことが多いです。

最初のうちは、それを、感情の一部だと勘違いするかもしれません。

実際、僕は、ハートから現れる、飽きることのない喜びを、感情の一種だと勘違いしました。

「なんか、根拠もなく良い気分だな〜」ぐらいにしか思いませんでした。

ただ、次第に、それは飽きることのないものだということが明確になってきます。

僕は、ハートから現れる至福のことを、「飽きることのない喜び」と表現します。

それは、実際に飽きることがないということを確認しているから、そう言えるんです。

それを感じた瞬間に、「これは飽きることのない喜びだ!」なんて気がつけるわけがないんです。

世の中には、相手が感じている感覚を、自分のものとして感じ取れる人達がいます。

いわゆる、超能力者、シッディを持つ人達ですね。

僕は、今まで、そういった人達に、3人か4人ほど会ったことがあると思います。

そして、その中の1人の方に、「それは5段階中、2か3だな」と言われたことがあります。

僕にはそういった能力はないので、「なんでそんなことが分かるのか!?」という驚きがあるのですが、ハートの至福というのは、そんな感じなんです。

それは、0でもなく、5でもないんです。

それは、ほど良い感じです。

今、この瞬間も、ハートはここにあります。

それは、Macbookに向かってタイピングすることを妨げません。

散歩をすることも妨げませんし、車を運転をすることも妨げません。

ただ、全力疾走したり、体を激しく動かす時には、体の感覚に覆い隠されるような感じはあります。

また、不愉快なことが起きて、怒りの感情が起こるなら、そのときには怒りに覆い隠されます。

でも、常に、ベースにはこのハートがあります。

これが無いということは考えられません。

このハートこそ、「私は在る」という存在の感覚の源です。

「それも、観察対象なんじゃないの?」って思うかもしれません。

確かにそうなのですが、これを観察対象と呼ぶには、あまりにも身近すぎる感覚がそこにはあります。

「私は在る」は退屈でしょうか?

ハートとは何かを知る方法はシンプルです。

まさしく、「私は在る」という感覚にしがみつくことです。

最初のうちは、それが何なのかが分からないかもしれません。

でも、「私は在る」と感じているのなら、それにしがみつくことです。

あれこれと考える必要はなく、意志を持つ観察者として、何もしないことです。

唯一持てる意志は、「私は在る」です。

「それって、すごく退屈そう。。」って思うかもしれません。

実際のところ、退屈に感じる人がほとんどでしょう。

でも、「私は在る」はずなのに、「私は在る」ことを退屈に感じるなんておかしくはないでしょうか?

実は、ハートを覆い隠しているのは、意志を持つ、観察者自身です。

そして、観察者は、自身を、観照者だと勘違いしています。

これは、ほぼ100%だと思います。

僕も、勘違いしていました。

なので、「私は在る」はずなのに、観察者としてのあなたが退屈を感じてしまうんですね。

実は、意識は、体と心に一体化する以前に、その意志と一体化してしまっているんです。

この一体化は、非常に見破られにくいです。

ラマナ・マハルシが、「自我(観察者)は、警察官のフリをして泥棒を捕まえようとする、泥棒のようなもの」と表現するのは、まさしくこのことを言っています。

思考やイメージが泥棒なのではなく、意志を持つ、観察者が泥棒です。

(関連記事:「意志」と「意識」の違いとは?

そして、意志を持つ観察者は、カルマを蓄積しています。

カルマというのは、簡単に言えば、何かせずにはいられない感情的エネルギーです。

カルマは、物事に飽きることによって消滅し、新たな理想を握りしめる(意志を持つ)ことによって増えていきます。

実は、その仕組みは、結構シンプルです。

そして、カルマは、ハートの表面にフタをするようにして存在しています。

それは、目の前の世界に対して、感情的な反応を示します。

そして、世界という対象を掴めないとき、それは退屈として感じられます。

言ってみれば、自我(観察者)、カルマ、感情というのは、同じようなもので、それはエネルギー的なものです。

(関連記事:カルマを消す方法、カルマを積む方法

なので、ハートは常にここにあるのですが、自我(観察者)、カルマ、感情によって覆われていて、なかなかそのことには気がつきにくいです。

意識の存在は、あまりにも明白なのですが、ハートの存在は、なかなか気がつきにくいものがあります。

観察者が、ハートを覆い隠してしまっているんです。

でも、「私は在る」にしがみつくことができるのであれば、段々と、ハートの表面のエネルギー的なフタは、薄くなっていきます。

観察者が、「私は在る」に溶けていきます。

「私は在る」という意志が、「私は在る」に溶けていきます。

そして、次第に、「ハートとは何なのか?」「飽きることのない喜びとは何なのか?」ということが明確になっていくはずです。

「私は在る」は生きられるべきもの。

前回の記事「瞑想にゴール(目標・目的)はあるんでしょうか?」で、瞑想修行を通して、「私は在る」を悟ることの流れみたいなものをお話しました。

おそらく、それは昔から行われている王道です。

この王道を通って、「私は在る」を悟った人は、「私は在る」にしがみつくことは、それほど困難ではないはずです。

そして、意志を持つ観察者として、観照者に気がつかれてしまった経験をしているのであれば、なぜ、「私は在る」にしがみつかなければいけないのかということも、理解できるはずです。

でも、「私は在る」を悟る方法はそれだけではありません。

意識の存在はあまりにも明白なので、それは、突発的に悟ってしまうことがあります。

言ってみれば、アハ体験みたいなところがあります。

僕もひとつ、インスタントに「私は在る」を悟る方法を知っています。

もし、今ここで、完全なる記憶喪失をシミュレーションできるなら、「私は在る」を悟ることができるかもしれません。

完全に記憶が無いのなら、あなたは、「私」という概念すら知らないことになります。

「私は誰?」とすら言えないわけです。

この体が、自分だという認識がそこにはありません。

その時、あなたは誰なんでしょうか?

存在していないんでしょうか?

それとも、存在しているんでしょうか?

場合によっては、こういったことで、「私は在る」を悟ってしまうことがあります。

(関連記事:「私は在る」をインスタントに悟る方法

でも、ハートの場合にはそうはいきません。

「私は在る」にしがみつくことが必須です。

そして、「私は在る」というのは、本当の意味での瞑想です。

それは、観察者不在の瞑想です。

観察者として、瞑想をおこなうことを困難に感じる人に、観察者不在の瞑想はおこなえるでしょうか?

おそらく不可能です。

いとも簡単に、思考やイメージに巻き込まれてしまうはずです。

瞑想する能力というのは、おそらく、人それぞれ、生まれつきのものがあると思います。

例えば、ラマナ・マハルシなんかは、生まれつき、瞑想の能力が抜群だったのだと思います。

自身の死をシミュレーションしただけで、「私は在る」ということと、その存在の感覚は「ハート」にあるということを理解してしまいました。

そして、その後まもなく、アルナーチャラ山へ向かい、そこで、しばらくの間、「私は在る」に没入し続けました。

こういったことは、ラマナ・マハルシだからできたことです。

(関連記事:ラマナ・マハルシの伝記【書籍の解説】

生まれつき、ラマナ・マハルシのような瞑想能力を持つ人は、極めて稀なんじゃないかと思います。

なので、突発的に「私は在る」を悟った人が、そのまま、「私は在る」に留まり続けるのは、難しいかもしれません。

「瞑想修行には意味がない」と言われることもあると思います。

確かに、ひたすら瞑想を続けても、「私は在る」を悟ることはできません。

ただ、それは無意味ではありません。

「私は在る」は悟ることが重要なのではなく、「私は在る」を生きることが重要だからです。

もし、十分な瞑想能力がなければ、「私は在る」を生きることは難しいでしょう。

三位一体の概念図における、非二元論。

キリスト教には、三位一体の概念図があります。

この概念図は、真理を非常に良く表していると思います。

ウィキペディアから図を引用します。

三位一体というのは「父と子と精霊」は、別々に見えるけど、実際のところはひとつのもの「神」と同じだという概念です。

(関連記事:父と子と聖霊【三位一体をわかりやすく解説】

非二元論を真理だとみなすなら、おそらく、この三位一体の概念図と、整合性がとれなくなります。

こんな疑問がでてくるんじゃないでしょうか?

「父が意識で、子が世界(個人)だということは分かるけど、精霊って何?」

「父と子って同じものでしょ?なんで「is not」になってるの?」

「父と神も同じものでしょ?確かに「is」になってるけど。でも、なんでわざわざ2つの概念に分けてるの?」

こう思うんじゃないでしょうか?

もうお分かりかと思いますが、精霊は「ハート」のことです。

そして、この概念図の中で、非二元論というのは「父」のことを指します。

「父」と「子」の関係ですらないんです。

「子」というのは、世界のことを指すのですが、多くの人が思っている世界とは、違う可能性が高いです。

僕も、大いに勘違いしました。

僕は、真理の探求が始まる前に、偶然、ハートとは何かを理解していました。

なので、「私は在る」ということを理解したとき、その存在の感覚がハートにあるということは、非常に明確でした。

でも、僕は満足できませんでした。

いや、満足していないわけではなくて、ほぼ、満足していました。

でも、何かが足りない、何かが欠けているという感覚が消えませんでした。

死への恐怖も、ほとんど消えていたのですが、なにかが足りない、そんな感覚がしばらく続きました。

「世界を超える」ということが何なのかを誤解していたからです。

「私は在る」ということを理解したとき、多くの人は、「私は世界を超えた」と思うはずです。

「私は意識であり、この宇宙すら、この意識の中に内包されている」と思うんじゃないでしょうか?

つまりは、私はすでに世界を超えていると思うわけです。

これは、自我による非常に巧妙なワナです。

あなたは、宇宙を知っているでしょうか?

実際に、宇宙空間に出たことがある人は、宇宙飛行士などの非常に限られた人だけです。

なのに、あなたはどうやって、宇宙が存在していると感じているんでしょうか?

頭の中で、宇宙をイメージすることによってではないでしょうか?

そして、頭の中で、「この意識は、その宇宙を超えている」と思っているんじゃないでしょうか?

でも、実際に起こっていることは、こうです。

あなたが、宇宙を超えていると思っている意識は、あなたの、その、個人的な意識を超えていません。

個人的な意識のことをアートマン、宇宙的な意識のことをブラフマンと呼んだりします。

でも、あなたが想像する、そのブラフマンは、あなたの、そのアートマンを超えることができないんです。

あなたが想像する、そのブラフマンというのは、単なるイメージです。

言ってみれば、ブラフマンは、幻想なんです。

ブラフマンは実在しません。

アートマンが意識のすべてであり、アートマンはブラフマンです。

(関連記事:「私の中に世界がある」ってどういうこと?

このことを理解することは、ある意味、恐怖をともなうかもしれません。

世界は、あなたが思っている以上に小さいということが理解されてしまうからです。

プラネタリウムみたいなものかもしれません。

ドームに映し出される光を、はるか遠くに存在する、星だとイメージするならば、世界は広大であり、無限のように感じられます。

でも、実際のところは、ドームに光が映しだされているだけです。

「世界を超える」というのは、このことに気がついてしまうようなものです。

世界は、実在しているわけではなく、ただ、世界を映し出すための、意識というドームと、その光源たるハートが存在しているだけです。

世界は、意識というドームに映し出された、ハートという光の反映です。

それが「子」です。

「父」だけでは「子」は存在できず、そこには「精霊」が必要になります。

それは、装置のようなものです。

世界という現象を、体験するための装置です。

悟りという現象が起こった時、こういったことが、直感的に理解されるようになります。

私という存在は、この装置そのものであり、世界は、私の中にあります。

私から離れて存在できるような存在は、ありようがありません。

そこには個人は誰もいません。

自分もいないし、他人もいません。

あるのは、装置だけです。

この理解が起こると、世界が実在していることを前提としている、あらゆる認識が崩壊してしまいます。

例えば、輪廻転生。

一体、誰がどこに輪廻転生するんでしょうか?

魂というのは、存在するといえば存在していますが、転生するための世界というのは実在はしていません。

ちなみに、魂というのは、ハートの表面のフタのことです。

世界を変えたい、良くしたいという思いも、その前提が崩れてしまいます。

だって、あるのはこの装置だけです。

世界は実在しているわけではなく、自分にできるのは、自分の中に映し出されるこの世界を、観照することだけです。

もちろん、世界の中の、体を持つ個人としての視点からは、世界を変えられるんじゃないかと思うことができます。

記憶をもとに作られた、世界というイメージの中で、世界を変える活動をすることができます。

それを楽しめるのなら、飽きるまで、それをすることができます。

そうしたいと思うのなら、それを避けることはできません。

でも、必ずしも、そうする必要はないわけです。

この装置は、この装置自身で満たされています。

ここには、常に、飽きることのない喜びがあります。

そして、この装置そのものには、ストーリー性がありません。

ストーリー性がない状態に満足する人は、死を恐れなくなります。

例えば、映像入力がない、バックライトだけがほんのり光っているテレビがあるとします。

その、なにも映っていないテレビに満足する人が、テレビのスイッチを消されることを恐れるでしょうか?

スイッチオフにされても、「あ、スイッチ消したんだ?」ぐらいにしか思わないはずです。

ただ、バックライトが消えただけですから。

でも、テレビに映し出される映画を楽しんでいる真っ最中の人は、突然、テレビのスイッチを消されることを恐れるんじゃないでしょうか?

「ちょっ!待って待って!なんでスイッチ消すの!?」ということになります。

死への恐れというのは、このようなものです。

(関連記事:死の恐怖は、どこからやってくるのか?

体の死を恐れるというよりも、世界を失うことへの恐れがあるんです。

世界と関わることができないことへの恐れです。

でも、世界というのは、ハートの光の反映です。

ハートそのものに留まるなら、世界への執着はなくなっていきます。

そして、この装置も、スイッチオフになることがあります。

熟睡中、死という現象が起こる時。

光源たるハートが、スイッチオフになります。

当然、世界は消えますし、意識も、気がつく対象がなくなってしまいます。

そのとき、そこにはなにも無いんでしょうか?

そんなはずがありません。

何も無いどころか、そこにはすべてがあります。

それが「神」です。

「なんでそんなことが分かるのか?」と思うかもしれませんが、これは、ハートを通じてのみ、直感的に理解することができます。

「神」を体験することはできません。

でも、ハートを通じて、「神」の存在を感じることはできます。

「神」とは、あらゆる潜在性が内包されたデータベースのようなものであり、あらゆる存在の源となる、エネルギー源そのものです。

ハートで感じることができる、飽きることのない喜びというのは、「神」の性質が、意識に気がつかれる対象として、この世界の中で顕在化したものです。

そして、それは「私」です。

このことが理解されると、探求は終わります。

これ以上、なにを探求すればいいんでしょうか?

もう一度、三位一体の概念図を引用します。

本当の意味での非二元論というのは、「父」と「子」は2つに非ずということではなく、円形の部分と、三角の部分は2つに非ずということです。

円形の部分では、父と子と精霊の関係性は「is not」になっています。

この世界という現象の中では、それは別々のもののように感じられます。

でも、父と子と精霊は、この世界という現象を超えた部分では、別々のものではなくて、神そのものであるということです。

世界という現象の中で、世界という現象を超えて、常に実在するのは「神」のみということです。

そして、この世界において、「神」の存在は、「精霊」を通じてのみ感じられるものです。

最初の方で、非二元論というのは、コインの2つの側面のうちの片方を語るようなものとお話しました。

実際のところは、コインは実在するものではなく、コインを超えた実在だけがあります。

そして、コインの2つの側面は、どちらも、実在たる「私」の現れです。

(関連記事:非二元論と不二一元論は違うんですね。。